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第四十二話「森林」

 森林が内部から崩壊される。

 ロキス国西部に広がる一つの森が消え去るのは、もはや時間の問題だった。

 キル・ブラザーズに絶え間なく襲いかかる破壊衝動はとどまることを知らない。

 体内から訪れる不快感は、もう限界まで達している。

 舌を噛み切りたくなるほどの苦痛に、ドボル・キルは喉を掻きむしり始めた。

 首筋に真っ赤なミミズ腫れが作られ、痛みのあまり呼吸ができなくなる。


 ――理不尽だ。


 ただただ大人しく生きてきた自分たちに降りかかる厄災に、キル・ブラザーズはこの世の全てに恨みを持った。


 犬耳エルフの催眠魔術――。与えたものに不条理な怨念を宿らせる。


 キル・ブラザーズは、喉に鉛を流し込まれたかのような呼吸困難に陥り、その苦しみから逃れるため。

 一心不乱に、さらに木々を伐採し始めた。








 秋葉神保は加速していた。

 空中を飛行したり地上を駆けたりと忙しい人だが、仕方無い。

 彼は西部の森林と本日が初対面なので、どんな魔物が生息するかなどの知識が全く無いのだ。

 踏みつけただけで猛毒によって死亡させるサソリや、噛み付かれただけで全身を燃やし尽くすような熱さに襲われるトカゲなどが生息するかもしれない。

 ゲームなどでも、始めて介入する地域ではカメラアングルを駆使して全体像を確認しながら進むのが常識だ。

 だが現実はゲームと違って視点移動が不可能なので、とりあえず面倒な旅路はさっさと通り抜けてしまおう。というのが神保の考えだった。


 先ほど豹変したジャスミンは、怒り狂ったリーゼアリスが放った氷塊の礫が頭に激突し、正気を取り戻したらしい。

 丁重に謝罪し、今まで通り大人しく清楚なメイドとして、神保の三歩後ろに付いてくる。

 だが。やはり視線には、ねっとりとした熱いものが感じられた。


 リーゼアリスの背後にも、黒く冷たい影が出現していたが。彼が今までに見たアニメやラノベでの修羅場回避術を駆使し、怒りが爆発して世界崩壊。などと言った鬼畜仕様にはならなかった。


「ご主人様、何か聞こえませんか?」


 ジャスミンが頭上のネコ耳をピクピクと揺らしながら、絶賛加速中な神保のシャツを引っ張る。

 神保は加速魔術を停止させ、そばに植えられた数本の木々を伐木してやっと行動を止める。

 車は急に止まれない。とは良く言ったものだとジャスミンは今一度納得した。


「どんな音だ?」

「そうですね。今みたいに、バキバキって木を切り倒すような、」


 ジャスミンが言葉を言い終えるよりも先に、彼女から見て前方に位置する、緑のカーテンと化すほどに茂った常緑植物の向こう側から。また、木が切り倒される音が確かに聞こえる。


「伐採職の人とかがお仕事してるんじゃないの? ここ王宮の傍だし、もし違法伐採ならきっと警備隊とかが黙って無いと思うわ」


 リーゼアリスのその言葉に、ジャスミンは探偵のように顎を撫でながら『うーん』と首を傾げる。


「でもチェーンソーとかの音も聞こえないし、一度に切り落とされる木の数が一つか二つっぽいんです。多分王宮の伐採職の方々なら、もっと大勢でお仕事をなさると思います」

「とりあえず、行けば分かるんじゃないか?」


 楽天家な神保はこういう時に便利だ。行動力もあり――後先考えないのが欠点と言えば欠点だが、意見の食い違いなどで立ち往生した状況を打開してくれると言うのは、それぞれ考え方の違う他種族が集まる冒険パーティでは、かなり有用な働きをする。


 珍しく、神保が特殊能力無しで活躍する場面でもあった。


 リーゼアリスが自身のマントを翻すと、内側に縫い付けられたポケットから魔剣を取り出して神保に渡す。

 この先何が起こるか分からない状況だ。

 無敵の異世界人。若々しい元魔王。従順なネコ耳エルフという、完璧なパーティであろうとも、油断は禁物である。

 魔剣を受け取った神保は軽く頷くと、背後をリーゼアリスが守り、その後ろを訝しげに見つめながらジャスミンも付いて行く。

 地面に葉っぱが大量に落ちているので、緑の絨毯を踏みしめるたびにカサカサと乾燥した音がする。

 神保たちは忍者のようにソっと歩行しているのだが、やはり枯葉を踏むと嫌な音が響く。


 ペキッ。


 静かな森林に乾いた音が響き渡る。

 真夜中のように静寂しきったその森に、先程までの伐採音は聞こえない。

 三人はお互いに背中を合わせ、改めて迎撃準備をする。

 魔剣を掲げた神保。腕に魔力を込めたリーゼアリス。両手を伸ばし、魔力壁を出現させるための準備を進めるジャスミン。

 この布陣であれば、どこから攻め込まれても莫大な損害を被ることは無い。

 例え敵が二人であろうと、こちらは三人だ。

 戦闘に活躍できるのは神保とリーゼアリスだけかもしれないが、ジャスミンも自身の身を守ることはできる。

 つまり足を引っ張る者がいないのだ。


 精神を集中させて目を閉じる。

 エルフは視覚より聴覚のほうが発達するのだ。

 目に入るのは彼女自身のまぶたであり、視覚的に認識できるものは何も無い。


 ――息遣い。


 女性的かつ落ち着いた吐息を放つのは、間違い無くリーゼアリスだ。

 乾いた唇を通して出される呼吸音――これはご主人様の物。

 落ち着いて耳を澄ます。木々のざわめきや遠くで吹く風の音は遮断する。

 大事なのは生命反応だ。この場にいる三人以外の生命反応か呼吸音があれば、ほぼ確実に敵はそこにいる。


 集中する。


 自身の呼吸を最低限まで落とし、五感の内聴覚だけに全てを集結させるのだ。

 相手は相当訓練を積んだ戦士と見た。

 クーデターを起こすほどの反乱分子であり、彼女たちが近づいた途端に音を消せるだけの戦闘訓練を積んだ者。

 ちょっとやそっとでは出てこないだろう。


 だがジャスミンには一つ誤算があった。

 王宮に長く仕える戦士たちは、初期訓練の実践はこの森林内で行う。

 そのため、王宮の騎士たちはこの森について誰よりも詳しいのである。

 彼らはジャスミンの行動を茂みの隙間から分析し、鍛錬により培われた高い跳躍力を利用してそばに生える太い樹木を踏みつけ、なぎ倒した。


 ジャスミンにもその音は聞こえる。

 だが彼らは“音”より遥か上空へと飛躍していた。

 ジャスミンは目を閉じたまま、まるで妖艶な舞でも踊るように両腕を振り抜き、樹木を一瞬にしてその場に縛り付けた。


拘束魔術(バインド)!」


 凛としたその瞳から可愛げは消し去られ、この上無い頼もしさがにじみ出される。

 青白い光の糸が樹木をしっかりと縛り付け、ジャスミンは「フゥ」と息を吐き、透き通るように純正な双眸を開いた。


 ――その瞬間を見逃さなかった。


 三人の頭上へ二つの影が降下する。

 片方は荊棘が巻きつけられた棍棒を持っており、もう片方は長く鋭い大剣を振りかざす。

 溢れ出る殺意をむき出しにしたその感情は、その場の三人にもはっきりと感じさせた。

 だが、ジャスミンの拘束魔術発動による安心感と、どの方向から気配が漂っているのか。反応が遅れたのだ。


「上!」


 真っ先に気づいたのは他でも無いリーゼアリスだった。だがその時点でもう影は彼女の眼前まで到達しており、回避行動を起こせるだけの余裕は無い。


「ていぁ!」


 一撃を覚悟したリーゼアリスの視界に閃光が走った。

 太陽のように眩しいその輝きは、そのまま突き抜けると、二つの影を森林内に吹き飛ばす。

 眼球を焼き付けられるような感覚が視界を奪い、リーゼアリスは思わず目をつぶってしまったが。

 今起きた全ての事象を、彼女は全てはっきりと明確に理解した。


「神保!」

「不意打ちとは卑怯なやつらだ」


 渾身の一撃を食らわせた神保は、飛びかかったその先で加速を停止させ、忍者のようにサッと地上へ足を着く。

 音速を超える速度でぶっ飛ばされた二つの影は、物理運動に全く逆らう様子を見せず、後方にそびえ立つ樹木へと全身を激突させた。

 森林全体が揺れ動くような錯覚を覚え、木の葉が数枚ヒラヒラと舞い落ちる。


「ディアブロ・キルか?」


 神保は魔剣の先を差し向け、若干前方へと足を進めた。

 誘拐犯が人質を抱きかかえ、包丁を突き出しているような状態だったが。今この状況ではそれでも頼もしい。

 影が動かないことを確認し、ジャスミンは一瞬背後を振り返る――が、他に伏兵はいないらしく。森林にはまた、静かな時が蘇った。


 ジャスミンは背後の安全を確認すると、前方に崩れ落ちた影に向かって拘束魔術を放つ。

 青白い糸が絡みつき、二つの影と樹木をしっかりと結びつける。

 物理的行動でこの魔術を解くことは不可能だ。

 一度発動してしまえば魔力を送り込む必要も無く。ジャスミンはやっと身体の力を抜き、ゆっくりと神保へと近寄る。


「ご無事ですか?」

「ああ、大丈夫だが――」


 青白い光の糸に拘束された二人は、双方とも筋骨隆々であり、簡単に言えばゴツイ体格をしていた。

 座り込んでいるので正確な身長は分からないが、上半身の割合から察するに、多分2メートル以上はあるだろう。

 アックスと比べても引けを取らない巨体に、神保は思わず息を呑む。


「こいつらがディアブロ・キルか……?」

「どうなのかしら。身分証明書みたいなのも持ってないし、もしかするとただの追い剥ぎとか盗賊かも」

「私の立場で申し上げることでは無いかもしれませんが、追い剥ぎや盗賊程度であれば、あのような身体能力や訓練技法を持ち合わせて無いと思います」


 珍しく淡々と意見を言うジャスミンは、言い終わったあとで姿勢良く半歩下がる。

 両手を前で構え、“従順なメイドさん”を完璧にこなしていた。


 気を失ったまま樹木に縛り付けられた二人を一瞥すると。神保は魔剣を腰に差し、回れ右をして歩き出す。


「とりあえず、あいつらは関係無さそうだな。皇帝が危惧するほどの戦士なら、こんなあっけなく捕縛できるはずは無いだろうし」

「もしかすると、私たちと同じくキルさんを止めに来た刺客かもしれないけどね」


 嫣然とした微笑を浮かべ、リーゼアリスは何の気無しに言ったのだが、既に歩き出していた神保は、突然ピタリと足を止めて振り返った。


「待って。それじゃ、俺らまた犯罪者になっちゃうじゃん」


 神保の声には、不安感や焦燥感からなる震えが混じっている。エーリンを救うために警備隊をボコボコにしたことは、罪悪感として彼の心にまだ突き刺さっているのだ。

 ロキス国中心街では、その後に起きた『無限迷宮』事件の際寄付した大金が功を成し、神保がそれまでに犯した罪咎を咎められることは無かったが。

 ここは中心街の外である。

 王宮が存在する由緒正しい地方であり、きっと法律は特別厳しいに違いない。

 神保の精神を不安感の渦が鷲掴みにする。

 罪悪や不安に駆られ、喉を潰されたように息が苦しくなり、骨がミシミシいうほど鼓動が強くなっていく。


「助けないと、俺はもうあんな感情を抱くのは嫌だよ」

「神保、」


 リーゼアリスはその有り余るほどに豊満なボディで抱きしめ、光沢ある艶かしい腕を神保に絡めた。

 ジャスミンはその光景を見て爆発しそうなほど嫉妬したが。身体の震えが徐々に減少する神保の姿を見ていると、このまま見守ってあげよう。という結論に至った。


「ご主人様、大丈夫です。私が命を賭けてでも、ご主人様を守ってみせます」


 ジャスミンは神保を背中から覆うように抱きしめる。

 ツルペタなネコ耳少女とグラマラスな大人の淫魔。お金で買えない価値を持った感情にサンドイッチにされ、神保が感じていた不安感は少しずつ浄化されていく。

 悲しいときは慰めて欲しい。不安なときは抱きしめて欲しい。生物として当然の欲求を、神保は今まで必死に堪えてきた。

 丁度今許容量を超えただけのこと。温もりと愛情に包み込まれ、神保の心から鉛のように重たい沈痛が涙とともに流れ落ちる。


「神保、」

「ご主人様、」


 温かい一筋の涙を受け止めながら、愛する異世界人に、二人はそれぞれ精一杯の愛念を注ぎ込んだ。

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