2 『積み重なる不運に導かれて』
「――不幸だぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
僕は絶叫しながら、全力で疾走している。
ぬかるんだ地面を、バチャバチャと派手な音を立てながら。
星の瞬きすら覆い隠した曇天からは、パラパラと雫が零れ落ちている。それほどの勢いではないが、確実に体温を奪われていくのを実感している。
そして、全力疾走の理由はその背後。
複数の人間が放つ怒声混じりの罵詈雑言の数々。
ばったりと遭遇してしまった山賊というか、野盗というか、こんな平和な時代でも落ちぶれてしまった『崩れ』の方々たちである。
ユーリの領地は――というか、大陸西部は――基本的にそうした堕落した害虫の駆除に関してはかなり容赦がないので、ユーリの忠告に含まれていた最近に他所から引っ越してきた方々なのだろう。
………可哀そうに。
そう遠くない末路を思って心の中で合掌しつつも、目先の問題として自分の安全を確保しないといけない。彼らが可哀相な目に遭うのは確定事項だが、その前に自分が被害者になるのは御免被る。
それはさておき。
状況は簡単だ。
街を出てしばらくした辺りから急速に雲行きが怪しくなり、引き返そうにも引き返せない中途半端なところまで行った頃に雨が降り始めたのである。
さすがはユーリ。全く見事な天気予報だよ。
不運だと嘆くが、まあ、たまにある程度に過ぎない。
そして――
雨宿りが出来るところを探すために街道を外れて、森に入ったところで、ばったりと明らかに人相の悪い集団と遭遇してしまったのである。
なんてこったい。
お互いにっこりと笑顔で挨拶して、不意の雨に対する軽い愚痴を零しながらも爽やかに別れるなんて平和な展開になんてなるはずもなく、哀れな目撃者は口封じのために追われる羽目になるのだった。
――以下、現在。
「僕の判断の全てが裏目に出てるじゃないかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
軽く振り返って、それで出た結論にかなり本気で絶叫する。
えぇい、畜生。
所詮は天才と凡人か。
行動の一つをとっても、ここまで明確な格差が生じるとは。
さすがはユーリだ。
僕が女だったら惚れてるぜ。
でも、僕は男だから友達のままでよろしくね。
「……ったく。それにしても……」
街道沿いに走り続けているのだが、やはり『全力』で走れる状況ではないせいで、『崩れ』の連中から距離を離せない。
――というか、いたいけな運び屋の少年一人を、十数人で追いかけてくる理由がわからない。目撃者の口を封じるにしたって、最初は数人の下っ端に任せるだろう。わざわざ全員で追いかけてくるか、普通?
あいつら、かなり頭が悪いんじゃないか?
「このままじゃ埒が明かないな」
連中が全員根負けするまで走り続けてやってもいいのだが、あまり村に近寄られるのも気分がいいものではないし、万に一つでも村が襲われるような状況を作るわけにもいかない。
ここはやはり――
ちらりと横目で、街道沿いに生い茂る木々――その奥に広がる大きな森を見る。星の光も当てにできない暗闇の中で入るのは危険を伴うが、夜目は利く方だ。
「撒くのが一番かな」
呟いてから、走る速度を緩めぬままに一度だけ目を瞑る。
瞬き数回分の時間を置いてから目を開いた僕は、森の中へと飛び込んでいった。
そして――
それからしばらくの時間が経過した。
最初に結論から言おう。
……………………………………………………………………迷った。
「困ったね」
高々と聳える木々の一本――見上げても気づかれないであろう高みにある枝に腰かけた僕は、うんざりと呟く。
計算外だったのは、連中の執念深さというべきか。
森の中での鬼ごっこは、僕=獲物の捜索を続ける連中との根比べの様相を呈し始めていた。
連中は諦めるという言葉を知らないかのように、逃げても逃げても追いかけてくる。
もっとも組織的な捜索網を強いているわけではなく、個人の判断で適当にバラけている風なのだが、だからこそ不意の遭遇が怖い。
基本的に戦闘能力を持たない僕である。
不意打ちで捕まってしまえば、抗う術はない。
「………………」
なので、僕は細心の注意を払いながら枝から枝へと飛ぶ。
着地するたびに枝が揺れて、降ってくる雫に濡れてしまう。
………冷たい。
季節的にずぶ濡れになってもすぐには問題にならないが、長時間そのままというのは芳しくない。
多少の物音は、雨がかき消してくれているので、現状で見つかる可能性は低いのだが、逆に下に降りられなくなっているのが現状だ。
なんとか突破口を切り開きたいのだが、連中の包囲網から脱せられず、下を覗けば連中の姿がちらほらと見える。
「どうして、ここまで一生懸命になれるのだろうか?」
思わず呟いてしまうぐらいには、疑問だった。
その歪んだ根性――あるいは意地だろうか――を別の方向性に向けていれば、あるいは明るい人生が開けていたかも知れないのに。
正直に打ち明けてしまうと。
僕には、彼らが理解できない。
所詮は一時的に過ぎず、やがてはまた荒れる時代が訪れるのかも知れないけれど。
今は平和な時代で、それなりの努力をすれば、それなりに安定した生活を保障されている。その努力に応じた報酬が約束されているし、平等と言ってもいいぐらいには手を差し伸べられてもいる。
世界は優しくて、人も優しくて。
かつてのような殺伐さは、隅に追いやられている。
数多のヒトが人間として生きるのを許されている時代。
それなのに、どうしてわざわざ自分の意思で堕ちていくのか、と。
そう思う。
確かに、集団で行う弱者への暴力と略奪は、お手軽な手段ではあるだろう。
だが、刹那的な快楽のその先にあるのは破滅であり、端的に述べてしまえば、それは遠回しな自殺のようなものでしかない。
繰り返すが、今の世界は、彼らのような人種に人権など認めてはいない。
「どちらにせよ、お近づきにはなりたくないよ――っと」
徘徊する連中の姿が遠ざかったのを確認して、僕はまた跳ぶ。
だが、少し物思いに耽ってしまったのが悪かったのか。
枝に着地したはずの足が、なんの感触も伝えてこなかった。
目測を――誤ったっ!
「しま――っ」
そのまま重力に従って落ちる。
伸ばした手は届かない。
「ぐぅ――痛っ!」
ひたすら悪目立ちする音とともに、不自然な体勢でかなりの高さを落下したが、何とか足から着地が出来た。
全力で痛かったが、動けなくなるほどではない。
だが、しばらく走れそうにないのが大問題だ。
しかも、落下音が連中の耳にも届いたらしく、あちらこちらで大きな声でのやり取りが、内容まではわからないまでも聞こえてくる。
――失敗した。
だけど、このまま素直に諦めるには、まだ自分の人生には未練がある。
幸いにも、雨音に乱されて、連中も正確に音源を補足はしていないようだった。微妙にこちらからは外れた方向へと進んでいる。それでも、速さの損なわれた自分が追い詰められつつあるのを自覚する。
普段に比べると気が遠くなるほど、遅い足取りで僕は歩く。歩き続ける。
やがて、先に広がる森が、わずかに開けた。
「ここは……?」
眼前に広がった光景に、疑問の声が出る。
森の奥に、ひっそりと佇んでいたのは『遺跡』――と呼ぶべきものだろう。
夜の闇の中。
夜目のきく目でも、黒々とした輪郭ぐらいしか見えないが。
「………ここは?」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
だが、それは先程と同じ意味を持たない。
不思議と記憶と重なる何かがあったからだ。
似たような状況で、同じようにこうして見たような気がする。
「………………」
記憶を掘り返す。
そうだ。ここは学生時代にユーリに案内されて、仲よし四人組勢揃いで訪れた『遺跡』だ。
休日のちょっとした探検気分だったはずなのに、かなり豪快な冒険になってしまった思い出の場所である。
そういえば、トールとミリンダがちょっと接近し始めたのも、確かこの時からだったような気がする。
そもそもこの森は獣が徘徊しているし、魔物の存在も確認されている。
土地の者でも好き好んで足を踏み入れる者は少ないのだとか。
故に、この『遺跡』の存在を知っている者は稀なのだとユーリも語っていた。
「やれやれ。これもなにかのお導きかなぁ」
普段は神様に祈ったりはしないのだが、今ばかりは祈ってもいいような気分だ。
近づいていけば、詳細が見て取れるようになるし、かつての記憶も蘇ってくる。
廃墟になってから、かなりの年月が経っていることがわかるほど、建物には木の蔓や根が深く食い込んでしまっている。かつてはかなり立派な神殿か何かだったのかもしれないけれど、今となってはゆっくりと森に飲み込まれていくだけの朽ち果てた残骸だった。
かなり大きな『遺跡』だ。森に飲まれた影響で、迷路のようにもなっているので身を潜めるには都合がいいし、こちらに地の利があるのだから連中をやり過ごすのも難しくはないだろう。
現実的な案としては、足が回復するまでは身を潜めて、夜明けと同時に全力で逃げ出すのが妥当だろう。
僕は痛む足を引き摺るようにしながら、『遺跡』の中を目指した。
● ● ●
記憶というものは、案外と頼りにならない。
もしくは、数年という歳月がもたらした変化が大きかったのだろうか。
かつての記憶を頼りにしていながらも、かつてと異なる気のする通路を歩いて、ようやく一息吐いたのは、しばらく時間が経過した後だった。
「………ふぅ。ここはなんとなく覚えてる」
あんまり変わっていない。
四人で一夜を明かした大きな広間だった。
その時の痕跡がわずかに残っている。
日帰りの予定だったのに、なんだかんだで一泊する羽目になったのは、さて誰のせいだっただろうか?
まあ、危険はなく、ほとんど夜通しで雑談ばかりをしていたけれど。
「………………」
いつの間にやら、雨は上がったようだった。
窓のない朽ちた窓枠から、晴れ始めた雲間からの月明かりが差し込んで、広間の中を照らしている。
先刻までに比べると、だいぶ明るく感じられた。
連中もいい加減に諦めたのか、『遺跡』の中にまで踏み込んだ様子はなかった。
ともあれ、油断は出来ないが。
単に連中との距離が離れているだけで、そうした物音が聞こえていないだけなのかも知れないのだから。
「やれやれ、とんだ一日になったよ。ユーリ」
雨に降られる。怪我をする。『崩れ』の連中に追われる。迷子になる。止めに『遺跡』の奥で隠れ潜む。
踏んだり蹴ったりとはまさにこの様を言うのだろうと思う。
「君のように、うまくいかないもんだね」
万事につけて優秀な友人に対する羨望、あるいは小さな嫉妬の含まれた愚痴を零す。
だけど、それは決して不快なものを含んではいない。
ユーリにはユーリの苦労があり、それは彼にしかわからない。
それに彼もまた、僕らを羨んだり、嫉妬したりしているところもあるのだろう。
そんな普通で当たり前な人間なのだと知っているから。
だから、そんな僕たちが友達として今も過ごしていられるのは、本当に嬉しいことなのだ。
「――ん?」
そんな物思いに耽っていた僕は、ふと何かに気づいて声を上げていた。
よくわからない。
けれど、何かが意識の隅に引っかかった。
崩れの連中の気配とかではない。
この広間の中で見過ごしていた何かが、ふと意識に止まったのだと思う。
これはあくまでも根拠のない『勘』に過ぎないのだが、それを気のせいとして捨て置くのはあまりよい選択ではないような気がした。
注意して、広間の中を見て回る。
「これは……」
やがて、僕のではない足跡を発見した。
広間の中は長年の経過で埃が溜まっているが、その足跡が存在する一定の範囲は、何度も人が通っているかのように踏み均されている。
本来ならば、誰も立ち入らないであろう『遺跡』に存在する足跡。
「………………」
しかも、その足跡は壁側へと向かっている。
胸中に生まれつつあるのは、好奇心だろうか。
まるで何かに誘われるように、僕はその足跡の向かう先へと足を進める。
壁を探ると一部の窪みが押せるように細工されており、それを押し込んだら地下へと続く隠し扉が開放された。
「これは……」
わずかな明りを放つ晶石が等間隔で設置されており、足元に対する不安もない。
明らかに人の手が加えられており、その先にあるのはこの朽ちた『遺跡』の姿を仮初のものだとするものだろう。
おそらく、この『遺跡』は今でも生きている。
なんらかの『目的』のために稼動している。
明らかに秘匿を理由とした通路の奥に何があるのだろうか。
昔の物語が伝える教訓で、余計な好奇心がもたらす物は悲惨な末路というのが相場だけれども、不思議と僕はそれとは真逆の可能性を感じていた。
そう。まるで、運命的な何かが待っているかのような――そんな浮ついたものを。
「行ってみようか」
わずかな不安を打ち消すように、自分を鼓舞するように呟いてから、僕は緩やかに下降している階段を下りていく。
最後に、背後で隠し扉が閉ざされる音を聞いた。
――そして、僕は『彼女』と出逢う。