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母の追憶

作者: 文音マルタ


僕は家の庭にある木の影に転がって、風に吹かれる木の葉の、それとそれの間にちらちらと見え隠れしている青空を、そしてまた、どこかブルーな気持ちで眺めていた。


そう、例えば唐突に、今の僕に「五日間一睡もしないのは辛いですか」という問いが投げかけられたとする。そうしたら僕はきっと、「楽じゃない」と答えると思うんだ。辛いわけじゃない。というかどちらかといえばむしろ楽ですらある気がする。何が起こっても今なら無表情で素通りできそうだから。そうさ。何が起こっても─────。

母の声は遠く、しかし僕の頭の中にしっかりと響いた。僕を呼んでいるらしかった。



昼からの講義を受けたあとで帰ろうとした僕に後ろから声をかける人が在った。

「よう、大早紀!!」

とにこにことしながら僕の名前を呼び、近づいてきたのはサークルの先輩の山風さんだ。

「今からサークルに行っているんだろう?だったら少し頼みたい事が」

そういって自分のバッグをごそごそとしている先輩。

「あ、今日は行かないで帰ろうかと」

「え?そうなの?昨日も来なかったよね」

「ええと、昨日はレポートの資料を探して・・・」

「ふうん?そうかい。でも、なんだって今日も休むのかい?」

「それは─────」

その時ちょうど、朝に母から頼まれた用事を思い出す。

「母の代理で行かなければならないところがあるんです。」

先輩は一瞬きょとんとしていたがすぐに笑顔を取り戻し

「うん、そうかい!それじゃあ途中まで一緒しないかい?」



山風さんと駅まで歩き、私はこちらですのでと言って一階で別れ、先輩のいるホームと向かい合ったホームの椅子に腰を下ろした。

先輩の電車が先に到着し、先輩はこちらに爽やかに手を振りながら僕の視界から消えていった。

僕はとりあえず安堵する。

(話さなくて済んだ)

僕がどこに行くのかを。



「母さん」

僕は背後に声をかけながら、ひょいと墓石の前にかがんでみせた。

「ほら、あんたはここにいるべきなんじゃないかい?」

母も僕の隣に、僕を真似したように軽い動作で腰を下ろす。

「あはは、俊くんてば、面白いこというんだあ」

くすくすと笑い声をたてる。これが自分の母のものだとは信じられない。せいぜい五歳くらいしか違わない美しい女性のそれとしか思えなかった。

「あんたの───貴女のせいで僕は寝る事もできないんだ」

ため息混じりに僕は言った。

「仕方ないよね。私、眠くならないんだから、話し相手が欲しいじゃない?」

また、笑い声。ここ数日、それを聞くと僕の脳に睡魔は訪れない。

彼女は、よく笑った。

僕が精一杯思い出しながら話す幼少時の恥ずかしい失敗も、中学校の頃のガールフレンドとの淡い思いでも、五十代目前だがなお現役で働きつづけている親父の話も、全部。

笑ってくれたんだ、貴女は。

決して貴女と共有する事のできなかった過去を。

もしかしたら貴女とわかちあえたかもしれない未来を。

貴女は、ただ、ただ笑って聴いていたんだ。

「俊くん・・・?」

母が心配そうに僕の顔を覗き込む。

唇を噛み締める。そうしないと真顔でいられなかった。

「ふふ。もう、泣かないでよ、俊くん。」

敷石の模様が曖昧になっていく。

「久しぶりに会えて・・・久しぶりに話せて、私は幸せだったんだよ?」

僕は彼女を振り返る。

「貴女が僕と話した事はないじゃないか・・・一度だって・・・!」

「そんなことないもん」

ぷいと彼女はそっぽを向いた。

「俊くんがお腹の中にいた頃、いっぱい話しかけてたんだよ。・・・だからさ・・・」

涙がこぼれ落ちて止まらない。

「そんなに泣かれたら、私も悲しくなっちゃうでしょ?」

この時、例えば唐突に、「二十年間母親が居なかったのは辛かったですか」と聞かれたとしたら、僕はとりあえずそいつを殴り飛ばしてから怒鳴りつけるだろう。

「辛かったさ!」

母は身体をびくりとさせる。

「・・・貴女が居ない二十年間は・・・!!」

僕は周りを気にしないで、とにかく泣き叫んだ。

なんだって今更、死んだはずの母親が見えるようになったのかは分からない。

うずくまる僕の横で母が立ち上がってくるりと反転しながら言った。

「ありがとう」

僕は顔を上げないでハッとする。

「私が現れたら、俊くんはきっと喜んでくれると思っていたわ。・・・けれど、ずっと貴方は泣いていたわ・・・そう、赤ちゃんにもどったみたいに」

母の言葉に耳を傾けていると、不思議と涙が溢れるのが止まった。

「楽しかったわ。俊くんとのお話は。・・・だけどこれ以上居ても、貴方を苦しめてしまうだけだものね。私は、またおとなしくここから見守らせてもらうことにするわ。」

僕は急いで顔を上げる。

「母さん!!!」

母さんは半透明になりながら、目元に涙を浮かべて眩しく笑っていた。

「さようなら。」

強い風が二人の間を吹き抜けて、母はその風の向こうに消えていった。


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