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幕間「忍び込んだキツネ」

 皇帝が目を開けると、何やら後頭部に柔らかさを感じた。

 何やら恐ろしい夢を見た憶えがあるが、半分以上を忘れてしまったようだ。

 時折頭をモフモフした物が撫で、全身に感じていたはずの痛みは全く無い。

 この世に極楽浄土なるものが実在するのかは分からないが。もし在るなら、もしかするとこのような場所なのではないか。


 幸せな感覚に陥り、皇帝は思わず頬を緩める。

 すると、脂ぎってヌメヌメした頬を、スベスベした“何か”が突っついた。

 小動物を可愛がるようなタッピング。くすぐったいような心地よさに、皇帝は嬉しそうに目を開く。


「誰だ? 我のためにこれほどのご奉仕を行うとは」

「コンコン」


 女性らしく可愛らしい咳が頭上から聞こえ、皇帝は今やっと、自分がどのような体勢なのかを理解した。


 膝枕か。しかも妖艶な大人の女性に。


 このところ皇帝は、犬耳エルフ以外の女性と夜をともにしたことが無かった。

 多忙だったこともあるのだが。一番の理由は、最近皇帝の振る舞いが酷く傲慢であったために、皇帝の部屋へ進んで参るメイドがいなかったのである。


 ロクに入浴もせず。ベッドのシーツはカピカピに乾ききって、しかも腐ったトマトのような臭いがこびりつき。

 犬耳エルフの体毛は何百本も絡みつき、しかも新品同様まで綺麗にしないと怒鳴られる。

 そのためここのところ、皇帝のベッドシーツは二日に一回新品と取り替えていた。



「ご気分はどうですか?」

「ああ、柔らかくて気持ちが良い」


 頭を撫でる尻尾もモフモフして心地良い。それでいて頭の下に敷いてある膝は艶めかしい温もりとスベスベした人肌。

 これを極楽以外に何と呼べば良いか。

 すっかり上機嫌になった皇帝は、久しぶりに感じた幸福感を分かち合いたくなり。

 そばにある鈴を鳴らそうとしたが、長く綺麗な手でパシンと叩かれた。


「お呼びにならなくてもよろしいではありませんか。こうして二人っきりというのも、中々素晴らしい時間ですよ」


 男性をその気にさせる甘ったるくふわふわした猫なで声。

 幸せいっぱいの皇帝は鼻の下がグイーンと、ゴムのように伸びきった。


「あんたの名前を聞かせてくれ。我は今とても気分が良い。思う存分礼がしたい」


 フッと唇が離れた音。


「メシュと申します。皇帝」

「メ……!」


 皇帝は首から上をグリンと傾け、自身を膝枕する張本人の顔を凝視する。

 そこには黄金色の混じった銀髪のキツネ耳エルフが、妖艶な微笑を浮かべながら、尻尾で皇帝の頭をとろけるような手つき――尻尾つきで撫でていた。


 皇帝は慌てて起き上がると、膝枕から必死に転がり落ち。そのまま四つん這いになって狼狽し、部屋の反対側まで逃げ惑った。


「何故お前がここにいる!」

「あらあら、うふふ」


 メシュは片頬に手を当て、天使のように煌びやかな笑顔で応える。

 頭上のキツネ耳がピコピコと揺れ動き、腰に生えた黄金色の尻尾は、まるで喜んでいる犬のようにバサバサと振られていた。

 毛先に絵の具でも塗れば、豪快な絵を一つ描けそうだ。


「我は異世界人が嫌いだと言ったであろうが」


 負け犬が吠えるように叫ぶ皇帝を一瞥し、メシュは頬から手を離さずに。


「あらあら。せっかくお顔の怪我を治して差し上げたのに、それはちょっと酷くありませんこと?」


 邪気を全く感じさせない、春に咲く花のように愛らしい笑顔で『うふふ』と笑う。

 メシュが怒ったり困ったり、はたまた悲しんだりする表情は想像できない。

 皇帝は今までに何度もメシュと出会ったが、一度たりともこのホンワカした微笑みを崩したことは無かった。


 それが恐ろしいと言えば恐ろしいところなのだが。


 皇帝は壁際のソファーに身体を投げ出し、葉巻タバコに火を点ける。

 独特な煙の匂いが部屋中に充満したが、メシュは眉一つ動かさず。太陽のように明るい笑顔で皇帝へと近寄る。


「あらあら。淑女の前でタバコを吸うなんて、皇帝さんはもっと紳士的な方だと思ってましたわ」

「何が淑女だ。鑑定異世界人が」


 喧嘩腰な言葉だが、皇帝の声音には恐怖からなる震えが込められていた。

 メシュが口にした非難の言葉も、色っぽく蠱惑的な風味があればまた違ったのであろうが。

 優しいお姉さんが『仕方無いわねぇ……』とでも言うように放つので、皇帝としても若干気に入らない。

 どうも上から目線に感じてしまう。

 実際そうなのかもしれないが。


 メシュは頬を撫でながら表情一つ変えず。まるで昔話でもするように、ゆったりとした口調で語りかける。


「神保さんを嵌めようとしたんですか?」

「お前には関係無い」


 メシュは『うふふ』と笑顔を絶やさず。部屋のドア付近の壁を眺め、透き通るような双眸を向ける。

 線のように細く微笑んだ瞳は、心の中を直接見通すような冷たい視線へと変化した。

 口元の緩みも無くなり、眉毛もやや釣り上がる。

 皇帝は初めて見るメシュの表情に戸惑いを隠せなかったが、それ以上に皇帝の心を揺さぶったのは。


虹彩異色(オッド・アイ)か、」


 メシュの双眸は二色の光を放ち、カメラレンズのようにパッチリと見開いたまま、顔の角度を移動させる。


「そこに神保さんの身につけていた衣服が擦れた痕跡があります。何らかの事件に巻き込まれ、壁に背中を激突させています」

「ああ。リーゼアリスとか言う元魔王が、アキバ・ジンボを突き飛ばしたんだよ」


 どこぞの道楽社長のように踏ん反り返り、まだ半分も吸いきっていない葉巻を手で握りつぶし。

 カッコつけて消したは良いが。火が完全に消えていなかったらしく、皇帝は無言のまま、火傷したと思われる右手のひらをさすった。

 そこまで聞くとメシュは、何事も無かったかのように虹彩異色の双眸を閉じ。元の癒し系お姉さんな笑顔へと表情を変化させる。


「皇帝は、この後どうなさるんですの?」


 皇帝はソファーに身を投げたまま、ドロのように汚らしい笑顔をメシュへと向けた。


「どうもこうも。俺は今まで通り皇帝として――」


 皇帝の言葉を遮るように、王宮の庭から傭兵たちの悲鳴が響く。

 メシュが大窓から外を眺め『あらあら』などと呟き、頬に手を添えたニュートラルのポーズのまま。皇帝へ愛らしい微笑みを向ける。

 普段と同じ笑顔だが。皇帝は何となく、別の意味を込めた笑顔のように感じた。


「来ちゃったみたいですね」

「来ただと?」


 メシュの意味ありげな言葉が気になり、皇帝は彼女の隣まで近寄ってベッド際の大窓から外を眺めた。

 深緑の絨毯が敷かれた王宮庭では、巨漢が二人、槍を持って応戦する傭兵たちを根こそぎ叩き倒している。

 地面に突っ伏したままピクリともしない者。仰向けになってかろうじて動いている者。情けないことに、這いずりながらも巨漢から逃亡を図る者。

 死亡者は出ていないようだが、深刻な事態であることに変わりは無いようだ。


 柔らかい日差しを受け、煌びやかに輝く芝生は存在しない。

 ズタズタの半殺しにされたボロ雑巾のような傭兵や、落とした“やかん”のようにひしゃげた鎧。そしてベットリと広がるペンキのような血塊。

 気持ちの良い庭が、ひと時にして残虐かつ地獄のような戦場と化した。


 皇帝は恐怖のためか手をカタカタと震わせ。メシュの前だからか至って平静を装い、ベッド脇の鈴を手に取った。


「そ、そうだ。催眠魔術を解除しなければ、な」

「あらあら。催眠魔術は、もうとっくに解かれているようですよ」


 春の日差しのように爽やかな笑顔で放たれたその言葉に、皇帝の心臓は、まるで真冬の湖に放り込まれたラクダのように凍りつく。

 身体の内部から凍結されていくような感覚に、全身が震えて動かせなくなる。

 肺が取り込む呼吸量も減少し。皇帝の呼吸速度が加速し、いわゆる“過呼吸”のような状況に陥った。


「ぐ、ああ、は、あ」

「あらあら。うふふ」


 メシュは片手を頬に添えながら、もう片方の手で優しく皇帝の背中を撫でる。

 細く長くて滑らかな指先の感触を楽しむヒマも無く、視界に霞がかかったように、目の前が薄く真っ白になっていく。

 純白のカーテンをかけられたような視界の霧は、徐々に濃くなり。砂を口に含んだように舌がザラザラし始める。

 方向感覚も無くなり、皇帝はベッドの上に仰向けになって倒れ込んだ。


「あらあら」


 庭で暴れる巨漢をしばらく眺めた後。メシュは、ベッド上で気を失った皇帝に優しく布団をかけ直してから、何事も無かったように柔らかな笑顔で皇帝の部屋を後にする。

 途中通りすがりの騎士たちが、メシュのキツネ耳に興味を持ったようだったが。

 メシュは騎士たちに向けられた色欲的な視線は全面的に無視し、片手を頬に添えたまま、ゆっくりと王宮から退去した。







 メシュが向かった先には、サングラスに麦わら帽を被った怪しいおじさんが、極魔石オリハルコンでお手玉をしながら待っていた。

 どう見ても亀○人な風貌をしたおじさんはメシュに近づき、至って自然な動きでソっと肩に手を置く。


「メシュ。皇帝は何て言ってた?」

「ん~……。まだ神保くんをどうとかは思って無いみたい」


 言いながら、馴れ馴れしく置かれた手を肩からズリ落とす。

 亀○人は気にせずもう一度肩に手を乗せ、いかがわしい雰囲気を発しながらメシュへと身体を近づける。


「メシュはあれか。そんなにあの神保なる少年が気になるか?」


 その疑問に、メシュは一旦立ち止まり。珍しく頬から手を離した。

 優しい風が吹き抜け、森林の木々がざわざわと揺れる。

 キツネ耳も風を受けてピコピコと揺れるが、メシュはとくに気にする様子も無く。


「この間、中心街ギルドで会ったんだけど。あの子、尋常じゃ無い能力を持って召喚されてる」


 偽亀○人は真っ白に広がるヒゲをつまみ「ふむ」などと言いながら、小さく頷いた。


「あれだろ。女の子でモテモテハーレム作る能力。いいなぁ、ワシだって高校時代にそんな能力があれば今頃――」

「下品で退屈なお話なら結構です」


 春風笑顔からは信じられない、吹雪のように冷たい言葉に一蹴され、麦わら帽子のおじさんは黙って歩き出す。


 しばらく森林を歩くと、メシュが思い出したようにフッと語りかけた。


「世界統一って、異世界でも可能なんですかね」


 麦わらおじさんは、最初それが自分にかけられた言葉だと気がつかず。数秒の後慌てて口を開く。

 だが言葉が出なかったらしく、金魚のように口をパクパクしているところで、春風笑顔のメシュと目が合った。


「金魚の真似事ですか?」

「違う。あー、そうだな。異世界で統一は難しいだろ。何たって、魔王でも何でも統一すれば、それに反感持ったやつが異世界から勇者でも何でも召喚するだろうし。それに、元世界で普通の生活送ってたやつが、突然異世界来たからって偉くなれるとかマジ無いし、」

「やっぱりちょっと黙っててくれる?」


 メシュは機嫌が悪いらしい。

 もう少しフランクに接するか。

 麦わらおじさんは、振りほどかれた手をもう一度肩に乗せ。そして、無慈悲にももう一度振り下ろされた。

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