第六十八話「制圧」
ロキス国西方に位置する王宮。
王宮では、ボロ絨毯のようなベストに身を包んだ皇帝が、無精ヒゲに包まれた顎を撫でながらベッドで横になっていた。
キル・ブラザーズに反逆を起こされ、王宮を没落させられた皇帝の側にはもう誰もいない。
彼の手にあるものとは、土地と建物と、一匹の犬耳エルフのみだ。
重臣は全て他国へと逃げ去り、武官たちも故郷へと帰って行った。
皇帝は早くこの座を投げ捨てたかった。
だが後継も存在せず。世界の中心部とも呼ばれるロキス国を、己の独断で勝手に壊滅させるわけにもいかず。
こうして仕事も無く、ただただ部屋に居座るだけの生活を送っているのだ。
「せめて、こいつとの間に子供を授かることさえできれば……」
ベッドの脇で気持ちよさそうに甘い寝息を立てる犬耳エルフを見据え、皇帝は力無く呟く。
人外生物とでは子孫を残すことはできないため、この状況では皇帝に後継ができることは確実にありえない。
そうなれば、彼が死亡すると同時にこの国は崩壊する。
何もしていない、ただ形だけの皇帝だろうとしても、存在するかしないかでは全く違うのだ。
皇帝は何日も取り替えていないシーツの臭いを嗅ぎ、あからさまに顔を歪めると。
弱々しく寝返りを打ち、犬耳エルフの頭へと鼻先を近づける。
――臭かった。
どこかの誰かが『美少女は臭くない』などと言っていたが。どれほど美麗な少女であろうとも、数週間以上入浴していなければ流石に酷い悪臭を放つことは必然である。
鼻が慣れてしまったのか、彼自身の体臭は全く感じないのだが。
エルフ奴隷を嗅いだことで、自身も実は酷く臭うのではないか。という疑問が噴出された。
皇帝は露骨に顔をしかめると、ベッドと一体化した身体を必死に起き上がらせ、愛らしい寝顔を披露する犬耳エルフを抱きかかえると、数週間以上使用していないシャワールームへと足を急がせた。
◇
顔を艶やかに火照らせたアキハをうちわで扇ぎながら、神保は背後に氷のように冷たい視線を感じていた。
お風呂場という湿気のこもる場所。
その上室温はぐんぐん上昇し、さらにお互いの体温も上がっていく。
神保は元の世界でも時折一人で行っていたので、何とか正常でいられたのだが。繊細なアキハの身体は悲鳴を上げ、そのまま浴室で気を失ってしまったのだ。
髪色に負けないくらい頬を染めたアキハを見て、最初満足感を得てしまった自分を、神保は酷く呪いたかった。
事が済んだ後、声をかけても応答が無いことに気がつき、焦燥感に掻き立てられた神保は早急に浴室から退散したのだが。
運悪くその瞬間を萌に発見され、事の次第を全面的に話さなければならなくなったのだ。
「――で、はい。そう言ったわけです」
神保の情けない告白を聞き入れ、萌は酷く寂しそうな表情で神保を見つめる。
実際彼女も、アキハが神保を手に入れたいと思っている事実を知っていた。
ハーレムでも良いから、自分以外の女の子に目移りしてでも、神保と一緒にいたい。と、言っていたことも憶えている。
これは萌の失態だった。
幼馴染かつ初めての相手であれば、これだけで神保は彼女自身のモノになっていると確信しきっていた。それが萌の過ちだ。
帝王を目指す勇者に常識は通用しない。
全人類の頂点に立つべくならば、それだけ大勢の人間に好かれていなければならないのだから――。
アキハはくったりとソファに身体を預け、時折うわ言で『神保ぉ……。凄くヤバい』などと漏らしており。その度に神保が照れくさそうに顔を背ける。
非常に居心地が悪い。
アキハは時偶神保を視界に確認すると、凄く色っぽく愛くるしい表情で微笑みを向ける。
流石真性オタ。心の掴みどころが並じゃない。
三人による言葉のない戦いが繰り広げられていると、普段通り春色笑顔を振りまくメシュが、「あらあら」と呟きながら歩み寄る。
「神保さん、アキハさんのことは他の娘に任せて。あなたは今から行くべきところがあるでしょう?」
神保はアキハを扇ぎながら振り返ると、力強く頷いた。
皇帝に会いに行くのだ。
ポウロ国姫君の配慮によって得た即席の部隊。
没落した王宮を数の力で攻め込み、丸め込む作戦である。
神保はうちわを萌に差し出すと。口元をしっかりと閉め、凛々しい表情をして立ち上がった。
そして頬に手を添えたメシュと向き合うと、お互いに頷き合い、リビングを退出する。
萌はその二つの背中を寂しげに見つめ、小さく手を振って見送った。
「頑張ってね……」
神保たちが外に出ると。背景を塗りつぶすように、藍色の武官服に身を包んだ武官たちが、列を乱すことなく綺麗に佇んでいた。
広大な庭に入りきらず、まだ半分以上の人々が往来に立っているらしい。
一足先にメシュが武官たちに駆け寄ると、合図も何も無しに武官たちは揃って深々と頭を下げる。
ここだけ切り取って見れば、メシュが女帝だと言われても信じられそうだ。
神保がボサッとその様子を眺めていると、穏やかなお姉さん笑顔を振りまくメシュが足早に駆け寄り、鈴の音のように魅力的な声音を発す。
「神保さん、それでは参りましょうか」
「はい」
慎ましげに言葉を発し、メシュと並んで武官たちのもとへと歩み寄る。
この人数をどうやって西方部まで連れて行くのかと、ふと疑問に思ったが。
メシュは庭先に広大な転移魔法陣を丁寧に描き。まるで満員電車のような状況に陥いりながらも、何とか全ての武官と家臣を王宮まで送り届けることができた。
身体の脂が水を弾くため、中々全身の汚れが落ちない。
犬耳エルフも先ほどから腋の下をゴシゴシと念入りに擦っては、鼻先をクンクンと犬のように動かし。顔をしかめ、淡い桜色な舌を出して咳き込む。
排水口へと流れ落ちる水は赤茶けており、直射日光が当たる場所にでも放置した生ゴミのような悪臭を放つ。
しばしの間全身を念入りに洗体していたが、とうとう皇帝も無駄だと気がついたらしく。
まだドロドロと脂が垂れる総身を、透き通るようにお湯が張っている浴槽へ、ゆったりと沈める。
刹那。泥のような垢が大量にプカプカと浮かんできたが。一応洗体が終了した犬耳エルフは、何の躊躇いも無く、その汚い浴槽へとおしとやかに身体を浸ける。
温かく気持ちが良い。
消しカスのようなゴミが浮かんでいるのが何とも不快だが、身体の芯から温まるというのは、やはり心地が良いものだ。
犬耳エルフは幸せそうに目を細めると、繊細かつ豊満なその身体で優しく皇帝を包み込み、甘ったるい香りを放ちながら皇帝の耳に甘噛みする。
ロリポップキャンディでも味わうように、耳たぶを口腔内でしばらく幸せそうにコロコロと転がしていたが。
――!
天が崩れ落ちるような轟音。刹那。何やら大勢の話し声が響き渡る。
皇帝とエルフはお互いに顔を見合わせ合い、忙しなく浴槽から上がると、残っている衣服の中で一番汚れていないものを選んで身につけ。爆音がした方へと、足早に向かっていった。
皇帝が庭まで向かうと。黒々として雄々しい城壁が、見るも無残な瓦礫の山へと姿を化していた。
皇帝は嫌な予感がしながらも、その予感が的中しないことを心から祈り。従順に後に付く犬耳エルフとともに、王宮正面の庭園へと足を運ぶ。
「あらあら。皇帝さん、お久しぶりです」
いた。
彼が今世で一番見たくない顔。頬に手を添えたキツネ耳が、玲瓏な微笑を浮かべて慎ましげに佇んでいる。
そして、メシュの背後から現れたもう一人の勇者を見ると、皇帝は頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
彼が二番目に見たくなかった顔。前髪が異様なほど長い少年、秋葉神保である。
「えっと。こんにちは」
神保の発した挨拶を聞き、皇帝は気怠そうに片手を上げて返答をすると。怯えた目を向ける犬耳エルフを優しく引き寄せ、二人の顔を力無く睨みつける。
「何故、ここに来た」
「あらあら。ロキス国民が王宮を見に来てはいけないかしら?」
皇帝はその嫣然な微笑みを見やり、あからさまにうんざりとした様子を見せ、盛大に溜息を着く。
数年前突如ロキスの王宮に現れ、政治に口を出すだけ出していなくなったキツネ耳異世界人。
皇帝がNAISEI嫌いになった主原因である。
そのようなわけで、通常なら非常に失礼に値する皇帝の行動は、致し方無いことなのだ。
目の前で大きく溜息を吐かれたのだが、メシュは笑顔を崩すこと無く「うふふ」と小さく笑みを漏らすと。
「皇帝さんに、用があって来たんです」
「今度は何の用だ。……もう王宮は没落しきっていて、お前が弄りまわして面白いものなど何も無いぞ」
面倒臭そうに答える皇帝の言葉を片手で制し、メシュは玲瓏な微笑を浮かべたまま慎ましげに下がり。耳に幸福感を覚えるような、透き通るように愛らしい声を放つ。
「皆さん、前へ」
気持ちが良いほどに揃った足音が鳴り響き、皇帝の眼前に次々と武装した兵士が現れる。
突然の闖入者に怯え、犬耳エルフは興味深げに目を見開きながら皇帝の脚をしっかりと包み込んだ。
ズラリと並ぶ膨大な量の兵士たち。
先程からあからさまに不機嫌そうな顔を見せていた皇帝だったが、この時ばかりは口を半開きにして金魚のようにパクパクと開けたり閉じたりしていた。
そして全員がポウロ国の紋章を付けている。
流石の皇帝でも、この状況下では身の危険を感じるしかなく。恐怖に慄いた心情を悟られぬよう歯を食いしばり、拳に力を込めた。
総勢数千人を誇る武官を綺麗に並べさせ終わると、隊長らしき武官が一人一歩前方へと歩み、その隣に神保とメシュが姿勢良く並ぶ。
何をしようと言うのか。
数にものを言わせて皇帝を殺そうとしているのか。
皇帝は煮えたぎる怒りを必死に隠しながら、涙を浮かべて戦慄する犬耳エルフを優しく抱え込み、閻魔大王のように赤々とした目をギョロリと向ける。
「何だ。これ以上、我から何を盗ろうと言うのだ。こいつだけはやらんぞ。我の大切な奴隷であり、唯一の所持物――いや、家臣だ。――勝ち目のない、どんな卑劣な手段を使われようと、我は絶対に屈しない!」
「あらあら」
皇帝の深く情熱的な台詞は、たった四文字「あらあら」で片付けられた。
思わず唖然とした様子を見せていると、メシュは穏やかに微笑み、繊細な指先で皇帝の頬から耳元を優しくなぞる。
くすぐるように指が走り、“そういう感覚”には慣れているはずの皇帝も、思わず口元を緩める。
メシュは心奪われるような微笑みを絶やさず。脂ぎった皇帝の頬を軽やかにタッピングして、まるで誘惑でもするかのように蠱惑的な声音を出し、
「皇帝さん。こんな没落した王宮をお二人で守っていても、いつしかこうやって反勢力に潰されてしまいます。もしそれが、この世界を滅ぼそうとする悪の組織だったらどうしますか? ……意地を張っていても何も変わりません。ここは、私のお話を聴いてもらえませんか?」
うっとりするような歌声のように華麗に言葉を告ぎ、ゆっくりと精神内を蝕んでいく。
心労の塊のような皇帝にとって、メシュが放つ言葉は麻薬的甘美を持っている。
皇帝は突如身体の力が抜け、腰から崩れ落ち、両手を地面に着く。
脂ぎった頬を伝い、汚らしい雫が地面に垂れる。
神保はその様子を見て、全身に悪寒を感じた。
今までメシュが言うことは正しく、人々を純正な道へと導いているのかと思っていたが。この情景を見る限り、自分で道を求めることに気疲れを感じた人々を、半ば強制的に矯正しているようなものだ。
彼女の言葉には甘美な麻薬効果がある。
神保は若干顔を引きつらせ、一つの事実を理解した。
――味方にいると頼もしいけど、絶対敵に回したくない。
メシュの言葉や行動は心の弱い者を精神操作できるのか。もしくは彼女の魔術に“精神操作魔術”でも組み込まれているのか。
神保は知らぬことだったが。彼もロキス国王宮の話は聞いていた。
後継がおらず、現皇帝が座を降りれば、その瞬間ロキスから皇帝はいなくなる。
皇帝がいなくなれば、反乱が起こることは確実だ。
国民が能天気かつ治安が酷く悪いロキス国でそのようなことになれば、妙な輩が頂点に立つのは明らかである。
「うぅ……うぉぉ……」
男泣きに泣く皇帝は、ズルズルと鼻をすすりながら、差し伸ばされたメシュの手を力強く包み込む。
完璧に陥落した。
かつては王座に腰を下ろした一人の漢だったが、何もかもを失った皇帝は、今では一人の男性である。
精神をボロ雑巾のようにズタボロにされ、心労のためか白髪が悍ましい量増えている。
冷え切った心を包み込むメシュの聖母のような言葉は、皇帝の心身ともに安らぎを与えた。
「メシュよ。我はお前のことが嫌い――死ぬほど大嫌いだ。……だが、今回ばかりはお前に感謝している。我に口出しできるほどのNAISEI力があるお前なら、きっとこの国を正しい道へと導くことができるだろう」
「はい。謹んでお受けいたしますわ」
メシュは皇帝を胸に抱きしめ、神保の方へ顔を向けると、心奪われるように愛らしいウィンクをパチコンと決める。
神保は顔を引きつらせながらも必死に口元を緩め、メシュの笑顔に向き合った。
――ああ。何と黒いお方だ。




