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第四十三話「ディアブロ・キル」

 真面目な人間が損をする。

 これ以上に共感できる言葉には、未だかつて出会ったことが無い。

 皇帝に仕えて早十五年。禁欲生活を強いられ、生き地獄のような訓練を続けられた。

 万力で締め上げられるような苦痛と、逃げられない恐怖。

 あと少しで水面に顔が出そうなのに、何本もの手に足を掴まれ、必死に手を伸ばしても光を拝むことは許されない。

 彼らは仁義を持って忠義を尽くしてきた。

 皇帝を一番に思い、次に田舎に残してきた家族。そして仲間。

 自分の命を大切に思ってはいけない。と、そう教えられた。

 いつか日の目を見れると思ったのだ。いつか、“自分”という生物の必要さが分かる。と、それだけを思い、潰れるような毎日に耐え、ここまで生きてきた。


 彼の目に映るもの。それは理不尽にも、異世界人が淫魔とエルフに慰められている光景だった。

 不条理だ。爪をはがされるような苦痛に耐えた自身には、あのようなロマンスの体験は許されない。

 だが目の前の男は――たった一つの犯罪を苦に、美麗な女性たちに甘やかされている。


 嫉妬心と憤慨がこみ上げる。


 全身を縛り付ける青白い糸。どうやら怪力で拘束を解くことは不可能らしい。

 彼――ディアブロ・キルは、自身の指先に魔力を溜め、絡みついた糸の端っこを指先で引っ掻いた。


「戦士だって、微量の魔術くらい、使える」


 内蔵を握りつぶされるような“痛み”に襲われ、途切れ途切れの言葉を呟きながら、己の身体を持ち上げる。

 自分の身体とは思えないほどの重量、そしてちょっと動かしただけでこの疲労感。

 身体の内側から何か細菌でも混入されたのか。視界が歪む。

 砂を噛むような思いでようやく身体を起こす。

 目の前の異世界人たちは、まだ彼が立ち上がったことに気づいていない。

 チャンスは今。騎士道精神とか言っている場合では無い。不意打ちだ。

 あの異世界人は妙な能力を持っていた。真っ先に攻撃して、返り討ちに遭うのだけは避けたい。

 淫魔。あいつは後で可愛がってやろう。エルフ――ネコ耳か。犬耳エルフでなければ面白くも何とも無い。


「狙うはエルフだな」


 もはやその顔に“戦士”という言葉は似合わない。

 欲望にまみれた汚らしい笑顔でエルフを見つめると、地面に落ちたトゲだらけの棍棒を拾い上げ――。


「命はもらったぁ!」


 言うが早いか。拾い上げたとほぼ同時の行動である。

 人間業とは思えないほどの超人的跳躍力により、神保が使用する加速魔術並の速度で突進した。

 筋肉の塊がまるで弾丸のように突き進む。

 ネコ耳エルフはまだ気づいていない。呑気に異世界人を抱きしめている。

 普段なら脳の血管がぶち切れる光景だが、催眠魔術により感情を抑えられている彼は、破壊と殺戮の衝動に駆られ、自我は取り除かれていた。


 その幸せに満ちた顔を、この棍棒で歪めてやる。


 ジャスミンの頭上へ棍棒が振り下ろされる。

 刹那。ジャスミンは精一杯の力で、神保とリーゼアリスを突き飛ばした。

 幼い少女程度の腕力しか無い彼女だが、抱きしめ合う二人を突き倒すくらいなら可能だ。

 ジャスミンの細く小さな腕が神保の背中を押し出し、彼女は現在進行形で振りかざされる棍棒と向き合った。


 枯葉が敷き詰められた地面に叩きつけられ、二人はやっと事の次第を理解する。

 だが遅かった。神保の加速魔術を駆使しても、うつ伏せの状態からジャスミンのいる場所までは到底間に合わない。

 神保はリーゼアリスの柔らかな谷間に顔を突っ込んだまま、雇い主として被用者(メイドさん)を守れなかったことに、深い後悔の念が押し寄せる。


「ジャスミン!」

「てぁぁぁぁ!」


 神保の耳に響いたネコ耳エルフメイド、ジャスミンの声。

 だがそれは、断末魔でも苦痛を伴う悲鳴でも無く。気合を込めた戦意の塊のような叫びだった。

 想像と反している叫び声に一瞬戸惑う。

 瞬間。脳に直接送り込まれるような、鈍く鋭い金属音が響き。

 耳の穴に針を差し込まれたような“痛み”を感じ、神保は思わず耳を押さえる。



「ハイキック……?」


 リーゼアリスの眼前では、常人では理解できないような光景が繰り広げられていた。

 言ってしまえば、ジャスミンの脚は色気の欠片もない棒キレである。

 少女らしく艶やかであるかと問われれば、そうともとれるが。大人の力であれば、枯れ木を折るよりも簡単にへし折れるだろう細さだ。

 多分リーゼアリスなら、脚を3本束ねて持ってこられたとしても、いともたやすくバッキリと真っ二つにする自信がある。


 ――その脚が。


 豪快に振り下ろされた棍棒を蹴り飛ばし、互いに物理運動を相殺しているのだ。


 リーゼアリスから確認できることは、まず『ジャスミンは無事である』、『やはり、あの二人は自分たちの敵である』、『この男性は、ジャスミンが施した拘束魔術を解除できる』それともう一つ――、『ジャスミンはメイド服の下に、下着を着けていない』。

 これだけだった。

 ジャスミンがどうやって、その細脚から物理的エネルギーを出しているのか理解し難かったが。

 神保が使う拳魔術のようなものではないか。という結論に到達した。

 魔力を肢体の末端へ溜め込み、一気に放出してエネルギーとする。

 そこに筋力や運動神経は関係無い。必要なのは魔力と反射神経だけだ。



 ディアブロ・キルとジャスミンは互いに見合ったまま、反発し合う物理運動のため、しばらく行動を停止させていたが。

 リーゼアリスが事の次第を理解したことに気づき、若干不利な状況となったディアブロは、先ほどと同じ跳躍を使用して後方へと退いた。


「小娘、エルフのくせに」


 ジャスミンは全てを見通すかのように、冷たく真剣な瞳を向ける。


「私の特技はご主人様の夜伽だけではありません」


 これは“奴隷”としての例えだったのだが。今の言葉を曲解したリーゼアリスは、語るも恐ろしい程の凄まじい形相で神保を睨みつけた――が。

 当の本人はパフパフとした彼女の胸に顔を埋めていたので、その表情は緩やかに消滅して元の嫣然な微笑へと修復された。


「神保、ほら起きて」


 リーゼアリスに頭を撫でられ、神保は“弾力の楽園”から顔を上げる。

 神保の目の前で、彼女は艶めかしい舌を器用に使って、唇の端っこをねっとりと舐め取った。

 薄い桜色をした唇に潤いが取り戻され、よからぬ事を妄想する前に神保はサッと目を逸らす。


「ジャスミンは、ジャスミンは無事か?」

「私は大丈夫です。ですが、」


 刹那。車の衝突事故のような金属音が響き渡る。

 常人では考えられないほどの脚力と瞬発力で、ディアブロ・キルがジャスミンに突進したのだ。

 だがジャスミンは瞬間的に魔力壁を生み出し、物理的衝突を綺麗さっぱりと相殺した。


「私には守るだけで精一杯です」

「分かった。ここは俺が行く」


 言うが早いか神保は腰に差した魔剣を引き抜くと、加速魔術を利用してディアブロ・キルへと突撃する。

 その行動に合わせてディアブロも、神保へ向けて己の身体を突進させた。

 一閃。引き裂かれるような金属音が響き、空間が割れる。

 双方の身体は反動で弾かれ、瞬く間に体勢を立て直すと、一瞬の迷いもなくお互いに己の武器を構え直して突撃する。

 刹那。空が歪曲するような轟音。鉄同士が打ち付けられ、閃光のような火花が散る。

 棍棒が振り下ろされれば、魔剣で弾き返し。魔剣を切り込めば棍棒で跳ね飛ばされる。

 お互いに一歩も退かず、己の力を最大限に駆使してぶつかり合う。


 その速度に、他者が手を出す余裕は無い。

 常人の視覚的反応では、その光を捉えることは不可能だ。

 同速度で跳躍するディアブロの肉体もまた然り。

 物理的最高速度で突進するディアブロ。魔術的最高速度で突撃する神保。

 二人の戦いに割り込むことができる者はこの場に存在しない。


「速い――」


 神保は愕然とした。

 自身の加速魔術と同等威力を、物理的に繰り出せる戦士が存在したのか。


 しかも――。


 神保の右手にうっすらと血が滲む。棍棒に打ち付けられる度、手中で柄が擦れて薄皮が剥けるのだ。

 戦意を消失するほどの痛みでは無いが、魔剣を握る力が若干鈍くなるので、現在神保の方が僅かに不利な状況下にある。


「ウォォォォォ!」


 まるで猛獣の雄叫びだ。

 ディアブロが棍棒を振り回しながら疾走してくる。

 神保は剣の構えが少々遅れ、向かってくる棍棒をその場で打ち付けた。


「ぐ、」


 重力も伴い上から下へと振り下ろされる棍棒に叩きつけられ、神保の手から魔剣が弾き飛ばされる。

 電流を流されたようにジンジンとするしびれを覚え、神保の指先が痙攣する。


「ウァァァァ!」


 無防備な素手を晒してしまった神保に向かって、ディアブロはトゲだらけの棍棒をもう一度振りかざす。

 空間を切り落とすような斬撃音とともに、頭上に降下する確かな“殺気”を感じ、神保は右手を上方へと振り上げた。

 アッパー。いや、チョップに近い動作である。魔力が込められた神保の拳は、鋼鉄で作られた棍棒を上空へと跳ね飛ばす。

 音速という言葉が悲しくなるほどに、ふざけた速度で振り上げられた拳は、そのままディアブロの鼻先を巻き込んで吹き飛ばした。


「ングェェェ!」


 流石の豪傑でも、顔面のパーツを削り取られては正気を保ってはいられない。

 噴水のように発射された鮮血を押さえながら、ディアブロは血塊によって赤黒く染め上げられた顔を神保に向ける。

 筋肉の収縮により作られたシワに血液が流れ込み、岩のような顔を真っ赤に彩った。


「テメェェェェァァ!」


 鬼のような形相とはまさにこのことだろう。

 血塗られた顔面に、めくられた鼻。

 ディアブロが呼吸をするたびに、空気清浄機のような詰まった音がする。

 怒りに任せたボディブローが放たれ、神保の全く鍛えられていない平坦な腹に、ディアブロの岩石のような拳が食らいつく。

 ――が。


「遅い!」


 ディアブロの身体が頭から吹っ飛び、その巨体は後方へと跳ね飛ばされた。

 光速。光とほぼ同じ速度で放たれた神保の拳は、動体視力を極限まで鍛えているディアブロでさえ、視覚的に判断不可能な速度まで加速しており。

 神保の拳が見えた時には、もうその身体は後方へと空を翔けていた。


「あが、は――」


 後頭部を樹木に激突させ、視界が暗転する。

 眼球が弾き飛びそうほどの衝撃を受け、目の前に花火のような火花が散った。

 刹那。腹の中から何かがこみ上げる感覚に襲われる。吐き気では無い。

 内蔵が絞り出されるような不快感とともに、彼の精神を支配していた破壊衝動がスーっと消えていく。

 まるで霧が晴れるように、雨雲が消え去り暖かな太陽が顔を覗かせるように。

 喉を掻きむしりたくなるような苦痛も消滅し、ディアブロの目に精気を感じさせるようになった。


「う、ぐ」


 だが、何かが喉に詰まっている。声が出ない。熱した鉄棒で喉を内側から焼かれているような、熱く鋭い痛み。


 ――吐血した。


 ゴボゴボと溢れ出る血塊で、顔の前に鮮血の絨毯が作り上げられる。

 錆びた鉄片を口に含んだような苦味に襲われ、ディアブロは口腔内に溜まったトマトソースのような血液を体外へと吐き出す。


「――しろ!」


 薄れゆく意識の中、誰かの声が聞こえる。


「――せて!」


 柔らかい少女のような声までが響く。

 ああ。結局、真面目で従順な戦士ってのは、大成しないんだなぁ。


 王宮の戦士であるディアブロ・キルは、微かに残った意識を暗闇の渦へと沈めていった。

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