第二十八話「予期せぬ再会」
ロキス国最北部に位置する街、フローズン。
街を囲むように連なる山脈のため乾燥地帯となっており、植物なども育たないという環境の悪い土地である。
だが資源は豊富であり、鉱石の発掘現場や精巧な玉石を精製する鍛冶屋などが多く存在した。
さらに武芸者の訓練場としても需要が高く。
広大な土地を埋め尽くす瓦礫や乾燥した地面。そして極魔石オリハルコンが豊富に採れる鉱山も発掘され、現在では修行中の魔術師などが多く住む環境となっていた。
ロキス国北部ローズ・ガイに隠居するリーゼアリスは、神保たちが出発したと同
時にフローズンへと足を運んだ。
ツタだらけの家を出ると、周辺の隣人達に奇異の視線を浴びせられたが。
彼女は悠然と背中から翼を生やし、なめらかな肢体をまるで見せつけるように上空に舞い上がると、悠々と最北部へと滑空していく。
山脈に囲まれたフローズンは、徒歩で行くとなるとかなり準備が必要な冒険となるのだが、空を行けばものの数十分でたどり着く。
欠点と呼べるほどのものでは無いが。背中から翼を出す際、使用者は衣服を身につけてはいけないのだ。
そういう意味ではこの魔術を定期的に使用できるのは、世界中を探しても淫魔しか存在しない。
淫魔以外の生物が全裸で空を駆けていれば、それはもう言葉では言い表せないような大変なことになるからだ。
――有名なことわざがある。
『エルフが翼を生やすとき、それがその者の末路である』
単純に言えば『自分を大切にしろ』だとか『身の丈に合わない行動を起こすと、大抵よからぬ事が降りかかる』などといった戒めだ。
エルフのようにただでさえ襲われやすい種族が、そんな無防備な姿を晒せばたちまち――という意味である。
だが淫魔には関係無い。
リーゼアリスもエーリンと同様人に身体を見られることこそが生きがいであり。何よりも、快楽を感じることができる。
開放的な格好で風を切り滑空する、これ以上の幸せがあるだろうか。
少し高度を下げれば歓声や嬉しそうな悲鳴が聞こえるし、頬を赤らめた男性たちの熱心かつ熱い視線が向けられ、何とも心地良い。
このまま下界に降り立って精力の酒池肉林と行きたいところだが、残念なことに彼女は今急いでいる。
大切な愛娘のために人肌脱ごうと思い、隠居という名のひきこもりから脱出して素っ裸で北へ北へと向かっているのだ。
◇
フローズン、鉱石発掘現場。
首にタオルを巻いた屈強な男性たちが、一斉にツルハシやスコップで鉱山を掘り起こす。
魔石や岩石は大量に出るものの、近年採掘のやりすぎで“極魔石オリハルコン”が採取できなくなってきている。
植えれば成長する作物と違い。元からそこにある物をせっせと掘り出しているのであるから、いつか無くなってしまうのは必然だった。
だが国の皇帝はそんなちっぽけな事情を知ろうともせず。採掘成績なるものを張り出して、それを超えなければ予算を出さないと言い出した。
それによって採掘者や炭鉱夫は激減し、現在フローズン採掘現場で鉱石発掘の仕事をしているのは、長であるシグナムと修行中の魔術師だけである。
「おーい、お前ら飯にするぞ」
青年たちを座らせ、国から支給される弁当箱を支給するが――これは酷い。
朝から晩まで休みなしで労働しているというのに、皇帝は『結果が全てだ』などと言いロクに昼飯もよこさない。
これでは余計に働き口が減ってしまうではないか。
「ありがとうございます!」
だが流石修行魔術師と言うべきか。
高等魔術師フリーゼンの教え子らしく、かなり“人間が出来ている”とは聞いていたが、これまでとは。
少ない弁当に文句の一つも言わず、その少ない食料だけで一日中採掘の仕事を手伝ってくれる。
そのうえサボリも無く完璧な仕事量をこなす、まさに最高の働き手だ。
逆に言えば、それだけ素晴らしい青年たちがこんな辺鄙な場所にいても良いのかとも思う。
高等魔術師フリーゼンは『修行の一貫だ』とか言っていたが、どこからどう見てもこれは強制労働だ。
この青年たちが大真面目に取り組んでいるとしたら、それはそれで心が痛むし、単に無意味な手伝いをさせられていると知っているのであれば、陰で何と言われているか分からない。
今までに辞めていった労働者たちも、岩壁の裏に盛大に彼の悪口を書いていた。
だが怒れなかったのだ。
彼自身この仕事は理不尽かつ不平等だと感じており、辞めていった人間たちの気持ちは痛いほどよく分かるからである。
シグナムはタバコに火を点けると、訝しげな表情を浮かべ「ふぅ……」と煙を吐く。
「ここももうおしまいだなぁ……」
シグナムが天を仰ぐと、真っ黒なカラスがグルッと優雅に旋回をしている様子を確認できた。
一羽……二羽……三――?
最後の一つは徐々に大きくなっていく。
――いや違う。接近しているのだ。
クルクルと華麗に舞うように、羽の生えた漆黒の悪魔が落下してくる。
このまま物理運動に逆らわなければ、あの悪魔は地面にその身を叩きつけられて大怪我をしてしまう。
最悪の場合、死からは逃れられないだろう。
――助けなければ。
「おい! 誰か手を貸してくれ」
シグナムの一喝で昼休み中の青年たちが一斉に集まり。騒がず落ち着き平然とした面持ちで上を見上げると、胴上げをするように丸くなり中央に向かって腕を伸ばす。
怪我でもしているのか。空を飛べる悪魔がいるとは知らなかったが、物理重力に全く逆らわずに落ちてくる者を呆然と眺めているわけにもいかない。
体内魔力の少ないシグナムは救急箱を持ち出し、回復魔術を使うための器具を地面に並べ始めた。
魔術師見習いの青年たちにやらせても良いのだが、ここまで熱心に働いてくれる優秀な方々にこれ以上の手を煩わせるわけにはいかない。
ドスン。と落下した音が響き、シグナムは青年たちの方を振り返ったが――。胴上げのポーズのまま固まり、誰ひとりとして言葉を発しない。
シグナムは首を傾げ、青年たちのそばまで駆け寄った。
「おい、どうしたん――」
そこまで言ったところで、シグナムも言葉を失ってしまった。
青年たちの腕の中では、素晴らしいボディを惜しげもなく晒しながら気を失って
いる女性悪魔の姿があったのである。
思わずシグナム含め青年たちは目を逸らし、しばらくしてもう一度その姿を拝む。
滑らかな身体に妖麗な翼が生え、思わず目を奪われてしまうほどの爆乳が天に向かってピンと膨らんでいる。
縦筋の綺麗なおへそがピクっと動き、艶めかしいラインを持つ脚まで目がいったところで、顔を赤く染めたシグナムが「コホン」と咳払いをした。
「これこれ、いかんぞ。女子の裸体を見つめるとは、何たることを――」
言いつつも、シグナムの目は天を指す立派なおっぱいに釘付けであり。鼻の下がゴムのように伸びた彼の言葉など、性欲旺盛な青年たちの耳にはこれっぽっちも入っていない。
時折思い出したようにハリのあるおっぱいがブルンと揺れ、青年たちの欲望を掻き立てる。
呼吸と鼓動による生命反応なので、ここは「生きてるぞ!」と喜ぶシーンのはずなのだが。
「ダメだ。見てはいかん……」
言いながらも鼻血をボタボタと垂らすシグナムは、一人採掘場の隅っこでしゃがみこんでいた。
若い青年たちならまだしも、軽く齢40は超えた彼にとって“あの光景”は強烈過ぎる。
空から降ってきた悪魔のために用意した救急器具を自分の鼻に宛てがい、何とか止血したものの、さっきの情景を思い出すだけで鼻の奥にツンとしたサビ臭いにおいが充満する。
「いかんいかん……早く飯を食って仕事に戻らねば――」
鼻を押さえながらシグナムが「よっこらせ」と腰を浮かすと、目の前に立派な白ひげが現れた。
仙人のような姿。
頭は綺麗に禿げ上がり、眉毛もヒゲも純粋な純白である。
彼は自慢のヒゲを指先で撫でながら、ふと青年たちを一瞥する。
「ふむ。ワシのいない間に弟子たちの教え子が粗相を働いたようですな」
「いえ! あの方々は毎日素晴らしい成績を残しております。粗相だなんてそんな――」
白ひげのお爺さん――老師フリーゼンはヒゲを撫でる手を止めた。
「では何をやっているのか……」
「あ、あれはですね――」
シグナムの言葉が終わる前にフリーゼンは身体を右に向け、悪魔の裸体に見とれる青年たちのそばへとゆっくりと足を進める。
「待ってください! 老師フリーゼン」
必死に止めようとしたがフリーゼンは進む足を速めスタスタと歩き、青年たちのそばまでたどり着くと。突如現れた老師の姿にびっくりした青年たちが、一斉にその場を離れた。
「老師様!」
「先生!」
「フリーゼン様!」
ひれ伏す青年たちを片手で制し、地面へと投げ出された全裸の悪魔を眺め、眉毛に隠れた細い目をさらに細める。
「お前らが脱がしたのか?」
青年たちは一斉に首を横に振る。
何でもフリーゼンが激怒したところを見た者はいない、などと言われているが。この反応からすると、弟子やその教え子たちはその状況に対面したことがあるようだ。
普段は温厚な老師フリーゼンだが、そういう人の方が怒ると恐いというのは事実なのだろう。
フリーゼンは世の男性諸兄が向ける視線とは違う――いかがわしい感情を持たない観察するような目を向け、悪魔の裸体をじっくりと舐めまわすように眺めると、背中から生えた翼に目を細め「ムゥ……」と声を漏らす。
「淫魔じゃの。それもかなり、高貴な淫魔と見た」
「高貴な淫魔ですか……?」
淫魔とは性に溺れ、悪魔族の性欲処理として扱われる下等悪魔だと思っている人間は少なくない。
例に漏れずシグナム含めこの場にいた青年たちは“高貴な淫魔”という単語に少なからず疑問を抱いているようだった。
「淫魔、かぁ……」
青年たちの表情が落胆の渦に巻き込まれる。
例えるなら、『やっとオールヌードを公表したアイドルが実は○○女優でした』という感じだ。
シグナムの鼻血もピタリと止まり、青年たちはゾロゾロと休憩場所に戻り、小さな弁当箱の中身を空にする作業へと戻っていく。
フリーゼンは目を覚まさない淫魔を一瞥し、中指と人差し指を立てて指先に魔力を溜め始めた。
「ホアァァァァ!」
老人らしからぬオペラ歌手のように高い声で叫び、二本の指を淫魔の胸の間にめり込ませる。
心臓の辺りに魔力を込める、一種の治療法なのだが。シグナムの場所から見ると、老い先短い老人が若い女体に指を突っ込んでいるようにしか見えない。
ここだけ見れば通報されてもおかしくない惨状である。
「んぐぅ!」
淫魔の表情が苦痛に歪み、柔らかく甘い吐息が口から漏れる。
全身をピンと張り、背中を浮かせ身体を仰け反り――。ゆっくりと切れ長な目を開き、キョロキョロと辺りを見渡した。
「あれ?」
「お気づきになられたようですな」
老師フリーゼンは身体の前で手を合わせ礼儀を示す。
だがどうしてもシグナムの角度から見ると、老人が女体を食べようとしているようにしか見えない。
ドロドロに汚れた心を浄化する魔術なんて都合の良いものは無いのか、などとシグナムが考えていると、淫魔は突然起き上がりフリーゼンの頬に甘ったるいキスを授けた。
はたから見ると犯罪臭がムンムンである。
「ありがとうございます。老師フリーゼン」
「おや、ワシのことを知っておられましたか」
淫魔は色っぽく目を細めると、ピンと背中を伸ばしてその場に正座をして頭を下げた。
「最高の高等魔術師様を知らない者はございません。危ないところを救っていただ
き、感謝の言葉もございません」
フリーゼンは「うむ」と頷くと、天へと伸ばした右手から深紅のマントを生み出し、自身の目の前でひれ伏す淫魔の身体にバサリと被せる。
「若い女性が身体を晒すのはよくありませんぞ」
「大丈夫ですわ。私は淫魔ですから」
指先を咥えながら軽くウィンクをし、隅っこからその情景を眺めていただけのシグナムは、その美貌にクラっとした。
何と美しいお方だろうか。深紅のマントを纏った姿は先ほどにも増して艶やかであり、男心の秘めたる部分を掻き立てる。
淫魔はマントで身体を隠し、妙に艶めかしい脚を覗かせながらフリーゼンに問いかける。
「フリーゼン様は私のことをお憶えではございませんか?」
「ふむ。失礼だが、あなたほどの若々しい淫魔に会ったことは無いですな」
淫魔は少女のように目をパチクリさせ、長く透き通るような指先でフリーゼンの自慢のおヒゲを絡め取り、心奪われそうな幸せ声でそっと囁く。
「あら、お忘れですか? 私は元魔王リーゼアリスですわ」
フリーゼンの眉毛から普段隠れている目が顔を覗かせた。
その目からは驚愕の色が見え「おぉ……」などと声が漏れる。
「リーゼアリスであったか……。最後に会ったのは、数十年前になるか」
「そうですわね。人間という種族は歳をとるのが速すぎますわ」
麗しい笑顔を見せ、淫魔リーゼアリスはとろけるような眼差しをフリーゼンに向ける。
懐かしい眼差しだ。
フリーゼンがまだ若い頃、魔王退治に出かけるとそこには全裸の淫魔が寝転がっていた。
当時は若く純粋な一人の男だったフリーゼンは、その艶めかしい身体に心を奪われ。逆に魔王の力で精力を奪われてしまった。
『あら、随分元気なお方ですこと』
『何て強い女性なんだ……』
今より数歳だけ若いリーゼアリスは、フリーゼンが完全に果てるまで全身の力を搾り取り、指先を艶かしくペロリと舐める。
『ご職業は何ですの? 冒険者や炭鉱夫さんに比べると、体力も精力も足りてませんわ』
『俺は魔術師フリーゼンと申す。魔術師に無駄な力はいらないんだ』
うっとりと目を細めたリーゼアリスは唾液で湿った指先でフリーゼンの全身をなぞり、額に軽くキスをした。
『私はリーゼアリスと言いますの。またいつか会う時があったら、その時はまた可愛がってあげますわ』
『お互いに爺婆になっていなければな』
フリーゼンは昔を思い出し、懐かしさに目を細めた。
数十年前、支部ギルドで魔王討伐の受注をして森林まで向かい、漆黒の帝王のような者を想像していたら淫魔が出た。
あの時の自分はもうMAXに興奮して、素晴らしい美貌を持ったリーゼアリスにメロメロになってしまっていたのだ。
「お懐かしゅうございます」
フリーゼンは片膝で座り、リーゼアリスの前へとしゃがみこむ。
従順な騎士が皇帝の前でするように深々と頭を下げ、深遠なる礼儀を持って顔を上げたが――
突然フリーゼンの視界には、マントを通した日光により真っ赤に照らされた女性の秘部が現れた。
「――!」
流石の老師でもれっきとした男性である。
突然の出現に驚愕して後方へと退くと、イタズラを企てた少女のような子供っぽい顔で微笑むリーゼアリスが、情けない顔でおののく彼を見つめていた。
「次会ったら、可愛がってあげますと……」
コクンと喉を鳴らしてフリーゼンに顔を近づける。
艶かしく甘ったるい吐息を吹きかけ、クチュクチュと口腔内で唾液を溜めると、指先を湿らせ頬をなぞった。
その姿に一瞬見とれてから、フリーゼンは体勢を調え「えへん」と咳払いをする。
「ですが、ワシはもう爺となってしまいまして――」
「あら、私はまだ若くツヤツヤな身体ですわ」
リーゼアリスは平然とした面持ちで応え、マントを少々はだけると、ただでさえ大きい胸を思い切り張る。
ボヨンと効果音が鳴りそうなほどの爆乳に見とれ、仙人のような風貌をしたフリーゼンは口を半開きにして固まった。
流石のフリーゼンでも限界だ。
若い頃楽しんだ素晴らしい女性に、時を越えてアプローチを受ける。
自分の身体がガタガタだろうと、魔力の力でそこはどうとでもなるのだ。
大事なのは精神力、気持ちさえ若ければ憧れのリーゼアリスと一夜を共にする程度朝飯前だ。
問題無い。著名な方も『やればできる』と言っていた。
火事場の馬鹿力ってやつだな。
――年寄りの冷や水という言葉もあるが、この際触れないことにしておく。
リーゼアリスの艶めかしい唇を眺め、欲望が全回復した老師フリーゼンは、弟子たちの教え子の目の前だということも忘れ、デレデレした表情を浮かべながら彼女の元へと近寄る。
一人の男として、フリーゼンは精神的に若返っていた。
魔力と精力とは、いくつになっても男性を奮い立たせることに効果的なのだ。
男性的事情によりフリーゼンは前かがみになっているので、顔の高さにリーゼアリスの豊満な膨らみが現れる。
はちきれそうな程の弾力を目の当たりにし、鼻の下を伸ばしきったフリーゼンは人目も気にせずリーゼアリスの爆乳にかぶりついた。
――が。
触れたと同時にヒラリとかわされ、情けないことに老師フリーゼンは地面に向かって顔面ブロックを決め込んだ。
シグナムとは別の意味で流れ出る真っ赤な液体。
真っ白なヒゲに垂れる深紅の液体――いわゆる鼻血により、純白なヒゲが紅白に染まった。
事の起こりを把握しきれずオロオロするフリーゼンに、リーゼアリスはまたもや少女のように無邪気な表情を浮かべて目を細める。
「いくつになっても、“男の子”とは可愛らしい生き物ですわ」
妖艶なる微笑。
紅白ヒゲを地面にこすりながらフリーゼンは悟った。
これだけ美麗なお方だ。言い寄られる相手も少なくないだろう。なのにこのワシはバカ面を晒し、自分の現在の立場もわきまえず、豊満かつたわわなおっぱいに飛び込んでしまった。
何と愚かな行動か。
老師と慕われ数十年、まさに半生を人の上に立つという重要な立場で過ごしてきた。それなのにワシは一人の女性に目がくらみ、今まで培ってきた“威厳”や“名声”を粉砕してしまう。
何という愚行だろうか。
辺りからはチクチクとした視線と「うわぁ……」とか「無いわぁ……」などといった蔑みや落胆の声が浴びせられる。
あまりの情けなさに俯き。フリーゼンは地面とにらめっこをしていると、頭上から女神のように優しい手が差し出された。
「フリーゼン様、もう良いではありませんか。堅苦しく構えなくて良いのです。これからは一人の男性として、本能に従って生きてはどうですか?」
淫魔はそれでも良いのだろうが、世の生物がそんなことをしたらこの世界は多子化が進んで大変なことになってしまう。
物事には限度という物が必要なのだ。
「もう良いのだ。楽しい夢を見せてもらえたよ……」
フリーゼンは自身の回復魔術でドクドクと垂れ続ける鼻血を止め、クルリと身を飜えすと採掘現場から静かに立ち去ろうとした。
「待ってください!」
止めたのは他でも無いリーゼアリスである。
これ以上何を話そうと言うのか。少なくともフリーゼンにはもう話すことは何も無かった。
目の前で羞恥を晒した、長年憧れ続けた素晴らしい女性。彼女に合わせる顔はもう無いのだ。
リーゼアリスはゆっくりとフリーゼンに近づき、後ろから彼の身体に腕を絡める。
甘い吐息を耳元で放ちながら、視線だけは真剣な様子でフリーゼンに重々しく囁いた。
「近々古代龍が出現するという予言が出ました。私の娘が伝説の冒険者アックスを説得しに、ゲンキョー・ソウまで行っています。フリーゼン様のお力をお貸し願えませんでしょうか」
フリーゼンの目から真剣な光が放たれる。
先程までのデレデレ爺さんの表情は無く、そこにあるのは“高等魔術師フリーゼン”の威厳と名声を兼ね備えた一流の魔術師としての表情だ。
フリーゼンの眼光が煌き、リーゼアリスへと重々しく問いかける。
「古代龍、何じゃ?」
「エンペラーです」
ピクリと動く真っ白な眉毛。
口の中で「そうか」と呟くとフリーゼンは、採掘現場でボーっと立ち尽くすシグナム含め青年たちに激励を浴びせた。
その声には“自信”と“完全なる命令”が組み込まれ、否定を許さない最高の老師としての本格的な命令だということが嫌でも知らされる。
「採掘現場の手伝いはしばし中止する! 今すぐロキス国中心街へと戻るのじゃ」
「はい!」
綺麗に揃った青年たちの声とともに、フリーゼン含む青年たちは青白い光に包まれながら姿を消した。
かなり高等な転移魔術であり、フリーゼン直下の教え子のみがギルドへの申し出無しで使えるという伝説の長距離転移魔術である。
深紅のマントを脱ぎ捨て、リーゼアリスは身体を外気に晒して、うっとりとした表情を浮かべる。
全身を伸ばして気持ちよさそうなネコのように目を細めると、働き手が一気に消え去り茫然と立ち尽くすシグナムに容赦なく声をかけた。
「ねぇ、グランツ工房ってどこから行けば良いのかしら」




