第八十話「襲撃者」
王宮脇。森林の傍にて、カレンはバルコニーに所在する影が消失したことを確認し、小さくガッツポーズをとる。
その様子を見て、後方にて佇む犬耳エルフが穏やかな表情で手のひらを重ね合う。
「凄い、おめでとうカレン。これでユウトは本物の勇者様になったんだね」
その言葉を耳に入れながら、カレンは嬉しそうに尻尾を振り、頬を染める。
「ユウト……。いっぱいご褒美くれるかな?」
「カレン凄いよ凄い! 今日の夜は、ユウト独り占めにしても良いよ!」
子供のようにはしゃぎながら、エルフはカレンをギュッと抱きしめる。
ようやく終わったのだ。
この世界の頂点に君臨する、異世界から来た帝王こと独裁者秋葉神保。
この手で、その短い生命を絶つことができた。
カレンはひしゃげたカエルを蹴飛ばし、深く長い吐息を漏らす。
刺さってから若干の時間差はあったにしても、完璧に毒は効いたはず。
矢は木を削っただけの即席武器だし、毒はさっき見つけたカエルからとった天然素材。
最初からこうすれば良かった。
わざわざ正面きってぶつからなくても、名乗りを上げずに不意打ちを食らわせれば、こうしてあっけなく終了する。
あれだけ大勢の家臣や戦士を従える帝王でも、生物という概念で言えば他の人間たちとの違いは無い。
どれだけ強固な防御壁を持っていても、どこかしら穴はあるものだ。
カレンは踵を返し、高揚する心を落ち着かせながら森林へとその身を溶かす。
攻撃地点であまり長居をしていると、いずれ発見されてしまう。
幸いエルフや獣人が森林をさまよっていてもとくに目立つようなことは無いため、カレンとエルフは脇目もふらず、一目散に森林を駆け抜けていった。
◇
生命を失った神保は、冷たい床へとその身を投げた。
枯れ木のように脆く、砂山のように無垢な姿。
胸元には念入りに研がれた小枝が刺さっており、傷が泡立っているところから、何らかの毒を撃ち込まれたと推測される。
クリーフは予備ブラウザを総動員させ、神保に撃ち込まれた毒の正体を検索する。
彼自身の体内魔力もガリガリ削られるが、今は自身のことなど気にしている時間など無い。
必ず生き返らせる方法があるはずだ。
神保の爪はまだ桜色を灯しており、唇もまだ鮮やかな色を保っている。
肉体が腐敗の兆候を見せる前に何かしらの処置を施さなければ、取り返しのつかないことになってしまう。
「クリーフさん。何の毒か分かりまして?」
普段とは違い、流石に笑顔を消失させたメシュは、虹彩異色な双眸を見開き怜悧な視線をクリーフに向ける。
良く見ると瞳孔が開いており、腰から生える尻尾はハリネズミのように逆だっていた。
ピョコピョコ跳ねるキツネ耳もピンと天に向かって伸び、両拳は力強く握り締められている。
怒っているようだ。
普段の春風のような雰囲気は感じられず、冷徹な吹雪に包み込まれたかのように空間が冷える。
悪寒を感じるような錯覚を覚え、クリーフは思わずその場で戦慄する。
クリーフはその寒気にも耐え、恐る恐る顔を向けると、弱々しい声でポツリと呟く。
「毒ガエルの皮膚からとれるもののようです。非常に危険な劇物で、毒が回った瞬間、ほとんど苦しませること無く、取り込んだ生物の生命機能を根絶するようですが……」
クリーフの瞳が半瞬間鮮明に閃き、安心感を与えるような声音を発した。
「触れても、伝染や感染などの二次災害は引き起こしません」
「ありがとう。それだけで十分よ」
言い終わるか否か。
穏やかな表情で倒れる神保の胸に手を当てると、メシュの双眸が透き通るような煌きを見せた。
胸元に触れた手には淡く幻想的な光が集結し、瑠璃色をした光の粒が空間を仄かに舞い上がる。
儚げな薄光に包まれ、神保の肉体に精気が舞い戻っていく。
剥がれた皮膚はみるみるうちに修復され、口端を汚す血泡も弾けるように消失する。
刹那。神保の身体がトクンと跳ね、可愛らしく女の子のようなくしゃみをした。
「――シュ、メシュ……」
「神保さん、大丈夫です。私はここにいますよ」
神保の手を握りしめ、安心感のある温もりを与える。
薄く目を開けた神保は暫しの間視線を空虚にさまよわせていたが。
焦点が合ったのか、メシュを見て嬉しそうに口元を緩めると、蚊の鳴くような囁き声で小さく呟いた。
「あ、り……がとう。メシュ」
「心配無いわ。大丈夫、体内魔力がかなり減少しているみたいだけど、今から私が」
そう言って、メシュは神保の身体に覆いかぶさると、白く繊細な指先を遊ばせながら神保の顔を包み込む。
クリーフやメイドたちは静かにその場から退去し、何とも言えない表情をしながら頬を染める。
おそらく魔力の受け渡しをしているのであろうが。
バルコニーからは、甘く愛らしい水滴音と、吐息のように切ない声が穏やかな雰囲気を彩っていた。
◇
カレンが戦場へ戻るのに、そう長い時間を有さなかった。
獣人らしく四つん這いになりながら新緑の絨毯を駆け抜け、暴風の舞い上がる高原へと姿を現す。
ユウトは若干苦戦しながらも、数十人いたメイドたちを十数人にまで減らしていた。
想像するに、誰ひとりとして死亡者を出してはいないのだろうが。
それなりに善戦しているという事実は、一目見ただけでカレンにも理解できた。
総身に暴風を舞い上げたユウトは、容赦なくその身をメイド戦士の華奢な肉体へと激突させる。
魔術防壁が施されているのか、並大抵の身体なら粉微塵に粉砕できるほどの爆風をぶつけても、メイド戦士たちは軽やかにステップを踏み、体勢を立て直す。
時偶ククリナイフが投刃され、ユウトの眉間を捉えるが。
瞬間的にカミソリのように薄く鋭い旋風で相殺し、肉体的被害を被ることは一切無い。
まさに無双。最強の能力である。
何者をも超越する速度に、あらゆる害悪を断裁する旋風。そして、全ての妨害行為を相殺し、弾き返す暴風。
自然現象によって引き起こされる類のエネルギーは、もはや生物の放出する程度の力では到底太刀打ちできない。
ユウトは華麗に身を翻すと、森林の入り口付近で佇む二人の犬耳が視界に入り、総身に微風壁を纏ったまま、二人の傍まで軽やかなステップを踏む。
「カレン、戻ったか」
「ユウト。もう闘う必要は無いわ、それと――あなたたち、もうあなたたちがユウトと闘う必要は無いの。分かったら、命乞いでもして跪きなさい」
腰に手をやり、堂々とした面持ちで鼻を鳴らす。
メイド戦士たちは半瞬間眉間に皺を寄せたが、彼女の表情に嘘やハッタリなどの感情を読み取ることができず、彼女たちは顔を見合わせながら困惑した表情を浮かべる。
無理もない。
突如現れた犬耳獣人に跪けと命令され、そう簡単に陥落するような人々では無いのだ。
だがそれでいて、足が竦んで動かないのもまた事実。
一斉に一固まりになってタコ殴りにすれば、微風を纏う反逆勇者に痛撃を食らわせることもできるのではないか。
否。
動けないのだ。
その中で唯一平常心を保っていたヴィルヘルは、手に持ったナイフをホルダーに仕舞いこむと。
胸の前で腕を組んで仁王立ちをして、悠々とした面持ちで森林脇に佇む三人に視線を送る。
「どういう意味? 何が無駄なのよ、はっきり言ってもらえるかしら?」
普段のまったり系お姉さんからは想像できぬほどに冷徹な声音を発し、見たものを凍り付けそうなほど冷たい双眸を向けた。
カレンはそんなヴィルヘルを一瞥すると、子犬のように鼻を鳴らし、同じく空間を凍結しそうな瞳を向ける。
「死んだわ。前帝王秋葉神保は、私が放った毒矢が肺に刺さって死んだの。触れただけで生命を奪うような劇物だから、天才的な治癒魔術師がいたとしても無駄無駄。だから、あなたたちが護るべき人はもう存在しないの。ここにいる勇者ユウトは、独裁者から世界を救った勇敢な伝説の勇者として名を馳せることになるんだわ」
ヴィルヘルの表情から自信が消えた。
信じられないという感情とともに、その言葉が嘘では無いという直感が彼女の心を支配する。
ヴィルヘルは総身を戦慄させ、その場に腰から崩れ落ちる。
ペタリと女の子座りをして若干顔を上に向けると、救いを求めるかのように口を半開きにして喉を鳴らす。
目は見開き、思考能力を完璧に奪われた。
口の中でブツブツと言葉にならない声を漏らし、目線が自然と下に向く。
ユウトはそんな無残な姿になったヴィルヘルを見やり、安堵した様子を見せると、朗報を伝えたカレンを優しく撫で、エルフにも穏やかな視線を送った。
メイド戦士たちは事実を突き止めるべく、全員その場から王宮へ緊急転移を行い。
戦場には、文字通り誰もいなくなった。
ユウトは三人の犬耳を連れてロキス西方の田舎町へ向かうと、静かな宿屋に足を伸ばした。
期待に満ちた表情を浮かべるカレンは内股気味になり、顔を熟したリンゴのように紅潮させ、先ほどから尻尾をバサバサと振っている。
カリンとエルフはその様子を微笑ましげに眺めると、お互いに顔を合わせて穏やかに笑みを見せる。
この中で一番ユウトを慕っており、今回の戦闘にて一番の功績を掴んだ娘。
通常であれば、二人ともユウトを手放すことを頑なに拒否するであろうが。
今回ばかりは特別だ。ユウトもそれを理解しているらしく、二人二人の部屋を二つ頼んでいる。
移動可能なベッドだったら、壁際に引き寄せて耳を押し当てたい。などと考えながら、二人は普段以上にイチャつくカレンとユウトを別室へと見送った。
夜中。
世界から音を消し去ったかのように静寂しきった空間。
部屋を照らすのは、満天の星と慎ましげな輝きを放つおぼろげな月光のみである。
幻想的な薄暗さの中、カリンとエルフは壁に耳を密着させ、時折吐息のように儚げな甘い声を漏らしていた。
一人相手に夢中になっているユウトとは、どのような表情をしているのだろう。
時折漏れるカレンとは違う声は、きっとユウトのだろうな。
などと。部屋に備え付けのコップが無いことを若干悔やみながら、カリンとエルフはスィートな二人とはまた違った意味で、今宵のメインディッシュを楽しんでいた。
「んはぁ……。ねぇ、カレンは本当に秋葉神保を殺せたの?」
「ん、……え? ああ、えっと、うん。カレンが放った毒矢は確実に秋葉神保の胸を貫いて、そのままパッタリと倒れたわ」
顔を赤らめたエルフは、『興が削がれた』とでも言った様子で甘い声で一鳴きすると、悪寒でも感じたかのように一瞬ブルリと総身を戦慄させた。
「大体さ、何でこう気持ちが高ぶってる時に、そんな憎たらしい独裁者の安否について蒸し返すのよ」
非常に不機嫌そうな顔をしたエルフは、心配そうに俯くカリンに向かって指を突き立てた。
カリンはその湿った指から避けるように顔を動かすと、壁から耳を離して吐息のように呟く。
「だって、そんなあっけなく終わるなら、最初からユウトなんて必要無かったように感じるって言うか。凄く嫌な予感がするのよ、さっきから」
エルフも手を動かすのをやめると、ベッドの上に女の子座りをして、紅潮した体躯を外気に晒し、高揚した精神を冷ます。
お互いにモフモフした尻尾と耳を垂らし、滑らかなお腹周りから下腹部にかけてを舐めまわすように見据える。
毎晩欠かさず行っていたからか、今日だけ無いというのは微妙な寂寥感を覚えるのだ。
だが流石に、目の前にいる犬耳とそのような雰囲気に陥るとは思っていない。
それは双方とも感じていることだ。どれだけ寂しくて心身ともに不満足だとしても、それだけはありえない。
「――っん!」
身体も冷え始め、やっと正常な心を取り戻したと思った刹那。
今までとは比べ物にならないような、甘ったるく高い嬌声が隣の部屋から響いてきた。
カレンの声なのだろうが、その声を出している原因がユウトだと思うと。
「――カリン?」
「も、無理。ユウト預けなければ良かった」
食いちぎる勢いでカリンはシーツに噛み付き、口腔内が切れたのか口端に血塊が付着する。
真珠のように透き通った雫が、鳶色をした美麗な双眸から溢れ落ち、お世辞にも真っ白とは言えないシーツを湿らせる。
傷口に塩でも塗りこまれたか、と思うほどに悲痛の表情を浮かべるカリンに耐え切れず、エルフはカリンの頭を優しく撫でた。
カリンは暫しの間シーツに歯型を付けていたが、流石に自身が起こしている事象がユウトに関して全くの無意味であることに気がついたのか。
可愛らしい尻尾をピクピクと揺らしながら、ふて寝でもするようにエルフへと背中を向けた。
慎ましく玲瓏な輝きを放つ月下にて、二人っきりの天国のような時間は、川のせせらぎのように穏やかに過ぎて行った。




