第二十話「龍帝様」
小さな灯を頼りに迷宮回廊最下層をゆっくりと進み始める。
徐々に空間が広大になり、カビのような湿っぽさを感じさせる臭いなどが消え始めた。
床の堅さも少しずつ取り戻し始め、コツコツと二人分の靴が地面に当たる音と、ペタペタと張り付くような素足の足音が静かな迷宮に響き渡る。
だが依然として光が無いことに変わりはなく、神保の手にする魔力灯が照らす範囲外は漆黒の闇に包まれているままだ。
「このまま進むと、どこに出るんだろう」
「私が昔行ったことのある他の迷宮では、古代龍に匹敵するような魔物と金銀財宝が埋まっていたわ」
「お宝!?」
真っ先に食いついたアキハは、将来の結婚式を想像した夢見る少女のようにうっとりした表情を浮かべて、にへっと笑う。
「お宝を売ったお金でお宝同人誌を……ぐへへ」
口元を拭いながら幸せそうな笑顔をしたアキハを見て、神保もまた思うことがあった。
財宝の中には伝説の剣や盾なども含まれるのか。
草薙の剣のように迷宮主を倒すと体内から現れるとか、魔物の力の源であるとか、誰もが夢見るゲーム世界のようなことが実際に起こるのだろうか。
否。
それだけ巨大な魔物がいるとすれば食料供給はどうするのか。
呼吸量も常人とは比べ物にならないような膨大な量の空気を取り込むだろう。
――ちなみに誰も、元魔王エーリンが古代龍に匹敵するような魔物を倒したこと
に関しては全く触れることが無かった。
◇
地面の感触が変わった。
コンクリートのようにカリカリとした無機質な表面を向け、靴と触れる毎に掠れるような音が響く。
小さな音でも階層中に響くのは、迷宮の造り上仕方の無いことらしい。
風も強くなり、生暖かい感覚が三人の顔面を舐める。
はっきり言って不快であることこのうえない。
しかしこれでも迷宮踏破の夢を持って進み続けた冒険者である。
これしきのことで回れ右をするほど、ヤワな心を持っているわけでは無いのだ。
「何かが……いる?」
漆黒の闇に映るものは何も無いが、確かに何か生命反応を感じる。
禍々しい存在感を放つその気配は、踏み出そうとする足を心の内に響くような暗黒の気配により差し止める。
動かないのだ。
あと一歩のところで邪悪な気配に押し返され、先へと進むことができない。
元魔王エーリンでさえ感じたことの無い『気』である。
彼らはこれ以上進むことは不可能なのか。
否。
進まなければならない。
勇者として冒険者として、ここまで来れたたった一つの踏破パーティがこんなところで挫けてはいけない。
最後まで諦めずに立ち向かうことこそが、真の勇者であり最高の冒険者である。
そしてこれこそが、神保が家族に教えられた“主人公としての生き方”であり、異世界に召喚されるという運命を宿らせた秋葉神保が、華々しい生き様を魅せるために通るべき道であった。
「神保……引き返す? もう無理よ!」
アキハの足が若干後方へと揺らぐ。
真っ暗な前方から吹く風は、何者かは解らない迷宮主の吐息らしい。
一定間隔毎に生暖かい空気が襲いかかり、同時に腐った生ゴミのような悪臭が回廊内に充満する。
「無理かはやってみなきゃ分からないだろ!」
腕で鼻を押さえながら、神保は鉄のように思いその足を一歩踏み出す。
邪悪な気配と堪えきれないほどの腐敗臭により、歩き出した神保も数歩で立ち止まってしまう。
あと少し。
ほんのちょっぴり進むだけで迷宮主の顔を拝むことができる。
「これまでなのか……」
「神保ぉっ!」
干し柿のように顔をしわくちゃにさせた淫魔エーリンが前方に駆け出し、神保の首筋にキバを立てて噛み付いた。
「痛っ――」
「ちょっと我慢して!」
エーリンの温かな舌が神保の首筋をなぞり、そのまま耳元まで濡らすように頬を這わせると。
神保の右頬付近を淫魔の唾液でベトベトに湿らせた。
「エーリン……んぁ……」
さっきまでの凛々しい主人公顔は見事に崩れ落ち、萌フィギュアを見つめてうっとりしている普通のオタクのように、無防備な表情をさらけ出す。
鼻を押さえていた腕もダラリと力無くぶら下がり、頬を染めて吐息を荒くした神保は物欲しそうな目を後方の淫魔エーリンに向ける。
「エーリン――」
「淫魔の唾液には性的発情を促進する力があるの。その匂いに抵抗できるような男の子はこの世に存在しないわ」
甘ったるく異常なほどドキドキする香りが、神保の鼻腔をくすぐる。
数人の女の子に包み込まれたような、心奪われる妖艶な甘味が全身を覆う。
総身に熱を帯びて脳内麻薬が大量に分泌された。
――一種の催眠兵器。
命令された行動が損だろうと悪だろうと、この匂いに逆らうことはできない。
「神保……あなたはこんな『邪悪な気』なんかに屈しないわ。そして私以外の匂いもここには無いの、分かる?」
母親が子供に聴かせる子守唄のように、エーリンは神保の耳元で囁く。
甘いミルクのような吐息も相まって、神保の精神状態が完全に催眠状態へと変貌する。
「神保――私の可愛い奴隷さん! 一気に突っ込んじゃいなさい」
「Yes, Your Majesty(期待してください、女王様)」
神保の口元がニヤリと緩み、一瞬だけ地面から足が離れる。
「俺は加速するぅぅぅぅ!」
半ば絶叫のような掛け声とともに、神保の身体は迷宮最深部へと突進していく。
魔力を帯びた拳を突き出したまま突っ込み、大地を揺るがすような咆哮とともに「ズドン」と壁が崩壊する音が回廊中に響き渡る。
さっきまで漂っていた“邪悪”と“悪臭”は徐々に薄れ始め、数回叫び声が放出
された後。
今までの階層と同じような気配へと空気が浄化された。
「何? 何があったの?」
怯えた表情を見せ淫魔に抱きつくアキハは、キョロキョロと辺りを見回してから淫魔エーリンの顔を見る。
アキハの求めるような視線に気づいたエーリンは大人っぽく含み笑いをしたあと、アキハの身体をギュッと抱きしめ返した。
「大丈夫よ、行きましょう」
アキハと抱き合いあったまま、エーリンは奥へ奥へと足を急がせた。
◇
制御不可能なコンピュータロボットのように無心で飛び込んだ神保の右手拳は、迷宮主である何かの身体を貫いた。
そのまま一瞬で体内を通り抜けた神保は最深部の壁に激突し、無限迷宮全体に巨大な揺れを発生させる。
「ぶっ壊すほどシュート!」
振り向きざまにもう一発拳を入れる。
だが二発目は加速が足りなかったのか迷宮主の身体に跳ね飛ばされ――
「ぎゃぁぁぁぁ!?」
自分の行動もしっかりと認識していない神保はそのまま吹っ飛ばされ、もう一度迷宮壁に全身を強く打ちつけ、気を失った。
身体に穴が空いただけの迷宮主は――滝のように溢れ出る血液を止め、悠々と昼
寝を再開した。
◇
淫魔エーリンとアキハはお互いの身体を支えながら奥へと進む。
神保が通った道は泥はねが激しいので、どこを通ったのかがすぐに分かる。
アキハの魔術で出した灯を頼りに進むと、二人の視界に信じられない光景が広がっていた。
「神保……」
「ちょっと! 全然大丈夫じゃ無いじゃない!」
頭を打ったのかピクリとも動かず倒れこむ神保。
湖のような血だまりを作った上で悠々と寝転がる迷宮主こと龍帝様。
大地を揺るがすようないびきをかきながら気持ちよさそうに眠っている。
「神保! 神保ぉ!」
アキハは非常用の魔石を自身に宛てがい『回復魔法』を神保に向けて発動する。
簡易的なものなので意識を取り戻す程度しかできないが、このまま放置しておくよりは確実にマシだろう。
「ん……アキハ?」
「神保!」
回復魔法は成功したらしく、神保の口元が薄く開いた。
「倒せなかったんだ……拳で突き抜けたはずなのに」
「龍帝に物理攻撃は効かないわよ」
淫魔エーリンが破裂しそうにデカい胸の前で腕を組みながら、神保のそばに寄る。
優しく頭を撫でると、神保の口が閉じて「すぅ……すぅ」と寝息をたて始めた。
「無理に起こすより今は寝かせたほうがいいわ」
そう言うとエーリンはアキハも聞いたことの無い詠唱を唱えだした。
実はこの詠唱は魔王にのみ受け継がれる高貴な詠唱――なんてことは無く、単に平凡な日常生活を送るだけなら全くもって必要の無い詠唱だからであり。
攻撃的な種族や外敵に狙われやすい種族(淫魔やダーク・エルフ等)に属する生物が自身の身を守るために会得する詠唱である。
自身の怒りが頂点に達しているときに莫大な効力を発揮する魔術であり、反撃手
段としては使用可能だが攻撃手段に使用することは禁忌とされている超魔術。
――分かりやすく言うと、正当防衛が無罪になるようなものである。
妄想力、集中力、魔力を一気に放出する身体にかなりの反動を受ける魔術であり、無詠唱で行うと全身が粉々に吹き飛ぶとかなんとか。
はっきり言ってヤバい魔術なのだった。
「ちょちょちょ、淫魔さんっ!?」
メイド服をするりと脱ぎ捨て素晴らしく整えられたボディを外気に晒す。
淫魔が集中する際、身体を包む衣服は邪魔以外の何者でも無い。
逆に言えばそれだけの集中力が必要な魔術を発動するというわけであり、元魔王であるエーリンがそれほどまでに集中力を必要とする。
――はっきり言うと、神保の魔術とも比べ物にならないほどの膨大な魔術が発動されるということだ。
エーリンの呼吸が精密な感覚をつかむ。
メトロノームのように正確なタイミングで呼吸をしながら、右手拳にバチバチと電撃がまとわりつく。
エーリンの髪の毛が深紅に染まり、全身の毛が逆立った。
そこに存在するのは露出好きな天然淫魔では無く、この世を支配するにふさわしい風格と威厳を持ち合わせた『魔王』の姿だった。
「淫魔……さん?」
「その龍帝をぶち殺す!」
元魔王エーリンの右手から発せられた電撃砲は、いびきをかきながら悠々と眠る龍帝の背中に吸い込まれる。
――世界が崩壊しそうなほどの轟音。
爆発や撃破とかいうレベルでは無い。
龍帝に電撃砲が触れた瞬間、消しゴムのカスのようにすり潰された龍帝の破片が飛び散り、無限迷宮迷宮主である龍帝は文字通り粉微塵になって消滅した。
「魔力吸収っと!」
あれだけ膨大な魔術を放出したと言うのに、淫魔エーリンは平然と龍帝の魔力を吸収する。
オーロラのように緑や青色に輝く光の粒がエーリンのツヤツヤした身体に吸い込まれ、現在のエーリンの体内魔力は神保のそれを凌駕することとなった。
「あぅ……ああ」
腰を抜かしてカタカタと小刻みに震えるアキハの姿がそこにあった。
驚愕のあまり涙や汗などの液体で全身を濡らしてしまったらしく、お洋服が上から下までぐっしょりと濡れている。
エーリンが身に余る体内魔力でアキハの全身を乾かし、まるでライオン同士の決闘を間近で見た小動物のように縮こまった彼女を一瞥すると、愛するお相手である神保の元へと上機嫌にスキップなどをして駆け寄った。
「神保、私勝ったよ!」
「んぅ……?」
寝ぼけ眼で目をこする神保を、精一杯の愛を込めて抱きしめる淫魔エーリン。
アキハとしてはこの状況。非リア男子のバレンタイン当日以上に面白く無いものであったが、今この危機的状況を回避してくれたのは他でも無い彼女なわけで。
いろいろと言いたいことはあったが、アキハは文句や慨嘆をその小さな胸に押し込み、グッと我慢する。
「エラいエラいして~」
耳がとろけそうな極上のロリボイスで甘えるエーリン。
普段はお姉さんお姉さんしていて、『エロ可愛い』や『エロ格好良い』という言葉がお似合いの彼女だったが、甘えるときにはこう男心に直接刺激を与えるような可愛らしい天使のような声を出すようである。
流石淫魔。
男の子の秘めたる思いを熟知していらっしゃる。
――アキハとしては美少年は美少年とイチャイチャして欲しいことこの上ないのだが、とくに言葉としては出さなかった。
メ○ネブと宅配便のトラウマ傷はまだ治っていないのだ。
◇
「神保、これ飲んで」
「んぇぇ! ダメだって、そんなもの」
「大丈夫、私は淫魔だから飲ますことには慣れてるから」
「でも、赤ちゃんみたいで……」
「良いからツベコベ言わずにとっとと飲むっ!」
「はぅ……むぐぅ」
哺乳瓶のような容器に入れられた栄養補給飲料を飲まされている神保を一瞥し、ホッと小さく溜息をつく。
「どうしてこう、うまくいかないのかしら」
アキハには無限迷宮に足を踏み入れ、最初の日に決意したことがあった。
『萌のいないこの迷宮生活の間に、彼女自身の力だけで神保の気を引いてみせる』
無限迷宮などと言うから彼女はこの生活が数日――いや数ヵ月以上は続くと確信していたのだ。
だが結果は一泊二日で踏破成功。
アキハが立てた『迷宮生活中に神保のハートを盗む』計画は、無限迷宮の床天井と同じく、あっけなく崩壊した。




