第二十七話「探し求めていた戦士」
ハクレイ国ゲンキョー・ソウ。
神保たち三人は、ゲンキョー・ソウ南部の森林で一夜を明かすことにした。
深緑に包まれ、天をも貫きそうな背丈の高い樹木が生い茂り。月明かりはおろか星の輝きまでをも遮断され、夜の森林内は漆黒の闇に包まれている。
辺りは暗く恐ろしく寒いので、萌が出現させた火の魔術を代わりばんこに見張り、暖をとることに決めたのだ。
「眠れそう?」
「昼間大分眠ったからなぁ……」
神保の表情に“疲れ”は出ていたが。ローズ・ガイで、リーゼアリスの催眠魔術により強制的に眠らされたせいか。辺りが暗くなっても、神保は眠ることができなかった。
「退屈だな……」
「じゃあ、私とお話でもしよっか?」
エーリンは体育座りをして、神保にピタリとくっついて座る。
淫魔特有の艶めかしい香りが鼻腔をくすぐり、神保はちょっぴり頬を緩めた。
「大丈夫。エーリンは休んでて、俺が一晩見張ってるから」
「でも……」
神保の手がエーリンの頭をグシグシと撫でる。
ナデポが発動し、エーリンは幸せそうに猫のような口をしながら「えへー」と笑い、幸福感溢れる表情をして地面へゴロンと転がった。
「何か問題あったら起こしてくれにゃん」
「分かったよ、おやすみ」
エーリンは地面に転がると、途端に天使のような寝顔を披露する。
可愛らしく寝息をたて、気持ちよさそうに丸まった。
「よっぽど疲れてたんだな」
たまらずエーリンの頭を撫でると、淡いピンク色の誘惑が神保の目に止まる。
いつも艶めかしい、淡い桜色をした舌が滑る妖艶な唇。
まるで“聖域”とでも言うように男心を誘う色っぽい唇は、つい先程も舐めたのかちょっぴり湿っていた。
「ダメだ。いくら何でも寝ている女の子の唇を奪うとか、ダメ絶対!」
言いながらも徐々に顔と顔とが近づいてくる。
女の子特有の甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐり、今まで溜め込んでいた神保の欲求が爆発寸前まで膨れ上がった。
「エ、エーリン……」
「みゅぅぅ……」
甘い匂いとともに、エーリンの唇が呼吸のためか尖る。
――何が神保をこんなにも高ぶらせるのか。
答えは簡単。
エーリンの汗と唾液が、淫魔的効能を発しているだけである。
そうとは知らない神保は、己の欲求に逆らえない自分に深く動揺していた。
だが本能とは、理性や“正しいと信じる心”を凌駕する。
あどけなく無防備な寝顔を向けられ、神保の鼓動は盛大に高まった。
「エーリンっ……!」
「がぁぁぁぁぁぁぁ!」
シンと静まり返っていた森林に、人の物とは思えない雄叫びが響き渡った。
「何!?」
天を貫けそうなほど鋭い絶叫に驚き、エーリンはその場で飛び起きる。
まるで瓦割りでもされたかのように、最高のムードを華麗に破壊された神保は、
心の中で軽く舌打ちをして。何事も無かったかのように平静を装い、雄叫びが放たれた方へと振り返った。
「獣か……?」
「分からないけど、ここは危険かもしれないわ。萌を起こして安全な場所へ避難しましょう」
エーリンは辺りに散らばった魔石をかき集め、茂みの向こうで安らかに眠る萌を起こしに行こうとしたが、神保はそれをたった一言で制す。
「逃げても何の解決にもならない。俺が闘う」
「無理よ魔獣と素手で戦うとか、いくら神保でも絶対無理! 怪我しちゃうよ」
エーリンは心配だった。
現在の神保には“絶対に勝つ”という信念と自信、そして誇りがある。
だがもし大きな獣と戦い、彼が死ぬことは無いにしても苦戦を強いられたら――。戦闘者にとって、自信の欠損とは何よりも大きなダメージとなる。
一度の失敗は次の戦闘での“恐怖”を生み出す。
恐怖とは戦闘に置いて何よりも己の力を邪魔する物であり、制御しようと思えば思うほど色濃く現れ、心身を乗っ取られてしまう。
そのためにも神保には、古代龍との戦闘までは“失敗”や“恐怖”の感情を味わって欲しくない。
「神保! だったら私が応戦するから」
「こんな夜遅くに、女の子を戦わせるわけにはいかないだろ?」
口元だけでニッと笑う。
既に神保の右腕には竜巻のような風が舞い、バキバキとヒビが入りそうな音が響きながら拳に力が入る。
加速を使わない“拳”に溜める魔術。
例えるなら――
――チャンピオン宮○照!
と言ったところか。
深緑の茂みが揺れ、何者かの生命反応を感じる。
月明かりも無い漆黒の闇を照らすのは小さな魔力灯のみであり、神保たちが視覚的に敵の姿を確認することは不可能だ。
だが感覚的に“何か”がこちらに向かってきていることは分かる。
思わず押し戻されそうになるほど重々しい気配。
神保たちを囲む最後の茂みが揺れ、豪快な雄叫びとともに巨大な身体が姿を現した。
「うがあぁぁぁ!」
「うおぉぉぉぉ!」
逆巻く拳が一点集中の鉄拳を放つ。
空間をメキメキと破壊し殲滅させるような『空気が割れる音』が響き、烈々たる衝撃波により周辺の樹木が音を立てて伐倒される。
一閃。『ガツン』という鉄と鉄をぶつけ合ったような音が響き。思いもよらぬ衝撃に神保は若干顔を歪めた。
今まで岩石や鉱石などを根こそぎ壊滅させた己の拳でさえ、砕くどころか貫くこ
とさえ不可能な壁が現れたのだ。
――常識を超えている。
言うまでも無く神保の拳の時点で常識の範囲外なのだが、規格外の力を持つ拳でも破壊できない“何か”が確かにそこに存在する。
豪快な破裂音とともに神保は後方へと弾き飛ばされた。
背後に立ちふさがる樹木の手前で背中から魔術を出して、全身殴打という被害を受けることは無かったが。彼の顔からはサーっと血の気が引き、顔面蒼白で眼球がしろくろし始める。
「化け物だ……」
地面にドサりと座り込み、呆然とした面持ちで神保は目の前に立ちはだかる化け物を見つめる。
魔力灯により化け物の影が地面に伸びた。
二足歩行をするゴリラのような巨漢、そしてライオンのタテガミのように広がる髪の毛。
手には巨大な斧を持っており、一歩歩くごとに地面を揺るがす。
重圧的な気配により、目に見えぬ“気”に押し戻されるような感覚だ。
もはやこれまでかと最後の反撃に出ようとしたところで、神保の前に立ちはだかる巨漢に声をかけられる。
「何者だお前は」
化け物に問いかけられ、神保は俯いたままフゥっと溜息をついた。
「俺は秋葉神保。異世界から来た」
「異世界だと?」
神保は立ち上がり、姿の見えない強敵に言葉を放つ。
「お前こそ何者だ。俺の拳を、身につけた鎧のみで簡単に受け止めた……。ただ者では無いだろう?」
「我の名を聞いているのか?」
神保は静かに頷く。
完全に殺意しか存在しない生物なら、彼が地面に座り込んだあとで言葉を交わそうなどと考えるはずが無い。
――この者は俺を殺そうとして来たわけでは無い。
そう考えた――いや、賭けだ。
分別と理性を持つ生物なら、魔力を消費するだけの無駄な争いは避けたい。
自分が勝利するなら闘う。
自分が敗北するなら無駄な争いだと切り捨てる。
何とも自分勝手な考察であろうことか、だがしかし。
気配が消えたのだ。
先程まで漂っていた殺意のこもった邪悪な気配――それが消滅している。
「ふむ……」とヒゲを撫で、大巨漢は自身の斧を掲げた。
「我が名はアックス。伝説と呼ばれた冒険者だ」
「アックス!?」
発言者はエーリンだ。
エーリンは自身の手のひらの上に火魔術を出現させ、まばゆい光を放たせて大巨漢アックスの顔を照らす。
「アックス……冒険者アックス殿!」
「待て、お前は誰だ?」
突然の乱入者に動揺するアックスを、エーリンはスベスベした艶めかしい腕で精一杯に抱きしめる。
愛情や愛欲から来るものでは無く、“軽いハグ”のようなものだったのだが。闇夜という雰囲気とおぼろげな炎による明かりにより、色っぽい淫魔に抱きしめられた伝説の冒険者の表情は思わずトロトロに緩む。
極楽にたどり着いたように緩んだアックスと、嬉しそうに腕を絡めるエーリンを見ていると。複雑な男心が交錯し、神保は何となく腹がたった。
「お会い出来て嬉しいですわ」
普段から赤ら顔のアックスだが、目の前にいる淫魔の色気にやられ、今は余計に顔が紅潮し“豪傑”と言わしめたガッシリとした顔つきは、鼻紙のようにクシャクシャに崩れている。
「おぉ……すまない。このように美しく艶やかな女性を忘れてしまうとは、今すぐ忘却の彼方まで駆け出したい気分だ……」
歯が浮きそうな口説き文句に、神保の全身に鳥肌がたつ。
二番目の兄が女の子にフラれた時の口説き文句でさえ、もう少しまともだった。
――確か『マイ、エンジェル。僕は君無しでは夜も眠れないんだよ、ハニー』だったっけな。
しかも入学式当日に言ったというのが笑い話だ。
返事は『意味解んない』だか『私はあなた無しで十分生きてけます。さようなら』だったか忘れたが、それを聞いて家族全員で兄を胴上げしたことは憶えている。
彼の父親曰く『入学式当日に、女の子に告白した勇気に乾杯!』だとか。
エーリンは大人の女性っぽく、長く透き通るように美麗な人差指をアックスの唇に当て、妖艶な含み笑いをして首を傾げる。
ちょこっとだけ開いた口元からは甘い吐息が漏れ、唇の端っこを艶めかしい舌が湿らせる。
淫魔としてはごく普通の挨拶のようなものなのであるが、世の男性にこれは破壊力抜群だ。
一発KOして、さらに画面外へ跳ね飛ばされるような破格のレベル。
魔界系エロゲーの攻略ヒロインに、確実にいそうなキャラである。
「アックス殿。私たちはずっと、あなたのことを探していたのです」
耳元に口を近づけ「フッ」と甘い息を吐く。
アックスの鼻の下がぐんぐん伸び、デレデレしたその表情に“威厳”も“豪傑としての風格”も全く無い。
単なるスケベなおっちゃんである。
「何でしょうか! 我――私めにできることならば、何でもいたします!」
「まぁ良かった! あなた様がおられると心強いですわ」
何とまぁ。こうまで芝居臭い演技ができるのかと、神保は肩を落として蔑む。
淫魔というものが全員そうなのか、それともエーリンが世渡り上手なだけか神保には知る由も無かったが。
とりあえず彼が言えることといえば『俺の目の前で他の男口説くな』という嫉妬を含む言葉くらいなのだが。どう転がしても負け犬の遠吠えにしか聞こえない言葉であるため、神保はとくに何も言わなかった。
デレデレに頬を緩める冒険者アックスは、ドンと胸を叩き自信満々の表情でエーリンを見る。
「おまかせあれ!」
「ロキス国南西部の砂漠から、近々古代龍エンペラーが出現するという情報が入りました。直ちに戦闘部隊へのご登録をお願いします。――ご登録ありがとうございます」
機械音声のように淡々と話し続け、一瞬の間(息つぎ)のみでアックスを討伐隊の仲間に引き込んだ。
違法ワンクリサイトもびっくりの引き込み方である。
健全な男子高校生である秋葉神保は、こういう事が日常では普通に起きていることを知らないのだ。
アックスはポカンとした表情でエーリンのドヤ顔を凝視する。
『自宅に帰ったら玄関のドアが無かった』とでも言いそうな表情を浮かべるアックスは、唇をカクカクと震わせながらガクリと崩れ落ちた。
「新手のサギか……こんちくしょう」
「サギではありませんよ」
エーリンは慈母のように優しい目をしてアックスに手を差し伸べる。
「あなたほどの冒険者がこんな平和な村で隠居するなんて、らしく無いですわ。あなたもまた、冒険の旅に出たいと思っていたのでは無いのですか?」
うっとりするような甘い声とともに発せられる麻薬的言葉。
淫魔とは男性を丸め込むことに関して右に出る者のいない種族であり、本能に従ってコロコロと対応を変えることができるのだ。
アックスの中で何かが弾けた。
「そうだ。我はまだ冒険がしたい、レータスやクリーフとともに強大な敵を倒し、人々を守る戦闘を行いたい」
「それではアックス殿……」
エーリンの差し伸べる手をギュッと握り締める。
温かく女神のように包容力のある優しい手、そしてなめらかに絡みつく妖艶な指先。
アックスの心に絡みつき丸め込み消化する“大蛇の胃袋”を持つエーリンの話術、そして容姿。
全てがアックスをその気にさせる。
「よし、分かった。古代龍でも龍神でも、現れたらすぐに向かう」
アックスの魔轟斧が天に向かって掲げられ、戦闘者としての誓いを交わし合った。




