第七十一話「異世界勇者、子犬たちを愛でる」
――ロキス国から東方に位置する、ゲンキョー・ソウ。
伝説の冒険者アックスは、レータスとクリーフを連れ、自身の実家へと腰を下ろしていた。
長い冒険も一区切りを終え、久しぶりに田舎が恋しくなったのだ。
数日前、秋葉神保が帝王になったお祝いにゲンソウ酒を贈ったのだが。贈ったあとでクリーフに、『神保さんって、確か元世界の法律か何かで、お酒は飲めないのでは無かったですか?』と言われてしまい、自身の軽率な行動にいささか悔やんでいた。
健康そうな歯で干し肉を食いちぎり、アックスは縁側から煌びやかな星空を眺める。
ゲンキョー・ソウは寒冷地だが、その分星が綺麗に見える。
輝かしい満天を仰ぎながらの酒というのも中々乙なものだ。
アックスは前回の失態を反省し、なるべく飲み過ぎないように量を調節しながら盃を満たす。――が。
「いやしかし。今日は二人もいるし、呑みすぎでここで倒れても何とかなるか」
「やめてくれ」
独り言のように呟いただけなのだが、酒の肴を持ったクリーフが嫌悪感たっぷりな声音で告げる。
言葉では“呑むな”と言っているのに、手に持った盆には調理された魚が乗せられており。アックスは口の端を緩めてクリーフを見据えた。
「ハッハッハ。これでは呑めと言っておるのか、呑むなと言っているのか分からんな」
「呑むなと言っているのです。空っぽな胃に酒を淹れると、身体に悪いからで――ああ。もう干し肉を食していましたか」
アックスはうまそうに干し肉にかぶりつくと、盃の中身をグイっと一気に腹の中へと流し込み、実に幸福感溢れる表情をして、雄叫びのように豪快に叫ぶ。
「く、はぁ。やはりゲンソウ酒を超える酒はこの世に存在せん!」
「アックスよ」
酒の余韻に浸っていると。レータスが重々しい声音で、縁側で小さな宴会を開くアックスに歩み寄る。
まるで葬式の帰り道のような陰々とした面持ちで、一枚の手紙を差し出す。
アックスはその様子を訝しげに見据えると、レータスの手に収まる手紙を毟り取るようにひったくり、珍しく真剣な目つきで一字一句漏らさず丁寧に目を通す。
沈黙。アックスからは想像できない状況だ。
まるで歌人が人生最高の句を思いついたかのように、異常なほど真剣な眼差しを
向ける。
クリーフとレータスも思わず身体の動きを停止させる。
まるで金縛りにでも遭ったかのように、総身を全く動かさない。
張り詰めた空気。この言葉を二人は今、身をもって体感している。
「秋葉、神保が……だと、」
アックスはしばし手紙を読み返すと。それを丁寧に折り直して懐に仕舞い、すぐさまその場で立ち上がった。
陶然しきっていた表情は消失し、錆びた歯車同士を掛け合わせたかのように、ギリギリと歯ぎしりを繰り出す。
苦虫を噛み潰し――噛み殺したような表情を浮かべた伝説の冒険者は、驚きのために動けない二人を見渡し、百獣の王が放つ咆哮のように激しい怒号を浴びせた。
「今すぐロキス国に向かうぞ! 支度しろ!」
◇
ジャスミンが王宮に戻ると。王宮外面に数十人の男性たちが集まり、何やら熱心に話し込んでいる。
何を行っているのか。と、庭掃除をしているメイドに問いかけたところによると、王宮が中古住宅なのは生理的不快を感じるので、新しく立て直す計画をしているらしく。
ロキス国の大工に見積もりを頼んでいるらしい。
アックス宛の手紙を送り届け、その旨を神保に伝えようと階段を登っていると、神保の部屋の前に二人の少女が佇んでいた。
一人はジャスミンの双子の妹であるメリロット。
そしてもう一人はミジュルン村から来た元受付嬢メイド、ヴィルヘルである。
二人とも何とも言えない表情を浮かべ、若干顔を赤らめながら壁に寄りかかっているのだが。ジャスミンはこの微妙な静けさに若干の違和感を覚え、胸の前で腕を組んで寄りかかるヴィルヘルに問いかけた。
「ねぇ、あなたたち、何やってんの?」
「ああ。……そのぅ、えっと」
ヴィルヘルは少々顔を赤らめながら、遠慮がちに人さし指で神保の部屋の扉を指差すと、蚊の鳴くようなささやき声で小さく告げる。
「手紙をお渡しした際の言伝を伝えに来たのですが、帝王様は、今その……。お楽しみのようでして」
ジャスミンは音を立てずにソっと扉に寄りかかると、確かに。中から可愛げのある少女のような声と、神保が放っているのだと思われる心地よさそうな声が。防音対策のなっていない部屋から漏れている。
ジャスミンは先ほどの建設会社を思い出し、小さく溜息を着くと。ヴィルヘルの隣に同じような格好で寄りかかり、事が済むのをゆっくりと待つことにした。
どれだけ身体は元気なのですか。などと疑問をぶつけたかったが、一応彼女はメイド(通常ではありえないことだが、格上げされた)であり、神保は雇い主である。
ご主人を困らせるようなことは絶対に言わない。
それだけは、どれだけ仲が良くなっても超えてはいけないラインだと思っている。
ただ。嫉妬心もあり、次にもし可愛がられることがあれば、王宮中に聞こえるように、精一杯甘い声を上げてやろう。などとは思ったりした。
口の端を歪めて何とも言えない笑顔を見せていたヴィルヘルが、突如姿勢をただしたかと思うと。刹那、神保の扉が静かに開け放たれ。
「はぅ!」
顔を真っ赤に染めたアキハが、身体に合ったサイズの特注のメイド服に身を包み、ヨロヨロと千鳥足になりながら退室してきた。
アキハは黒笑顔を見せるメイドたちの姿を恐る恐る見据えた後。ぎこちない動きをしながらも、恥辱のためか、逃げるようにその場から立ち去っていった。
しばしその姿を見送った後、三人はまるで機械のように正確な動作で並んで部屋に闖入すると、ベッド脇の書き物机にドサりと座り込む帝王秋葉神保に深々と頭を下げる。
「帝王様。お手紙のご返事ですが、ここに」
ヴィルヘルは胸元から一枚の手紙を神保に差し出すと、静かに頭を下げてそそくさと退室した。
次にメリロットが一歩前に出ると。半瞬間だけ戸惑ってから、
「えっと。ディアブロ・キル様と、ドボル・キル様ですが、数日の間にここへ到着する、とのことでした」
メリロットはキル・ブラザーズからの伝言や相手の近況報告などを多々話した後。丁度区切りが来たのか、『失礼します』とだけ呟いて軽やかに部屋を退出する。
そして最後、ジャスミンの番が来たので、彼女はスゥと呼吸を整え、淡々と語りだす。
「アックス様と直接会うことはできませんでした。手紙はレータス様に手渡したのですが、その後、了承を得てくださったかは……」
「アックスは必ず来る」
自身の不甲斐なさを省みるように拳を握り締めるジャスミンの言葉を、神保は力強く遮り、口元を緩めて顔をこちらに向ける。
前髪を払い、凛々しい双眸を見せると、神保はジャスミンの肩に温かな手を乗せ、穏やかに言う。
「だから、そんな悲しそうな顔しないで。大切なメイドさんにそんな顔されたら、俺、凄く寂しいな」
「ご主人様……」
ジャスミンの潤んだ瞳と神保の凛々しい双眸が交わされ、お互いに頬を淡い桜色に染めて微笑み合う。
先ほどまで感じていた嫉妬心など忘却の彼方へ弾き飛ばし、ジャスミンは神保に飛びついた。
出発前と同じように構ってもらおうと、ジャスミンは精一杯の猫なで声を出して甘えたが。その様子を見て、神保は残念そうに目を逸らし、吐息のようなか細い声で小さく呟く。
「……ごめん。今日はもう無理かも」
ジャスミンは視線を若干下に向けると、大体のことを理解したのか残念そうに溜息を着き。
神保の肩を掴んだまま、寂しそうに遠い目をした。
◇
カーマ・コン採掘場のとある穴の中から、何やら甘く切ない声が楽しそうに響いている。
土砂や瓦礫を片付けていた反逆残党の一人は、首を傾げ、後頭部をボリボリ掻きながら歩み寄った。
「勇者様ー。何かあったんですか」
「ふきゅぅぅぅぅん!」
疑問に応えたのは、今にも気を失いそうな顔をして絶叫する獣人少女の姿である。
甘ったるく汗ばんだ匂いが充満しており、彼は思わず鼻先を腕で抑え、目を凝らす。
薄暗くて良く見えないが、穴の中では数匹――数人の亜人や獣人、エルフなどが総身を痙攣させながら気持ちよさそうに転がっていた。
しっとりと湿った舌を見せる娘。
白目を剥きかけながら地面を這いつくばっている娘。
恍惚とした表情を浮かべ、壁に身体を預ける娘。
その惨状を目の当たりにして、反逆残党の男は驚愕のあまり思わず後ずさりする。
一瞬の間があって、彼はもう一度目を凝らして穴の中を念入りに見渡すと。
現在進行形で絶叫する獣人少女の背後で、異世界勇者ユウトが一心不乱に身体を揺らしていた。
「ゆ、ゆゆゆ、勇者様!?」
「ああ。この世界の魔術は何て万能なんだろう。自分好みのハーレムを作り放題じゃないか」
彼が見たところによると、ユウトは自身の体内魔力を獣人たちに流し込んでは吸い取り、を繰り返し。無理やり精神を崩壊させようとしているらしい。
どこかから自分好みの獣人少女を転移させ、自我を取り除く。
膨大な量の魔力があるからこそ使用できる、非常に高度かつ大胆な魔術なのだが。
その状況をしばし見据えた後、反逆残党の男はふと何かを思い出したように、恐る恐る呟く。
「……待て。あの、失礼かと存じながらもあえて申し上げますが、勇者様のその魔術ですが。……魔力は如何程使用なされたので?」
また一人獣人少女を果てさせ、ユウトはその無垢な可愛らしい頬を人差し指で突っつきながら、しばしの間沈黙し。
「んー。そんなに使って無いんじゃない?」
「失礼」
反逆残党の男は魔力計を取り出し、犬耳エルフに手を伸ばすユウトの腕を乱雑に掴み、体内魔力を計測させる。
簡易的な画面に浮かんだ数値を視界に入れ、反逆残党の男は驚愕に目を見開き。金魚のように口をパクパクとさせながら、涼しい顔をして犬耳エルフを愛で始めるユウトの姿を見据えると。
まるで火山が噴火でもするかのように、溢れんばかりの怒声を浴びせた。
「俺らが与えた大切な魔力を無駄遣いするな!」
「ふきゅっ……。ふきゅん。きゅぅぅぅぅん!」
そんな悲痛の叫びを完璧に無視し。愛らしい声を上げながら肢体を悶えさせるエルフを抱きしめながら、ユウトは面倒臭そうに反逆残党を見やる。
「良いじゃん。勝手に召喚しといて、これって誘拐罪とかになるんじゃ無いの?」
最もなところを突っ込まれ、思わずたじろぐ。
だが、こんな異世界の学生に丸め込まれるほど、彼だってバカでは無い。
反逆残党の男は頭を抱えて溜息を着くと、まるで捨て犬を見捨てるような視線を向けて『やれやれ』とでも言うように呟く。
「そうかい。だがなぁ、勇者様は知らないだろうが、この世界では体内魔力を完全に失うと生命を維持できなくなるんだよ。すなわちお陀仏だ。魔力の無くなった勇者様なんぞ、俺らには何の興味も湧かねぇ。使いたいだけ使い切ったら、もうそこでバイバイだな」
これは賭けだ。
冷たい言葉を投げかければ、大抵の人間は己の失態に気がつくもの。
その後でまた持ち上げてやれば、誰かに必要とされるというその快感に耐え切れなくなり、完璧に手中に出来る。
彼は心の中で盛大にガッツポーズをとり、汚らしく歪んだ口端を押さえてから身を翻す。
さて。勇者は自分に何と言って救いを求めるのだろうか。と、内心ニヤニヤとしながら背中でユウトの返答を待っていると。
「きゅぅぅん! きゅぅ、きゅぅぅぅっ、きゅぅぅぅぅんんん!?」
「ふはぁ。やっぱ犬耳たん、ちょお可愛いぜ」
実に幸福そうな言葉を背中に浴びせられ。そんな甘美な展開に耐えられなくなった反逆残党の男は、叱られた犬のようにションボリと背中を丸めて採掘の仕事に舞い戻って行った。




