第五十話「闇夜を彩る淡い春風」
リーゼアリスとメシュの間に新しい“愛”が芽生え。
エーリンが設置した防壁を解除させ。
アキハが小さくあくびをして、二人のメイドエルフがキッチンへ新しいポットを取りに戻り。
神保が『やれやれ』と溜息をつき。
ゴクウがさりげなく鼻をほじったところで。
意図せず訪れた沈黙は、瞬く間にとある来訪者の手によって消滅させられた。
「神保!」
泣きはらして真っ赤になった目。同じく若干湿って赤味が差している鼻先。
乾燥してカサカサになった薄い唇。
肩で息をするたびに、後頭部でピョコピョコと華麗に跳ねるポニーテール。
全力で走ったのか息は荒く、床に両手を着いて『はぁ……はぁ……』と色っぽい吐息を漏らす。
ゴールに到達したマラソンランナーのように倒れ込んだ萌を、待ってましたとばかりに颯爽と飛び出した神保が温かく迎え入れる。
その行動に隙が無い。
萌が帰宅して倒れこむわずか数秒の間に、おとぎ話の王子様もびっくりな破格の速度で現れ、何事も無かったかのように優しく抱きしめる。
元からいる住人からしてみれば、日常的に行われている他愛も無い出来事なのだが。
普通で無いこの状況を初めて目の当たりにするゴクウは、サングラスを吹っ飛ばして、ギャグ漫画のワンシーンのように、大袈裟に後方へとひっくり返った。
同じく初めて遭遇したメシュだが。彼女は平然と「あらあら」と、片手を頬に添えてにっこりと微笑む、普段と全く違わない反応で二人を見守っていた。
「おかえり。萌」
「神保、私……私……」
見ているだけで顔が熱くなりそうに熱烈な抱擁。
神保の腕に抱かれ、萌は神保の胸の中に自らの感情をぶちまけた。
嫉妬心や寂しさの感情に苛まれ、壊れた蛇口のように止めどもなく溢れ出る。
神保が身につけるシャツが、薄く透けるほどの涙。
まるで映画のワンシーンのように感動的な一コマに、住人一同、皆思い思いの感情に酔っていたのだが。最高に空気の読めないゴクウが、不意に自らの疑問を口から漏らした。
「ところでメシュよ。冒険の予定じゃと、ワシとメシュに秋葉神保一人でいっぱいいっぱいなんじゃないかのぉ? 流石に四人以上の長旅はかなりの疲労を、」
ゴクウの言葉が言い終わるや否や、メシュは普段通りのポーズに、輝かしいほどに美麗な笑顔を見せ。
「心配無いわ。ゴクウ、あなたは私が戻るまで、ここで働けばいいと思う。見たところ可愛らしいエルフさんが二人で切り盛りしてるみたいだし、男手が一つくらいあった方が良いと思うのよ。それに、ゴクウができる魔術は大抵私か神保さんができるから、私と神保さんと萌さんの三人で行くから何も心配無いわ」
「二、二度も言わなくとも……」
ゴクウはブツクタと口の中で何か呟いていたが、ここで行う反論が全く意味を成さないことに気がついたか。それ以上何かを言うこと無く、赤べこのように黙ったまま頷いた。
メシュはその様子を一瞥し、未だに入り口付近で抱き合う二人へと視線を戻すと。
毎度お馴染み春色笑顔で微笑み。
「――ってわけだから。萌さんと神保さんは、今から出発よ?」
「今から!?」
その発言に食らいついたのは、せっかく仲良くなったリーゼアリス本人だった。
剣を交わしてお互いを知るという、少年漫画風に心を許した二人だったが。やはりどれだけ信頼していても、意見の食い違いとは起こりうる事象なのだ。
華やかな微笑を浮かべるメシュに詰め寄り、リーゼアリスは、まるで子供に悪いことを教え込もうとしている姉のような目線を向け。
「突然現れてかっさらってくだけでも許しがたいのに、それを今すぐですって? 言語道断よ。無許可でヒロイン強奪するとか、あなた魔王か何かなの? ……ああ。魔王は私だった」
攻撃的な口調に住人たちはハラハラした心持ちで見守っていたが、最後の可愛らしいボケのおかげか。一斉に安堵したような溜息が聞こえ、場の空気が多少和やかになった。
リーゼアリスは若干気まずそうに桜色の舌をペロリと出し、コツンと自身の側頭部を叩くと、頬を淡い桃色に染めて神保に上目遣いな瞳を向ける。
その様子を眺めゴクウは「ほほぅ……」などと呟いてニタニタ笑っていたが、突然苦鳴を上げ、親指が手の甲に張り付いた状態で床の上にブッ倒れた。
隣では若草笑顔なメシュが「あらあら」と微笑んでいる。
一見優しそうなお姉さんだったが、神保は絶対この人に主導権を握られ無いようにする。と固く心に誓った。
◇
「どうぞ。エビの鬼柄焼きでございます」
「メシュ様は、お飲み物はどれになさいますか?」
リーゼアリスの希求により、神保と萌の旅立ちパーティのようなものが開かれた。
元が民宿なうえ、現在神保はその名を知らぬ者などいないと胸を張って言えるほどの大富豪であるため。
住人全員でテーブルを囲み、華やかな食事を囲むことができるのだ。
ジャスミンとメリロットが先程から忙しなくキッチンと食堂を行き来しているが、流石に二人にやらせては悪いと言い。メシュとゴクウも二人のお手伝いをしている。
神保は『ここは腕の見せどころ!』と袖を捲くって立ち上がろうとしたが、本パーティの主役がそんなことしてはいけない。と、アキハと萌が必死に抱きしめ、間違っても立ち上がらないようにその場に固定させた。
「神保、好きだよ? 私ずぅっと、神保のこと大好きだった」
「な、ちょっと。アキハ!?」
抱きしめながら爆弾発言を投下するアキハ。
難聴壁が取れたと聞いて、黙っていられるような奥手な嫁どもでは無い。
今まで絶対に届かなかった神保への想いを、全員これでもかというほどぶつけ。珍しく神保は顔を赤らめたまま静かに俯いていた。
幼少時、まるであいさつのように毎日受けた萌からの告白。だがいつからか、“好き”に関する言葉を認識不可能になり、神保の告白耐性はガタ落ちしている。
直接的な愛情表現である“好きという言葉”は、平凡な男子高校生が感じる以上に神保の心をかき回し、幸福感溢れる熱が渦巻き鼓動が速まる。
萌には何が起こっているのか分からない。
神保が聴覚的に認識できるはずの無い言葉で、何故か神保は顔を赤らめ期待に満ちた表情を浮かべている。
嬉しそうに口元を緩め、彼自身の胸に当てた左手がトクトクと早鐘を打っているのだ。
「解せぬ」
理解不能な状況に若干嫌気が差した萌は、神保に詰め寄ったりすること無く。彼女はとりあえず、考えるのをやめた。
これから彼女は、神保と長い長い成り上がりの冒険に出るのだ。企画者であるメシュが、どこまでまわろうと考えているのかは分からないが。
まさか中心街付近をグルッと周って『はい、帰ろう』とはならないだろう。
観光では無いのだ。無限迷宮を二日で踏破した神保との旅とはいえ、世界を一周して人々の役に立つことをする。そして名前と人望を募るための冒険なのだから、そんな簡単に済むことでは無い。
と、言うことは。ここにいるライバルたちが会えない長い期間、神保と二人で一緒に旅ができる。
彼女には元の世界で16年近く積み上げた“幼馴染補正”があった。だが、どの物語でもそうなのだが、召喚先の異世界人とは妙に積極的なのだ。
アキハも惚れたと同時に告白してたし。淫魔だからかもしれないが、エーリンなんて神保にストーカーまがいのことまでしていた。
その行動力と積極性により、何メートルも先を走っていた私は、今にもライバルたちに追いつかれそうな位置まで降下している。
行動的速度で適わないなら、自分だけが動ける時間に、他との差を広げることが重要だ。
――THE:World。私だけの時間だぜよ。
魔術で時を止めることは不可能だったけど、自分だけの時間を作るのは魔術とか超能力に頼らなくても十分可能。
全ては行動力。ラノベ的幼馴染の底力で、全力疾走してやんよ。
顔を真っ赤に染め上げた神保は俯いたまま、「暑いから、ちょっと屋上で風に当たってくる」とだけ呟き。
萌は静かにその背中を見送った。
◇
吸い込まれそうな闇夜に、妖艶な月光がおぼろげに街を照らす。
ヒンヤリした空気が漂い、耳の先が若干痛む。
この世界の季節感は良く分からないが、日本で言うところの春と秋のような感覚に近かった。
神保は民宿の屋上に訪れると、南側の端っこに身体を預け。若干身を乗り出すような格好で、色とりどりに煌く街明かりを遠い目をして眺めることにする。
時折吹く東風が前髪をなびかせ、頬や鼻先の産毛をくすぐった。
しばらくこの景色ともお別れなのか。
ロキス国外と言えば、アックスが住むハクレイ国ゲンキョー・ソウ程度にしか行ったことが無かったが。
これから色々な国々をまわることになるのか。
言葉が通じるかどうか知らないが、アックスやらレータスとも普通に会話可能だったし、多分この言語は全国共通なのだろう。と言うか、そうでも思わないと旅に出るのが怖くなる。
「あら、神保さん」
神保が振り返ると、頬に片手を添えたキツネ耳エルフお姉さんが、春風笑顔を振りまきながら屋上へと姿を現した。
今まで外側から感じていた悪寒が消え去り、身震いを誘発させる東風は、まるで春風のように暖かい。
何か妙なことでもしたのでは無いか。と、神保はメシュを見て訝しげな表情を浮かべたが。
メシュ本人はその心内に気づいたか否か。訓練されたモデルのように艶やかな歩行で神保の脇まで近寄り、肩と肩が触れ合う距離で同じように身を乗り出して中心街に広がる煌びやかな街明かりを眺める。
しばし沈黙が続いたが。メシュは何かを思い出したように、春色笑顔を見せたまま神保の方を妖艶に見つめ、語りかけるように言葉を放つ。
「未知の領域に足を踏み入れるのは、やっぱり怖いかしら?」
「まぁ……。この世界に召喚された時点で、未知なる世界へ足を踏み入れたわけなんで、何とも言えませんかね」
東風が吹くたびに、神保の頬に春風のような甘い香りが漂う。
女性から香る甘い匂いなど、香水かシャンプーと洗剤の匂いだ。と夢を持たない神保だったが、この暖かみのある香りはきっとメシュ本人のものだろう。
人工物的では無く、若葉萌える草原に全身を投げ出したような心地よさ。
根拠は無いが、この人となら安心して一緒にいられる。という感覚を醸し出している。
「あらあら。どうかした?」
思わず横顔を見つめてしまっていたらしい。モフモフしたキツネ耳が揺れ、春色笑顔が神保の顔を覗き込む。
本当……。無邪気なお姉さんって感じなんだよな。
神保は何となくイタズラ心が芽生え、先ほどのパーティ料理からくすねた油揚げの切れ端をポケットから取り出すと。
神保の顔を覗き込むキツネ耳メシュの眼前でチラつかせる。
「いる?」
「はわわわわ……!」
春色お姉さんは、見ているこっちが眩しいくらいの輝かしい笑顔で、星やハートがチラつきそうに目をキラキラさせる。
片頬に添えた手も離し、両腕を前に突き出してワキワキと空間を揉み始めた。
無邪気なお姉さんって言うか、これじゃまるで……。
「はむっ!」
気を抜いた刹那。神保の手から油揚げがかっさらわれ、背後では幸福感溢れる声を上げながら、油揚げにかぶりつくメシュの姿があった。
単純かつベタだなぁ、などと思いつつも。神保の高揚した気持ちも大分冷めたので、油揚げを口元で撫で回すお姉さんを流し目に、神保は屋内へと戻ることにした。




