第六十四話「暴走猿人」
ミジュルン村付近に位置する森林。
鮮やかな緑溢れる清らかな環境であり。深緑のカーテンを通して映し出される太陽光はキラキラと輝き、まるでシャンデリアに散りばめられた宝石のようである。
そんな幻想的な空間で、現在暴力的な死闘が繰り広げられている。
丸太のような腕を振り回し、雑草を引き抜くかのように樹木を伐採する巨人。
至るところに矢を撃ち込まれ、肢体を切断されたまま転がっているダークエルフの死骸。
ダークエルフが流し、地面に染み込ませた血液の匂いを嗅ぎ、森の奥に暮らしていたはずの暴力動物が闘争本能を宿して現れたのだ。
無慈悲にダークエルフを狩っていた冒険者たちは、瞬く間に狩られる側へと化す。
褐色肌から挽肉を抉っていた慈悲の無い行動。まさに今、自らの力が到底及ばない理不尽な敵から報復を受ける。
土管のように堅く重い一撃が振り下ろされ、逃げようと背中を向けた冒険者一人の右脚が陥没し、地面と一体化する。
鮮血と肉片が飛び散り。冒険者は助けを呼ぶような体勢で、白く濁った双眸を見開いたまま息絶える。
残酷。実に非生産的で生命に対して冒涜的な行為だ。
だが、先程まで冒険者たちが行っていたことと何が違うのか。
森林で慎ましく暮らすダークエルフの幸せな生活を奪い、残虐な方法で掃討する。
人類から見てダークエルフが人外生物という名の“敵”なのであれば、逆もまた然り。
暴走猿人から見た人類とは、穏やかな森林をエルフの血で汚す、真っ先に排除するべく危険分子。
これは森林からの報復である。
「オ、オラ……。あんなのと闘って勝てる気がしねぇ」
ミジュルン村ギルド登録の冒険者チッキンは、茂みの中にその身を隠して淡々と行われる殺戮行為を呆然と眺めていた。
掴みかかられ、地面に叩きつけられる仲間たちの姿を目にしても、チッキンは恐怖のあまり動くことができない。
援軍を呼ぶためギルドに戻ろうともしない。
ただただ起こるべく惨状をその虚ろな双眸に焼き付け、息を殺して暴走猿人を見つめている。
「逃げねぇと。オラもやられっちまう」
チッキンは茂みから逃亡を謀ろうと身体をよじり、その身を新緑の篭から抜き出そうとしたのだが。
衣服の端が枝に引っかかってしまい、茂みから上半身を露出した実に情けない状態で、物理的にも動くことができなくなってしまった。
――!
肉を叩きつけたような鈍い音が背後から響き渡り、チッキンの背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
獰猛なる視線を感じるのだ。
茂みの中で動いたためか、“何かが動く音”を暴走猿人が認識したらしい。
重圧的な気配が徐々に接近する。
喉の奥から絞り出すような呻き声が徐々に大きくなり、背中に生暖かい吐息が浴びせられる。
「た、助けてくんろー!」
チッキンはバタバタともがいたが、その痴態に返事をするものは存在しない。
他の冒険者は虐殺されたか、真っ先に逃走したか。
もしくは――。
チッキンは全身から血の気を失い、ショックのあまり気を失った。
茂みから半身だけを覗かせた、冒険者としては実に情けない格好だったが。暴走猿人に躊躇なる言葉は無い。
相手が無抵抗だろうと、暴走猿人にとって今現在、人類は森の敵なのだ。
暴走猿人が茂みに向かって片腕を振りおろそうとした刹那。
突如。その巨体は右方へと吹き飛ばされた。
「ギャアァウン!」
毛むくじゃらな巨体はそのまま体勢を立て直し、顔を左右に動かして自身を吹き飛ばした“何か”を探す。
「結構でかいなぁ」
「あらあら。動物虐待はあまりよろしい行いでは無いですよ?」
「……何やってんの、あなた」
森林には、三人の冒険者が新たに姿を現している。
前髪が目までかかったいかにも暗そうな少年。
上半身の一部がこの上ないほどに主張している、凛とした表情を向ける女剣士。
片頬に手を添え、春風のように暖かな笑顔を振りまくキツネ耳。
暴走猿人を吹っ飛ばしたのは、少年の放った拳の力である。
幻想的な色をした紫炎を纏うその拳は、鬼でも取り憑いたかのような禍々しい魔力を漂わせている。
チッキンがその様子に見とれていると、突き刺さるように鋭く冷たい声が彼の耳に届く。
「何やってるのよ。そんなところで」
「あ、オラ……抜けなくなっちまってぇ」
チッキンは自身の頭をポリポリと掻くと、いかにも頼りなさそうな笑顔を汚らしく萌に見せる。
その言葉を聞いた萌は、ゴルゴンのように冷徹な双眸でチッキンを貫くと。嘲りの込もった双眸を軽やかに逸らし、
「神保、このバカは放っておいて、とっとと片付けちゃいましょう」
「オーケーだ。萌」
視線を交わし合い、二人の高校生は開けた箇所へと飛び出していった。
息のピッタリ合ったコンビネーションで、双方とも右腕を振り上げながら、ぐんぐん暴走猿人へと突き進んでいく。
「あらあら。今日はとくに仲良しさんで……あら?」
前方へと一歩足を踏み出したメシュは、悠々と森林を駆け抜ける二人の姿を見てその場に立ち止まる。
片手を頬に添えたまま若干戸惑ったような表情を薄く見せ、透き通るように美麗な虹彩異色をそっと開き。
二人の背中を半瞬間一瞥すると。静かに目を閉じて、まるで弟に彼女が出来たことを知ったお姉さんのような表情を向けて、鈴の音のように愛らしい声音を響かせる。
「あらあら。もぅ、人様のお屋敷であんなことしちゃって」
メシュは魔力を溜め込んでいた右手をゆっくりと下ろすと、慈母のように優しげな笑顔でうっとりと二人を見つめ。
「お幸せに」
と、天使のように穏やかな声音で呟いた。
神保と萌は血塗られた戦場を駆け抜ける。
ダークエルフの肉片や冒険者たちの片腕が散乱し、とても正気を保っていられるような状況では無かったが。
二人はお互いに双方の体温を感じ、徐々に減少していく戦意を高ぶらせる。
想いを伝え合った相手と共に強敵と立ち向かう。
この状況こそ萌が望んだ異世界召喚物語であり、神保の思いもまた然り。
お互いに支え合いながら“最強”を倒す。
神保は萌より若干前方へ身体を出すと、そのまま加速魔術を発動させ、暴走猿人の懐へふざけた速度で突っ込んだ。
空間が裂けるような轟音とともに、暴走猿人の体勢が崩れ、目眩を起こしたかのように身体を揺らす。
そのまま前のめりに倒れこみ。若干息が荒くなった暴走猿人は、鮮血に汚された地面へ両手を着いて力無く俯く。
「ごめんね。ちょっと痛いわよ!」
神保より遅れて到達した萌はそのまま暴走猿人の眼前まで駆け寄り、その速度を保ったまま、魔力を込めた右手拳を振り抜いた。
紫色に煌く拳が暴走猿人の側頭部に激突し、猿人の喉から絞り出すような苦鳴が漏れる。
心を抉るような悲痛の叫び声が放たれ、暴走猿人は局地的衝撃を受けたことにより、枯れ枝が風に煽られたように音もなく倒れ込んだ。
顔を苦痛に歪め。粘っこい粘液を鼻から垂らした暴走猿人は、左頬を熟れたトマトのように真っ赤に腫らし、大人しく規則性のある呼吸をし始める。
萌は猿人の胸元に耳を近づけ、多少安心した様子で小さく頷くと。戻ってきた神保と顔を見合わせ、飛び跳ねるようにハイタッチをした。
「神保と一緒に倒せた。私、凄く嬉しい!」
萌は神保の首元に飛びつき、幸せそうに顔をとろけさせながら肩の感触を堪能する。
耳元で甘い吐息を囁かれ、神保は頬を淡い桜色に染めて萌の頭を優しく撫でた。
もはや説明するまでも無い神保の能力が作動し、萌はくったりと全身の力を抜いて神保の胸へと身体を預け、ミルクのように甘い声音を発し、
「また……。今度もしよっか?」
胸に顔を埋めた幼馴染にそんなことを囁かれ、流石の神保でも言葉が出なくなってしまい。
黙ったまま萌の繊細な身体をギュッと抱きしめた。
「いいなぁ……」
メシュに身体を引き抜かれたへたれ冒険者チッキンは、全身を擦過傷にまみれながら、幸福感を醸し出す二人の異世界人を眺めると。空気を汚濁するような汚らしい溜息を着く。
チッキンには彼女はおろか、女友達さえ存在しない。
彼はまだ青春を謳歌すべき年齢ではあるが、持ち前の腰抜け根性のために誰も相手にしてくれないのだ。
チッキンは粘り気のある汚らしい目つきで、傍に佇むメシュを見据える。
清楚そうで愛らしいキツネ耳。
整った顔立ちに、玲瓏な微笑みを絶やさぬお姉さん気質。
ちょっぴり顔を傾けているのも高得点。まさにチッキンが理想とする女性である。
チッキンは澱んだ流し目を向けながら、口元をニマリと緩めてそっとメシュの傍らに擦り寄る。
白目を剥くような上目遣いに、ねたっとした赤茶けた舌で唇をベロリと舐める行動。
温厚かつ人を偏見で見ないメシュでも、流石にこの状況には鳥肌がたった。
「あの、何ですか?」
「お声、かけてくれましたね」
メシュの眼前には、気味が悪い表情をうっすらと浮かべ、何やら挙動不審な行為を続ける冒険者の姿がある。
半身を茂みに突っ込んだままの状態では不憫だと思い、メシュの土魔術を使用して救出したのだが。
お礼や感謝の辞を言うこともせず、何故か腰抜け冒険者は目の前で奇妙な顔をこれみよがしに披露している。
スフィンクスと言ったか。
彼女の頭に浮かんだ情景はそれだった。
広大な砂漠に佇むスフィンクスのような顔をした冒険者が、メシュの肢体を舐めまわすように眺めている。
この状況下で、危機感を感じないはずが無い。
「あの。……もし良かったら、俺と一緒にこのあとどこかに、」
「氷結」
幼子に物質の名称を教えるときのように、春風のように穏やかで丁寧な声音で、悪魔のような言葉を発す。
メシュが人差し指をピッと立てると。譫言を垂れ流す冒険者チッキンは、時を止められたかのように突如行動を停止させ。
銅像のように、自らの力で動くこと無くその場にパタリと倒れ込んだ。
メシュはお花畑のようにうっとりとした笑顔を向け、少女を叱る優しいお姉さんのように温かな声音を使い、穏やかに叱る。
「うふふ。――おいたしちゃ、ダメだぞ?」
チッキンの視界に稲妻のような亀裂が入る。
口と目が凍らされ、動かすことができない。しかもご丁寧に身体の関節を的確に固定させられ、チッキンは開いたままの双眸にキツネ耳が映らなくなるまで、ずっと一人でニヤケ面を晒していた。
◇
「きゃー! ご主人様最高です。今の私なら、もう何だってしちゃいます! さあ、ご主人様。私に何でもおねだりしてください」
暴走猿人を気絶させた旨を伝え、功労者は神保と萌だということが分かると、メイド服を着込んだ受付嬢が、突如甘い声音を発しながら神保と萌をセットで抱きしめた。
何でもここのギルドは、数年前まで目も当てられないほど寂れており、冒険者が誰ひとりとして寄り付かなくなってしまっていたらしい。
そして、先代ギルドマスターの発案により、“受付嬢をメイドさんにしよう”という妙案が、見事通ったのだとか。
その名残で、難関依頼をクリアした冒険者には、メイドさん直々のご奉仕タイムが待っているらしかった。
「ご主人様、お嬢様。今の私はどんなお願いでも全力で尽くすつもりです。私がお気に召さなければ、超ダンディーなおじさま執事もおります。ところで、何になさいますか? 各種紅茶はいつでも取り揃えておりますので!」
神保と萌は唖然とした表情を浮かべてお互いの顔を見合わせている。
二人一度に抱きしめられているので、双方身体が触れ合い、何となく照れくさい。
神保は元の世界でも、メイド喫茶には幾数回か入店したことがあったが、ここまでハイテンションかつ何でもオーケーなメイドさんには会ったことが無い。
萌も同意見である。
萌の父親が描くメイドさんは、もっと“恥じらい”か“蔑みと嘲り”があった。
従順かつ大人しい娘か、切れ長な双眸でじっとりと見つめるどちらかだったが。このメイドさんは萌の管轄外。
どう接することが正解か分からないのだ。
少し遅れてギルドの扉をくぐったメシュは、玲瓏な顔立ちをしたメイドさんに抱きしめられた二人の姿を見て、いつも通り「あらあら」と呟くと。
同じように美麗な笑顔を見せ、春風のように穏やかな声音でちょっとした提案をする。
「とりあえず、人数分のお紅茶もらえるかしら? 走ったら喉が渇いちゃった」
「かしこまりました、お嬢様」
温かなお姉さん笑顔を双方から振り撒かられ、ジメジメと湿っていたギルド内は途端に春の高原のような気候へと早変わりした。




