第三十一話「混浴」
温泉とは心身に良い効能をもたらす、まさに天地からの恵であり、それは世界が違っても同じことである。
身体の汚れを落とし、疲れを取るお湯に肩まで浸かり、鼻の奥に突く硫黄の臭いを楽しむ――まさに日本の伝統だ。
身体を温めることは身体にとても良いことであり、身体の汚れを取るということは清々しい気分を味わえるという事である。
その両方を同時に行えるというまさに極楽。
温泉とは、言葉がいくつあってもその素晴らしさを伝えることは出来ない。
自宅の狭い風呂とはまた違った雄大さもあり、やはり一度自身の身体で体感することが良いと思う。
神保は温泉の洗い場で身体をささっと洗うと、有無を言わさず湯船に飛び込み衝立の方を向く。
湯船の中で縮こまっていると、シュルシュルと生々しい衣擦れの音が響き、ペタペタと艶めかしい足音が聞こえ――。
「フゥ……」
神保の背後から、萌の甘い吐息が耳に入る。
幼馴染であるからには、もちろん神保は萌とお風呂に入ったことはある。
何度もある。だが、異性を意識するようになり、しかも思春期に差し掛かったところで、この仕打ちはあんまりだと思うのだ。
大抵こういうのは女の子の方から嫌がるはずなのに、(ラノベとかだと顕著である)当の本人は、平然と鼻歌などを歌いながら身体を洗っている。
しかも選曲がニャル○さんとか……。なんたら値がピンチなのは神保の方なのだが。
萌は平然とした面持ちで髪を撫でているが、心内では心臓が飛び出しそうなほど緊張していた。
事実萌が男湯に入ると言った理由の80パーセントは“男湯なら覗かれない”だろうと見越したからであり、10パーセントはちょっとした興味本位である。
残りの10パーセントはご想像通り、『神保と入りたかった』であるが。
「ちょっと危ないかなぁ……」
萌は自身の胸をタオルでギュッと押さえ、自分では完璧“男の子!”という姿を作り出していた。
だが実際は押さえたせいで余計に膨らみ、もし今神保がもののはずみで振り返るようなことがあれば。男の子の希望と欲望にまみれた深紅の液体によって、たちまち湯船は真っ赤に染まるであろう、素晴らしい光景が広がっていた。
温泉で死亡するとかそんな展開は、どこぞの推理ドラマだけにして欲しい。
萌は身体を洗い終えると、濡れた身体に当たる風に耐え切れず無心に湯船に飛び込む。
外気はこれほど冷えてきたというのに、湯船のお湯はまだまだ温かい。
地熱とはここまで便利なのか、と彼女が浴槽の隅を見ると、魔石を持った子鼠が寝転がっていた。
どうやら地熱で温めているというのは半分以上でまかせらしい。
日本ならクレーマーでも密告者でも、気がつけばネットに書き込んだりつぶやいたりしそうなものだが、意外とこの世界は国民の性格は良いらしい。
治安はあまり良くないようだが。
そんな事を考えながら「フゥ……」と溜息をつくと、衝立の向こうから『わぁぁ!』と歓声が上がった。
ここからでは見ることができないが、先ほどの状況から察するにドライアイスの煙が消えたのだろう。
と言うか、エーリンはまだ入浴中だったのか。
同じ女として時折精神を疑う。淫魔は何故そこまでエッチなんだろうかと。普通の人間なら、男女問わず身体を見られることに抵抗を感じるはずだ。
人類が被服を着込むのには色々諸説あるが、その中に『身体を隠す』というのもあった。
萌は何となく、淫魔はリンゴを食べたことが無いのではないかと神話的なことを考えたが、彼女らしく無いと思い、その考えは頭から消し去った。
「神保ー……。上がる?」
一応神保に確認を取っておく。もし出るなら、その時はなるべく外を見ていなければ神保が可哀想だ。
たまに『男は見られてナンボだ!』とか言うおっさんがいるけど、あれはどうかと思う。
性別は違っても同じ人間なんだから、裸を見られる羞恥心ってのは男女問わずあるだろう。
もちろん男の子の身体を見たい方だって、男女問わずいるのではないだろうか。
それなのに、何故か近年のアニメは女キャラの入浴シーンしか出さない。
数少ない需要に応える気が無いのだろうか。
萌は神保からの返事があるまで上記のどうでも良い自説を説いていたが、いくら待っても返事が無いので、『悪いな』と思いながらも、返事を返さない幼馴染が心配になり、そっと浴槽を振り返った。
「神保、ごめん。見るよ?」
ちょっぴり遠慮がちに顔を背けながら身体を神保の方へと向ける。
そして若干躊躇ってから、意を決してバッと振り返った。
「神保!」
「…………」
いなかった。
いつの間に出たのかは分からないが、萌が色々と自分なりにこの世の摂理を考察している内に出て行っていたらしい。
気がつくと外での観衆もいなくなり、混浴の方から漂っていた甘ったるい匂いは消え去っていた。
「何だ……。私ったらバカだなぁ」
己の愚行に恥を知り、萌はザバァと立ち上がると、修学旅行の入浴時間に女子生
徒たちから感嘆と羨望の視線を浴びせられた自慢の胸をポヨンと揺らす。
――さっ。早く二人の元へと戻らないと――。
萌が浴槽から足を踏み出したところで、ドヤドヤと男性の話し声や笑い声が温泉内に響き渡った。
一大事という言葉がある。
これはまさしくそうなのでは無いか、と萌は真っ青になった顔を覆い湯船へと戻る。
状況を整理しよう。
ここは男湯で彼女は女の子。しかも他者からの性的関心が一番高いとされる、ピチピチな女子高生である。
この世界の男性の需要年齢はどの程度か分からないが、まさかロリコンと熟○好きしか存在しないわけは無いだろう。
絶体絶命だ。
淫魔に欲情した男性客が浴場に入ってくる――いや、誰がうまいこと言えと。
萌の場所からは見えないが、衣擦れの音と低い声での笑い声が聞こえる。
彼女は数ヵ月前の事を思い出した。
――あれはある雨の日。
萌は父親の仕事を手伝うために背景原画の色塗りを手伝っていた。
下地を塗るだけだが立派な仕事であり、時給でバイト代ももらうという世知辛い親子である。
数時間パソコンに向かっていた萌の父は、細部の色塗りに疲れてコーヒーを淹れにキッチンへ向かうために部屋を出て行ったのだ。
ここで萌にちょっとした好奇心が芽生え、今現在父親が塗っていた原画を見てみたくなった。
何でもR―18なイラストのため、キャラ原画を任せてもらうことは出来ず。
パソコンも見えない角度で作業をしていたし、彼女の父もまさか自分のいない間に娘にパソコンを覗かれるとは夢にも思っていなかったのだ。
『まさか自分の家に空き巣が入るなんて!』と同じような心情である。
萌は父親のパソコンを開き、付属のペイントツールでは無い高価なインストールソフトウェアを起動させ、たった今保存したばかりのデータを読み込み始めた。
――後はご察しの通しである。
テキストと一緒に出てきたその情景とは、複数の男性と一人のロリキャラが描かれた原画イラストだった。
萌は知っている。
これだけ多勢の男性に囲まれて起こることは何か。
「ヤバい……。もう最悪」
悍ましい情景を思い描き、萌の目から一筋の光が煌めいた。
情けないと思いつつもボロボロ溢れる涙は彼女自身止めることが出来ず、浴槽に溜まったお湯に水滴が落ち、波紋が広がる。
こんな辺鄙な砂漠街で悲惨な終幕を迎えるのか、もしくはどこかに売られてしまうのか。
萌の思考能力が破綻し、精神内を漆黒の闇で塗りつぶされたような感覚に襲われる。
真っ黒な邪悪に包み込まれた萌の心は、ゆっくりと悪い妄想が蝕み、徐々に脆くなっていく。
心の中に浮かぶこと全てが人生の終末であり、彼女の精神内から“希望”が失われた――が。
「うわぁぁぁ!」
脱衣所から低い叫び声が響くとともに、“何か”が萌に向かって突進してくる。
湯気も相まってその姿を解析することは不可能だったが、このような絶体絶命の状況で助けに来てくれるヒーローとは、彼女の頭に一人しか浮かばなかった。
「神保!」
浴槽のお湯が噴水のように跳ね飛ばされ、バスタオル以外生まれたままの姿で湯船に浸かっていた萌を強く抱きしめると、そのまま衝立を破壊しながら突き進み、混浴を突き抜けて女湯へと飛び込んだ。
幸い女湯に入浴客はおらず、萌は色々な意味でポワ~ンとした頭を軽く振り。桃色な妄想ではち切れそうな心情と調子を調える。
触られたし、確実に見られただろう。
だけどそれは愛しの神保なのだ。他の知らない男たちに触られでもすれば、精神がボロボロに砕け散り、電気を消したように真っ暗な日々が訪れるだろう。
「神保なら、別に……」
「ほら、早く服着なさいよ」
二人っきりで女湯に浸かる相手は――愛しの幼馴染秋葉神保では無く、恍惚とした表情を浮かべたエロエロ淫魔エーリンであった。
さっきまでの純情を弄ばれたような気分のせいか、羞恥と怒りによって萌の顔が唐辛子のように真っ赤に染まる。
今にも業火を吹き出しそうな程の顔をして、萌は悠々と湯船に浸かる全裸のエーリンの胸ぐら――大きなおっぱいに掴みかかった。
「何であんたなのよ!」
「神保は男の子だろう? あの後お前を逃がす場所が女湯しか無いって分かった時点で、もう既にこの役目は私と決まっていたんだ」
さも当たり前のように平然と答える淫魔。
ムカつくほど清々しいドヤ顔を披露され、萌は腹の中身が煮えたぎり蒸発してしまいそうなほど激怒したが――。
「まぁ、その……ありがとね? 一応助けてくれたんだし」
「幼馴染でツンデレさんですか~。いやぁ、神保が羨ましいなぁ」
ニヤニヤした笑顔を向けるエーリンだったが、それは『お熱いですねぇ』などの冷やかし言葉では無かった。
まるで『ツンデレとか古いわ。遠まわしな愛は関係を狂わせるだけよ』とでも言うように、攻撃的な語気が含まれている。
硫黄の匂い舞う温かな温泉内で行われる無言の圧力。
女同士裸で語り合うとでも言うかのように、萌とエーリンは互いの想い人を考えながらバチバチと火花を散らしていた。
――一方その頃、当の本人である神保はと言うと。
「遅いなぁ……何をそんなに手間取ってるんだろ」
モーラン街温泉の入口ドアを背にして、暇そうにあくびなどしながら二人を待っている。
先ほどの温泉湯に特種な効能でもあったのか、神保の身体は内側からポカポカと温められるような感覚に包まれ、とても心地が良い。
神保はうっとりと灰色に濁った夜の砂漠を眺めていると、突如背後から声をかけられた。
「兄ちゃん、これいるかい?」
「何だい、そりゃぁ」
不意に目の前に現れたのは、サングラスに麦わら帽子をかぶった怪しいおじさだった。
が、何故か神保は親近感が湧き、おじさんの手に乗った小さな魔石を手にり、しげしげと眺める。
「それはな、極魔石オリハルコンと言って、恐るべし力を持った魔石なのだよ」
「オリハルコン?」
おじさんは頷き、麦わら帽子をかぶり直すと「ワハハ」とだけ笑い、モーラン街の果へと消えていった。
一瞬追いかけようかと手を伸ばしかけたが。刹那。おじさんの姿は目の前から霞が晴れるようにスーっと消えてしまった。
「幻覚か……?」
だが神保の手のひらには、確かに七色に光る綺麗な石がある。
神保はその石を握り締め、ポケットの中へと忍び込ませた。
「何だかよく分からないけど、せっかく貰ったんだからいつか今度使うか」




