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第七十八話「兄弟」

 ユウトが放った拳は的確にリーゼアリスの眉間を貫く――はずだった。

 柔らかい肉塊を突き抜け、眼前の魔族は完全に息絶えるはずだった。


 ユウトは右手拳に痛みを感じ、暴風を身に纏いながら軽やかに後方へと弾け飛ぶ。

 右手の皮がペリペリと音をたてながら剥がれ、ドロリとした血液が薄皮内に滲む。

 その痛々しい光景に思わず顔をしかめると、ユウトは何事も無かったかのように治癒魔術を施し、元の綺麗な手へと修復させる。


「――ッ」


 眼前に広がる光景を見やると、瀕死状態だった魔族は、数人の男性たちに抱えられ、幻想的な眩い輝きに包まれている。

 その後光の粒となってこの場から消失し、ユウトは今現在目の前で起こった事実を理解した。


「援軍。……しかも転移魔術で逃げやがった。マジにチキン戦法使うんだな」

「敵軍を罵るだけの戦意は結構。だが(あん)ちゃん、それは時と場合を考えてからの方が、賢明だと思うがね」


 岩のように堅く、丸太のように太い腕。

 歴戦を経験したと思われる威厳のある表情に、頼もしい体格。

 背中には紫紺の布を纏い、堂々とした力強さを感じさせる筆跡で“滅”と書かれている。

 鋼の光沢を持つ大鎌を振り抜くと、彼――ドボル・キルはその肉塊のような巨体をユウトに向けて突進させた。


「――あ、」


 反撃する間も無く後方へとぶっ飛ばされ、ユウトは胃に圧迫感を感じて口を覆う。

 同時に何本か骨が砕けたようだが、折れた鎖骨は瞬間的に治癒魔術を施したため、運動能力に影響を及ぼすことは無い。

 ――だが。


「うぐぇ……」


 流石の治癒魔術でも、こみ上げる不快感を取り除くことはできない。

 血塊の混じった胃の内容物を吐き出し、視界が歪むほどの目眩に襲われる。

 無慈悲にも、ドボル・キルはもう一度大鎌を振りかざすと、地面を蹴り、倒れこむユウトに向かってまたしても突撃をかます。

 肉体に関する傷はどうとでもなるが、これ以上反動を受ければ、戦意消失はまぬがれない。

 ユウトは咄嗟に両手を前方へと突き出し、掌に膨大な量の魔力を一点集中させた。


「ぶっ飛べえぇぇぇぇ!」


 刹那。ユウトの掌から爆風が発動され、前方に広がる物質を一瞬にして削り取った。

 防御を捨てて突撃したドボル・キルの肉体は耐え難いほどの摩擦と竜巻のように超火力の旋風に巻き上げられ、皮膚片や肉片を弾かせながら、後方へと吹き飛ばされる。

 全身を覆っている鎧と筋肉により、肉体が粉々になるということにはならなかったのだが。

 全身を擦過傷や裂傷に苛まれ、熱したトマトソースのように赤々とした血塊を口腔内から吐き出し、ドボル・キルはその場に倒れた。


 ユウトは反動で腰から崩れ落ち、傷だらけで倒れる巨体を一瞥し、安堵したように長い溜息を吐く。

 先ほどの魔族とは違い、正々堂々物理的に攻撃をする漢だった。

 だが、さっき放った業風のように激しい旋風は、眼前に広がる景色を一瞬にして無に返した。

 辺りに陣をとっていた数百人の戦士たちはその場から姿を消し去り、先ほど吐血して倒れた漢も消滅し――。


 ――!


 いない。

 全身から鮮血を噴出しながら、確かにうつ伏せに倒れた一人の戦士。

 肉塊のように崩れ落ちた彼の姿は、ユウトの眼前から姿を消していた。

 ユウトは即座に体勢を立て直すと、総身に暴風を纏い、精一杯目を凝らしながら辺りを見渡す。

 消滅では無い、逃亡したのだろう。

 だが、どうやって、誰が行ったのか。

 確かに彼の背後には、数百人に上る戦士たちが控えていた。だが。

 彼が見渡す先には、先ほどまで集結していた戦士たちの姿は存在しない。


 ユウトは疾風を身に纏い、加速する。

 敵が眼前から姿を消したときに最も危惧するべき事象。それは不意打ちだ。

 背後や頭上から渾身の一撃を打ち込まれては、流石のユウトでも耐えきることができるか、分からない。

 総身を包む暴風は攻撃だけで無く、その身に降りかかる害悪を排除する防御壁にもなる。

 物理だろうが魔術だろうが、一撃程度なら耐えられるだろう。


「俺は加速する」


 地上を彩る草花を根こそぎ喰らいながら、風を司る勇者と化したユウトは、爆風を舞い上げながら戦場を駆け抜ける。

 見晴らしの良い高原を抜け、森林の入り口に差し掛かった辺りで、不意にユウトは立ち止まった。


「何だ、あれ」


 黒豆の集合体。――黒くツヤやかなつぶらな瞳が一斉にこちらを見据えている。

 カエルだろう。

 だが、鮮やかな緑色をした、通常のアマガエルとは否。

 禍々しい雰囲気を醸し出す絶妙な体表をした奇妙なカエル。

 小学校時代、絵の具の時間等に、筆を洗う容器に浮かび上がるような灰色とも似つかない黒に近い混色。

 疾風を身に纏いながらも、ユウトはその場を駆け抜けることを躊躇する。

 元の世界で習ったことがある、ヤドクガエルを思い出した。

 非常に日本と近いこの世界。カエルの生態系までが同様の進化を遂げるかどうか、少年であるユウトには分からないことだが。

 奇妙な色や形状をした生物とは、大抵近寄るとロクなことにならないのがまた事実。


 歩を進めることを躊躇していると、後方から三人の犬耳たちがその姿を現した。

 ユウトの背後から魔弾を撃ち込み、援護射撃を繰り出していた数少ない仲間である。

 彼女たちは立ち止まるユウトに引っ付くと、頬を染めて愛らしい表情を浮かべ、細く滑らかな指先で彼の腰回りを突っつき始める。


 ご主人に褒めてもらいたい飼い犬のような感情。

 妖艶に上目遣いをしては、桜色をした舌を出して愛らしくユウトの手を舐める。

 その行動に若干のくすぐったさを感じ、ユウトは口元を緩めると、精一杯の愛念を見せて甘える三人に、呟くように問いかけた。


「なぁ。あれって、毒とか持ってるか?」


 三人は犬耳をピコピコと揺らし、クンクンと鼻を鳴らしながら一斉に顔を突き出し。


「ふきゅぅ……」


 寸分違わぬ動作で鼻を押さえて顔を背けた。

 確かに生乾きの洗濯物のような独特な臭いが漂っており、ユウトも先程から口呼吸をしていたのだが。

 犬耳たちは暫しの間咳き込むと、涙目で上目遣いをして、ユウトの下腹部を抱きしめながら涙の混じった声音で、


「毒、あるよ。即死級のヤバいやつ。でも、ちょっとやそっとじゃ出ないから、別にここを通るだけなら大丈夫だと思うの」

「どうしたら、毒が出るんだ?」


 一番傍にいるカレンに問いかけると、若干顔をしかめてから、処女雪のように白く繊細な手を突き出し、可愛らしくグーパーを作ってから手を引っ込めた。


「殺してから、搾るの。ギュ~っと、でね、それを矢とか剣とか……ナイフとかに塗って使うのよ」


 ユウトは丁寧な解説を咀嚼し、喉まで理解したところで飲み込まずに、一つの疑問を問いかける。


「搾る時って、毒は大丈夫なのか?」

「流石に魔術を使うわ。物理的な手段で潰したり搾ったら、その瞬間、苦しむ間も無くお陀仏よ」


 相当強烈な劇物らしい。

 ユウトは訝しげな視線を向けると、不意に目を見開き、汚らしく口元を歪めた。


「――ってことは、反撃もされねぇな。最期を華々しく散ることもできない。ほぉ……中々渋い毒じゃないか」


 ユウトは探偵のように顎に手を当て、そよ風のように暖かな微風を身に纏い、三人の犬耳たちの頬を優しく撫でる。

 心地よさそうに目を細める三人を見やり、ユウトは先へ進もうと右足を一歩踏み出した刹那。


「危ないです!」


 瞬間。眼前にカリンが飛び込んだかと思うと、下半身が視界から消失した。

 苦痛に歪んだその口からは粘性な血液がこぼれ落ち、白く濁った双眸は見開いたまま停止する。


 刹那。ユウトは前方へ両手を突き出し、精一杯の体内魔力を噴出させ、真っ二つに裂けたカリンの肉体を元通りに修復させた。

 安堵する暇も与えられない。

 ユウトの脳内に、頭痛を起こしそうになるほどの警鐘が鳴り響く。

 血液を送り込む心臓も破裂しそうなほどに激動し、鼓動が痛い。

 気を失い、その場に倒れ込んだカリンを庇い、ユウトは総身に暴風を巻き上げて前方に視線を向ける。

 エルフも隣に並び、カレンは後方へと退き、カリンの応急処置に入った。


 何なのか。

 カリンの肉体を一瞬にして断裁した何か。

 先ほど倒した漢の反撃だろうか。

 だとすれば、一体どうやって――。


「流石だな。真っ二つになった亜人を半瞬間の内に回復させるとは」


 ユウトは唇を噛み締め、身に纏う風の層を厚くする。

 不意打ちを食らってしまった。

 何たる不覚であろうか。

 森林から人影が集結し、真っ先に日光の下に姿を表したのは――。


「さっきの、」


 いや、違う。

 岩のような肉体、丸太のように太い腕。

 歴戦を勝ち抜いた鬼のように逞しい表情を見せ、その巨体に似つかわしい大斧を振り抜く。

 腰には鋭利なブーメランのような武器を掲げており、先ほどカリンを断裁した張本人であるということを、この場にいる全員に認識させる。

 実に重圧的な武具を持ち合わせ、頼もしい一歩を紡ぐ。

 先ほどの漢とは否。

 背中に纏う雄々しい布には、烈々たる雰囲気を醸し出す筆跡で“殲”と書かれている。

 手に持つ大斧はひと振りで樹木を倒し、岩をも砕く。

 常人には持つことも許されない、実に重量のある武器である。


 ユウトはその容姿に軽く戦慄しながらも、反射的にエルフを庇うような姿勢をとり、暴風に巻かれた勇者は戦いの準備を調える。

 地上に撒かれた枯葉が巻き上げられ、チリが舞う。

 土埃や砂が漂い始め、彼――ディアブロ・キルの背後に陣をとる戦士たちは、片手間に瞳を拭い始めた。

 やや卑怯だが、この漢と正々堂々ぶつかり合って勝つ見込みがあるかと問われれば否。

 先ほどから休みなく魔力放出を続けているためか、若干の疲労が蓄積され、膝が痙攣し始めている。

 これ以上、無駄に生命を削るような戦いを行いたくは無いのだ。


 暫しの沈黙。

 巻き上げられた外気は乾燥し始め、二人を包み込む空間はもはや眼前をはっきりと見渡すこともままならない。

 だが何としたことか。

 ユウトの目の前に陣取る漢は、まるでこの環境が平凡だと言うように、実に堂々とした面持ちで戦闘体勢を崩すこと無く立ちはだかる。

 自信と威厳に塗り固められた、頼もしい顔つき。

 この漢には、小手先の技は通用しない。そう感じさせるような風貌だった。


「目にゴミとか、入らないのか?」

「ははっ……。王宮騎士の訓練場の模擬砂漠はもっと酷いぜ、訓練終了後、目をやられて視力を失ったやつも大勢いた」


 ユウトの問いかけに、漢は何の気無しに平然と応える。

 並大抵の生活では考えられない。地獄のような厳しい訓練に耐えた、紛れもない“騎士”だ。

 仕方が無い。これは、正々堂々と正面切ってぶつかり合うしか無いのか。


 ユウトは戦慄する足に力を込め、右手拳を振り上げて突撃の準備をする。

 刹那。ユウトは駆け出した。

 この世の全てを巻き上げそうなほど豪快な爆風が舞い、一人の勇者を最高速度で突進させる。

 地面を削り取り、音を割り、光を弾く。

 まるで局地的に出現した竜巻のように、無垢で破壊的な風貌。

 その行動に、遠慮や迷惑などと言う言葉は存在しない。

 自身の邪魔をする者は問答無用で粉砕する。

 その言葉を体現したような姿だった。


「ああぁぁぁ!」


 ディアブロ・キルは腰にぶら下げた鋼鉄のブーメランを引きちぎると、赤子がガラガラを放り投げるより容易に、いともたやすく鋼鉄の塊を前方へと投げ飛ばした。

 虚空を切り、空間を歪曲させる。

 戦場を駆け抜ける円状のブーメランは即座にユウトへと襲いかかったが、たかが人工物。自然的エネルギーによって作られた暴風を貫くこともならず、摩擦によって雷のような火花が散り、粘土のようにグニャリとひしゃげ飛ぶ。


 ユウトは速度を緩める気配も見せず、厚い空気層を纏いながらディアブロ・キルの肉体へと追突する。

 刹那。耳を引きちぎられるような痛みとともに、鋭い針のような音が響く。

 ディアブロの持つ大斧と、ユウトが纏う旋風が激突したのだ。

 常識を超えた魔術と、常人を超えた肉体の戦闘。

 ディアブロの背後にて乾いた瞳を拭うフリーゼンの弟子たちは、眼前で繰り広げられる闘争を見据え、感嘆し、羨望の眼差しを向けている。

 長年伝説の老師に仕えてきたが、ここまで熾烈な闘いを見たことは無い。


 空間を削り取るような痛々しい音が響き、鋼鉄の大斧が火花を散らしながら徐々に削がれ、切れ味を失っていく。

 時折ユウトを包む暴風から鋭利な旋風が発射され、ディアブロの腕や肩に容赦なく裂傷を刻み込む。

 ディアブロはギリギリと歯を食いしばりながら、必死にユウトの暴風を食い止めようと、地面を踏みしめる足に力を込める。


 体内魔力許容量に制限が無いとは言え、この世に存在する魔力には制限がある。

 まさか湧水のように無限にこんこんと溢れるわけは無かろう。

 で、あればだ。勝利を切り開くことができなくとも、帝王秋葉神保と出会うまでに、反逆勇者にできるだけ無駄な魔力を放出させれば良い。

 それが足止めを任された彼らの覚悟であり、はたまた願いでもあった。


「――ぐ、」


 ディアブロの肉体にも限界が来たらしい。

 カミソリのように鋭い旋風に裂傷を刻まれ、血液とともに体力を蝕まれる。

 大斧を喰らう暴風は一向に弱まる気配も無く、足元の削れ具合から、ディアブロが徐々に押されていることも認識した。

 ドボルは背後に控えているフリーゼンの部下たちによって、王宮へと転送してもらったが、この状況で自分も帰還できるだろうか。


 ディアブロは腰にぶら下げたブーメランを一瞥し、唇を噛み締める。

 煙幕弾でも煙玉でも、何か小手先の道具さえあれば、この場から離脱できそうなものの、あいにくそんな便利な物を持ち合わせてはいない。


 ガリガリと音を立てて削られる武器と肉体と精神力。

 ディアブロは前方から来る脅威を食い止めながら、必死にこの場面からの打開策を思考していた。

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