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第五十一話「出発」

 住人の存在する一階まで足早に戻ろうとしたのだが。階段を降りている途中で、不意に背後から何者かに襟首を掴まれた。

 突然後方へと引っ張られ、神保は階段に足を引っ掛けたものの。後ろから掴む力が予想以上に強く、空中で足をバタバタさせるという情けない失態を演じ、ズルズルと引っ張られるように屋上まで引きずり戻された。


「お姉さんをからかっちゃいけません!」


 アテレコするなら「メッ!」とでも言うように人差し指を立たせ、まだ口の中で油揚げをモゴモゴするキツネ耳さんは、頬を淡い桃色に染めながら小さく「ケフ……」と吐息を漏らした。


「大体。キツネ耳だからって油揚げが好きだとか、単純な発想すぎます。ならメリロさんたちは魚が好きなのですか? それか、皇帝の奴隷さんは肉が好きなのですか?」

「でも嬉しそうに食べて――」

「もう。お姉さんをからかうとこうですよ」


 メシュは親指に人差し指を引っ掛け、デコピンをするような格好をする。

 それでも片頬に手を添え、春色笑顔だから不思議だ。行動とか感情が読めないという点では、ちょっぴり神保としては苦手な部類の人かもしれない。


「ところで、わざわざここまで引きずり戻して……。何かあったんですか?」

「ああ。そうそう」


 メシュは思い出したように口だけで驚いたポーズを作り、衣服を少々はだけさせ、胸元に手を突っ込んで何やらゴソゴソと探り。


「神保さんは、身分証明書かパスポートのような物をお持ちですか?」

「ギルカなら、この間受付嬢のルルシィさんが届けに来てくれましたけど」


 神保はそう言ってポケットから、竹のような素材で作られた“ギルドカード”を差し出す。

 簡素な作りであり、神保自身の写真と名前。そして出身地の部分に『転生者/異世界人』と書かれている以外、何の変哲も無い薄い板である。

 どこぞの魔法的な『モンスター討伐数』や『肩書き』『ステータス』などが自動書き換えされる代物では無く。質素な写真付き名刺のような物なのだが。

 メシュは手渡されたそれをしばらく眺め、小さく頷いて神保の手元に返した。


「それで十分よ。でも一番簡素なやつなのね。古代龍討伐者だって言うから、もっとこうゴージャスなギルカでも使ってるのかと思ってた」

「ゴージャスなギルカって何ですか」


 まさか“ゴールドカード”とか言うまいな。異世界召喚という時点で十分ファンタジックな体験だが、レベルアップして色や材質が変わるとか、それは流石に無いだろう。

 メシュは胸元を探る手を止め、何やら薄いカードのような物を取り出し。


「私はこの間書き換えしたんだけど」


 メシュは黒いギルカを神保の手に乗せ、「うふふ」と軽く微笑んだ。


 ――これは。伝説の……。


 神保はそのギルドカードをしげしげと眺め、震える手つきでメシュの手元へと帰還させる。

 恐ろしい。あんな物に触れるときが来るとは、異世界召喚を体験した神保でさえも思わなかった。


「ブラックカード……」

「じゃーん」


 パチコンと愛らしいウィンク。どこの世界でも金色の上位種は黒なのか。

 いや、この方なら特注で作らせていてもおかしくは無さそうだが。

 黒い表面に白文字で“メシュ”と書かれていると、何やら政治家的な身分の方と会話しているようで、別の意味で若干鼓動が速まる。


 ブラックカードを扇子のように扱うメシュを見ていると、どういうわけか頭がクラクラしてきたので、神保は「皆のところへ戻りましょう」と溜息のように呟き、いそいそと階段を降りて行った。








「お帰りっ、神保」


 リビングに繋がるドアを開けると、真っ先にアキハとエーリンが飛びついてきた。

 ほんのりと甘い香りが漂い、神保はちょっぴりイケナイ気持ちが湧き上がったが、部屋の中央部でただならないオーラを放つ萌の姿が視界に入り、神保の頭からは妙な煩悩やいかがわしい感情が一瞬で吹き飛んだ。


 続いて春色笑顔なメシュが室内に闖入し。一瞬でこの場の状況を理解したか「あらあら」と、何もかもを見透かしているような微笑みを浮かべた。

 幼稚園児同士の他愛も無い痴話喧嘩を見守る母親のような眼差しを向けられ、自身からこの状況を作り出したわけでも無いのに、神保は若干照れくささといたたまれなさを感じる。

 両側から女の子の温もりと甘ったるい匂いに包まれ、神保の鼓動が徐々に速まっていく。

 とくにアキハ。さっきから神保に“言葉”での熱烈なアピールを続け、幼くあどけない顔を淡い桜色に染めながら、ねっとりとした視線を向けてくる。

 子供っぽいと言えばそうなのだろうが。逆にそのロリフェイスが、ピンクに煌くアキハの髪の毛とマッチして、最高に男心をくすぐるのだ。


「神保。明日から会えなくなっちゃうから、私凄くさみしいな。神保は、私と会えないのは平気?」


 アキハの本領発揮である。

 伊達に深夜アニメを八割方コンプしているだけあり。男の子の甘酸っぱい心を的確に攻め込む言葉遣いや言動を心得ている。

 参考にするものがサブカル文化なので、大衆向きな口説き方かと聞かれれば否定せざるを得ないが。

 同じサブカル文化にどっぷり漬け込まれた神保は、『桃色髪』、『ロリ系』、『甘えっ娘』などの属性には人一倍弱い。

 そして、今まで難聴壁のために抑えていた言動。

 全てを使用できるアキハに隙は無かった。


 その様子を眺め、萌の苛立ちと屈辱は徐々に降り積もっていく。

 だが行動には移さない。ここでまた暴力的な行為に出れば、他の人たちに悪い印象を植え付けてしまう。

 もし神保に“暴力女”などのレッテルを張られてしまったら、お互い気まずく非常につまらない旅になってしまうだろう。

 それだけは避けたい。

 見たところ、神保は女の子の好意を避ける(スルーする)能力の一部が欠落したのだろうと思われる。

 なら自分が何をするべきか。


 簡単だ。今は耐える。この状況で必死に耐え、冒険の途中でチョチョッと神保と二人きりのシチュエーションを作り、精一杯の愛を正面から発射させる。

 オタク的魅力をぶつけるアキハとか、肉体的な魅力を使うエーリンは間違っている。

 純粋純正な男の子は、アニメ系女子にも小悪魔エロ系女子にもなびかない。

 その場に存在することが、もはや空気化している“幼馴染”。

 自分の全てを完璧に受け入れてくれて、遠慮無く付き合える女の子。そういうのに惹かれるはず。

 いわゆる家庭的で温かい女の子に魅力を感じるものなのよ。

 萌は拳をギュッと握り、心の中でメラメラと業火が燃え上がる。


「見てなさい。神保」

「何をじゃ?」


 萌が右を向くと、ゴクウののっぺりした顔とほぼゼロ距離で向き合ってしまい。

 声にならない叫びを上げながら、萌は盛大に後方へとひっくり返った。




 ◇




 神保が目を覚ますと、真っ白な壁と柔らかい日差しが朝を迎えさせてくれた。

 何だか狭苦しく感じる。

 寝巻きが身体に絡みついているような状況で、寝返り一つ打つことができない。

 身体の自由が効かず、首だけで辺りを見渡してみるものの。神保の視界からはここがリビングであることくらいしか認識できないのだ。


「ああ……。あのあとドンチャン騒ぎして、雑魚寝したんだっけ……」


 今日から成り上がりの旅に出ると言う状況下で、冒険の主役である神保は出かける前から全身を筋肉痛に襲われていた。

 何か双方から挟み込まれているような感覚があり。神保は首と黒目を必死に左右へ移動させ、現在己の身体に降りかかっている状況を理解しようとする。


「すぅ……。ふにゅぅ……」


 首を思いっきり右に向け、寝違えたかのように首筋をひねってしまい。首が左側へ曲がらなくなった。


「痛っ……」

「すぅ……えへへ」


 鼻先にまとわりつく甘い吐息。

 視線を若干下方へと向けると。横ポニを解き、あどけない寝顔を惜しげもなく披露するロリ魔術師アキハの姿があった。

 春色な私服が若干はだけ、桜色の唇からはイタズラっぽく柔らかく湿った舌が顔を覗かせている。

 頬を淡いピンクに染め、時折くすぐったそうに笑顔を作り。唇の端っこを艶かしくペロリと舐めとる。

 背筋を指先で撫でられたような感覚がまとわりつき、目の前に眠る桃色の天使が蠱惑的な魅力を醸し出す。

 首の痛みを忘れるほどの愛らしさに、神保の鼓動は速まり、頬が熱くなる。

 神保は思わず、天使の頬を優しく撫でようと手を伸ばしたが。


「あらあら。冒険の前に女の子においたする余裕があるなんて、よっぽど溜まってるのかしら?」


 春風を伴いつつも、相対的に冷ややかな言葉を背後から放たれ。神保はアキハの頬へと伸ばしかけた己の手を引っ込める。

 ついでに顔の方向も戻そうとしたのだが。首筋が張ってしまい、顔だけはアキハと向き合ったままとなってしまった。


「い、いえ。別にそんなことは……。あの、メシュさん?」

「はい。何でしょうか」


 メシュに首筋を治してもらおうと、神保は左手を伸ばして助けを求めようとしたのだが。


「えっと、」

「あっ……! んぅ……」


 伸ばした手の先に、何やら柔らかい膨らみが出現する。

 妙に艶っぽいこの声は、間違いない。まごうことなく萌の声だ。

 右を向いたまま左手を伸ばすのは危険だということが良く分かった。

 左手の柔らかい感触。何かに挟まれて動けない身体。萌の愛らしい声。

 この三つから誘発する事象とは、もはや考えることなく理解できる。


「あらあら」

「ふ、不可抗力です。メシュさん、俺の身体をここから出してもらえませんか? それと、首筋の張りも治していただきたいのですが……」

「ん~……。どうしましょう。無防備な女の子の身体を触っておいて、それはちょっとなぁ。でも、冒険に行く前からそんな状態では困りますもんね」


 メシュの表情は神保から見えないが、見るまでも無い。大方メシュは片頬に手を添えて「うふふ」と微笑んでいるに違いない。


「んしょ」


 メシュに身体を引っ張り出され、神保はようやくアキハと萌による幸せな蟻地獄から抜け出すことができた。




 ◇




 神保が出発の用意をしていると、半分寝かかった萌が目をこすりながら現れた。

 そのままの格好で寝たからか。制服はシワクチャになり、胸元は盛大にはだけている。

 萌のだらしない格好を一瞥し、神保は自身の格好も確認すると。制服のズボンはヨレヨレで、シャツもシワ同士が擦れ合い、ギュイギュイと音を立てていた。

 はっきり言って汚らしい姿だ。

 この格好で外出すれば、十中八九まともに取り合ってさえもらえない。

 下手すると酔っ払いか何かと間違えられて保護されるんじゃ無いかとも思う。

 帝王になるための人望どころか『妙な異世界人が現れた』などと、自分たちの評判がガタ落ちする可能性がある。

 お互いの服装を見て、神保が色々思うことを頭の中で整理していると。春色笑顔を振りまくメシュが、小さなポケットを持って民宿から姿を現した。


「二人とも、出発するわよ」

「あの。こんな格好でいいんですか? 物凄くヨレヨレで、はっきり言って非常に残念な格好なんですけど」

「うん。そのために、先にちょっと寄るところがあるんだ。……それと。エーリンさんに無限ポケットを借りたから、二人とも持ち物はこの中に入れてね?」


 修学旅行で教師に貴重品を預ける時のように、二人は自身の持ち物を渡し。萌は加速魔術の向かい風により振り落とされないよう、神保の右腕に自身の豊満なおっぱいを密着させる。

 だが、メシュはその様子を眺め、「あらあら」と微笑ましそうに視線を向けた後。


「大丈夫よ。加速魔術は使わないから」


 そう言うと。片手を頬に添えたままのニュートラルなポーズで、メシュは無限ポケットから小さな紙切れのような物を取り出した。


「ブラックカード保持者は“遠距離転移魔術”を使うのに、常時許可が下りてるんだ」


 メシュの輝かしいほどに邪気の無い笑顔を見て、神保と萌は顔を見合わせたまま何も言えなくなってしまった。

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