↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

作者: 亜蘭
掲載日:2026/09/14

 沢松の話し方は、一度聞けば忘れられない独特のものだった。小さな声で、ときどきどもりながら、抑揚のない、しかしどこか憎めない素朴な話し方だった。

「それで、僕は言ったんです。『やめてくれませんか』と」

「何をやめるんですか?」

 岩田は沢松に努めて優しく質問した。沢松の目には、詰問されて怯えている様子がありありと浮かんでいた。岩田には沢松を責めるつもりはもとよりなかった。ただ、少しでも沢松の記憶を引き出したかった。

「『僕の悪口を言いふらすのはやめてください』と何度も言ったんです」

 沢松は上目遣いで、岩田の感情を推し量るように答えた。岩田は深い溜息をついた。

「誰に対して『やめてください』と言ったんですか? 誰があなたの悪口を?」

 机の上に礼儀正しく載せられた沢松の指が神経質に微かに震えている。細く真っ白な指には、世間知らずではあるが、何にも汚されていない沢松の純粋さが表れていた。

「誰かはわからないんです。でも、確かに僕の悪口を言ってたんです。それに………」

「それに?」

 頬杖をつきながら、岩田は沢松の目を真っ直ぐに見つめた。沢松が岩田の視線を怖れているのは明らかだった。

「僕に対してだけ悪口を言うのならまだいいんですけど、僕にだけ言ってるわけでもないんです。みんなに言いふらしてるんです」

「みんな?」

 岩田は意識的に怪訝そうな表情をつくり、沢松の言葉を反復して話の続きを待った。

「みんなって誰ですか?」

「全世界のみんなです。だって、あの人たちは宇宙から電波を使って、その電波を地球のあらゆるところまで降らせて、そうして僕の悪口をみんなに広めているんです。その電波はとても特殊なもので、テレビや携帯電話の電波とはまったく違うんです。それを遙か遠い宇宙の彼方から流し続けているんです」


「駄目だ。やっぱり変わっていない。沢松はもう典型的な症状を示している」

 精神病棟での沢松との面会を終えた岩田と佐藤は、近くの喫茶店に腰掛けていた。

「あの沢松という男はもう長いこと精神的に病んでいて、これ以上確かな記憶を引き出すのは難しいだろう。自分が何者なのか、恐らくそれすらよくわかっていないに違いない。日常生活の上でも、正常な判断や行動はもはや期待できない。ましてやあの事件の記憶などあるはずがない」

 岩田は顔全体を無造作に撫で回した。

「そうですかね? 確かに話のところどころに支離滅裂なところはありますが、私が想像していたよりはよほどまともでしたけど」

 岩田は佐藤の感想には耳も貸さず、ズボンのポケットから皺くちゃになった煙草の箱を取り出した。箱を包む薄いビニールの包装が耳障りな高音を立てた。岩田は忌々しそうに火を点けた。

「被害妄想。それに幻聴や幻覚。この手の病気の典型的な症状だ。そのうち、家の中に盗聴器が仕掛けられていると言い出したり、壁の向こうの隣の部屋で本を捲る音がうるさいなんてことを言い出すかもしれない。昔、そういう精神病患者の特集記事を任されたことがあったから、こんな俺でも多少の知識はある。三ヶ月ほどかかりきりで記事を書いた。ところが、当時の編集長がその記事に『情報の氾濫、ストレス過多の現代社会の被害者』って何とも陳腐な見出しをつけやがってね。俺は編集長に食ってかかった。猛然と抗議した。『そんな一言で簡単に片付けるべき問題じゃない』ってね。それ以来、その編集長が転勤するまではろくな仕事が回って来なくなったがね」

 岩田は唇を曲げ、声も出さずに笑った。

「しかし、かわいそうだが、沢松の病気は薬で抑えることはできるかもしれないが、完治を期待することはできないだろう。これだけ医学が発達しても、いまだに原因すらはっきりしていないんだから。原因がわからないんだから、はっきりした治療法も確立されていない」

「しかし、それではあの沢松という男から、これ以上は何も聞き出せないということでしょうか?」

 佐藤の漏らした言葉が岩田に聞こえていたかどうかはわからなかった。岩田は自分が吐き出した煙が宙に溶けていく様をじっと見つめていた。

「沢松はこちらが聞く姿勢を示せば決して口を閉ざすことはない。恐らく何でも正直に話してくれているんだろう。しかし、こんな言い方をしては失礼だが、沢松はすでにわれわれとは違う世界に住んでいる。沢松にとっては嘘はなくても、だからといって、それが現実の世界の事実とは限らない。だから、沢松の話をすべて信用するわけにはいかないんだ。沢松の話には、信憑性という点において大いに疑問がある」

「では、これ以上沢松をつついてもあまり意味はないと?」

 佐藤は岩田の表情を伺った。

「そう言わざるを得ないね、残念ながら」

 佐藤が岩田と知り合ったのは、一九九九年七月のことである。岩田は中堅出版社の、一年半後には定年を迎える現場叩き上げの社会部の記者であった。佐藤は入社三年目のまだ駆け出しで、岩田にくっついて取材のイロハを学んでいる状態であった。そんな歳の離れた二人の記者がコンビを組んでから、すでに一年が過ぎようとしていた。

「しかし、沢松からは何も聞き出せないとなると、他に当たるべき人はいるんですか?」

 岩田は何も答えなかった。ときどき岩田はそういう態度を見せる。何かを考えているのか、意図的に無視しているのか、佐藤にはよくわからなかった。

「そもそも岩田さんはなぜそんなにこだわるんですか? 一九六〇年といえば、もう四十年も前の田舎の事件なんでしょう? 今やそんな事件に関心を示す人なんて誰もいない。それなのになぜ追い続けるんですか?」

「黙れ!」

 岩田は急にむきになった。

「す、すみません」

 岩田のあまりの勢いに、佐藤は思わず首をすくめた。

 佐藤が再び煙草に手を伸ばした。ズボンのポケットの中にはもう何本も残っていない。

「いや、こちらこそすまない。大きな声を出してしまって」

 落ち着きを取り戻した岩田は、煙草に火を点けると目を細めながら言った。

「君にはわからないかもしれないが、この事件はね、俺のライフワークみたいなものなんだ。俺はどうしてもこの事件の真相を知りたい。かれこれもう三十年もこの事件を追い続けている。自分の定年までには何とかしたいと思っていたんだが、それももう無理かもしれない」

 岩田は目を細め遠くを見つめていた。窓の外にはシャッター街が広がっている。しかし、岩田の目には像を結んでいないのだろう。

「だが、仮にこのまま俺が定年になったとしても、俺は個人的に追い続けるつもりだよ。そうやってこつこつと積み上げていけば、俺が死ぬまでには何かわかるかもしれない」

 煙草の灰が落ちそうになっても、岩田は気にもしていなかった。

「この事件の取材を始めた頃はね、まだまだ俺も若かった。真相を明らかにして、スクープ記事にして、大手の雑誌の連中をギャフンと言わせてやりたかった。あの頃は今の君のようにまだまだ貪欲だったからな。ジャーナリストとしての野心に燃えていたとでも言うべきかな。しかし、いつの頃からか、そんなことはどうでもよくなった。スクープ記事なんてどうでもいい。極端に言えば別に記事にならなくてもよくなったんだ。とにかく真相を知りたい。そう思うようになったんだよ。特にここ最近は、歳のせいかますますそういう気持ちが強くなった」

 土色をした岩田の顔色が佐藤には気になっていた。血液検査でもすれば、とんでもない悪い数値が出るだろう。

「いや、私こそ失礼しました。岩田さんのこの事件に賭ける思いを理解しようともしないで………。しかし、だったら捜しましょうよ。沢松から真相を聞き出すことができないとすれば、他に真相を知っている、あるいは少なくともその糸口を与えてくれるような人物を捜し出すしかないじゃないですか?」

 岩田が口角だけで笑った。

「ちゃんといるんだよ、あと二人」

「えっ、他にもいるんですか?」

「ああ、可能性を残しているのはあと二人。斎藤と我孫子という二人の男だ」

 佐藤は岩田という男の周到さを思い知らされた。諦めて投げやりになっている振りをして、仕掛けはちゃんと用意しているのだ。

「何だ。ちゃんといるんじゃないですか。じゃあ、早速その二人を当たりましょうよ。岩田さんの定年までにはまだ時間がある。諦めるのはまだ早いですよ。もちろん僕もお手伝いしますよ。何しろ岩田さんのライフワークなんですからね。きちんと決着させましょうよ」

 岩田が乱暴な手つきで煙草を灰皿に押し付けた。

「じゃあ、まずは斎藤だ。ついて来い」

 岩田はそう言って席を立った。

 佐藤は残っていたコーヒーを急いで一気に飲み干し、岩田の後をついて行った。


 都心から郊外に向かう私鉄に乗って三十分。斎藤の家は駅のすぐ裏にあった。錆びた金網のフェンスを挟んだだけの線路際の古いアパートの一階が斎藤の自宅だった。生ゴミの収集日らしいが、猫に食い荒らされて無残に生ゴミが飛び散っている。

「斎藤は一人暮らしなんですか?」

「そうだ」

 岩田が素っ気なくそう答えた。

「何歳ぐらいの男です?」

「事件が起きたときには三十だから、今や七十の老人だ。だが、身体つきだけ見れば、とても七十には見えないぞ。筋肉質の頑丈な身体をしている」

 斎藤の部屋の前には、古い洗濯機が置かれていた。蓋の上にはかなりの埃が溜まっていて、ちゃんと動くのかどうかもわからない。

 岩田が表札のないドアをノックしようとしたとき轟音が鳴り響いた。佐藤は一瞬首をすくめた。快速電車が駅を猛スピードで通過した。これではノックの音も聞こえないだろう。岩田も電車が完全に通り過ぎるまでノックするのをためらっていた。

「よくこんなところに住めるなあ」

「慣れれば気にならないもんだよ」

 岩田がそう言いながら改めてノックした。岩田と佐藤は耳を澄ませて中の様子を伺ったが、アパートの中からは何の物音もしない。やがて、快速電車の通過待ちをしていた各駅の電車が動き始めた。快速電車が通過したときほどの轟音ではなかったが、それでも地面が軽く震えた。

 佐藤が気づいたときには、ドアは半開きになっていた。中から現れたのは、真っ黒に日焼けしたランニングシャツ姿の大男だった。大きな濁った眼球が佐藤を睨みつけている。

「やあ、また来させてもらったよ」

 岩田は親しげにそう挨拶すると、許可も得ず中に入り込もうとした。斎藤はにこりともせず、しかし抵抗もしなかった。佐藤は急いで岩田の後を追った。

 夏の昼下がりだというのに、斎藤の部屋は薄暗かった。板張りの狭い流しと六畳一間。もう何年も張り替えていないであろう畳の色は茶色く変色していた。畳にはところどころへこんだ箇所があり、黴のような黒い染みがあちこちに貼り付いている。開け放たれた窓にはほつれたビニールの紐が一本張られ、そこには下着やジャージが皺も伸ばさずに吊るされていた。エアコンも扇風機もない部屋の中は蒸し風呂のように暑かった。

 佐藤が部屋の中を観察しているうちに、再び電車が滑り込んできた。天井から吊り下げられた裸電球が激しく揺れた。

 岩田のほうは慣れたもので、押入れの柱を背もたれにして胡坐をかいている。

「最近、仕事の方はどうなんだい?」

 岩田は旧友と話すかのように斎藤に訊ねた。

「知ってのとおり景気が悪いもんだから、なかなか仕事が見つからねえ」

 斎藤の野太い声がそう答えた。

「身体のほうはどうなんだい? 前に来たときは腰が痛いとか何とか言ってたが?」

「腰のほうは随分とよくなったんだが、今は膝のほうの調子が悪くてな。階段の上り下りが辛いんだ」

 岩田はズボンのポケットから煙草を取り出した。

「どうだい? やめちゃいないんだろう?」

 岩田が煙草を勧めると、斎藤は関節の太い指を二本差し出した。

 斎藤は煙草の煙を深く吸い込むと、煙が肺全体に行き渡るのを確かめるようにして、煙を出すのを惜しむようにゆっくりと吐き出した。斎藤の目尻が満足そうに垂れ下がるのを佐藤は黙って見ていた。

「ところであんた、今日は何の用かね?」

 一息ついた斎藤が岩田にそう訊ねた。

「いやあ、何か新しい話があるわけじゃないんだよ。もしかしてあれからあんたの気が変わって、何か話してくれる気になったんじゃないかと思ってね。それでまた来てみただけのことさ」

 斎藤が肉食動物が獲物を狙うような低い声で笑った。

「しかし、あんたも頑張るねえ」

 そう言い終えると、突然斎藤の視線が佐藤に向けられた。

「ところで、そこの若いのは何者だい?」

「は、初めまして。私は佐藤と申します」

 佐藤は蛇に睨まれた蛙のように身体を堅くしてそう答えた。

 横から岩田が続けた。

「うちの若い奴で、ちょうどいい機会だからいっしょに連れて来たというわけさ」

「ちょうどいい機会? そういえば、あんたもそろそろ六十になるんだろう? いよいよ定年というわけか。それでこの若いのに後を引き継がせようとでも考えて、わざわざここへ連れて来たというわけかい? やめとけ、やめとけ。誰が来ようが同じこった。無駄足になるだけだ」

 岩田が乾いた声で笑った。

「何も仕事の引継ぎで連れて来たわけじゃないさ。そもそもこの事件を今さら記事になんかできるわけもないだろう。そんな価値のないものに、うちの会社がわざわざ優秀な若い奴を割り当てるはずがない。こう見えても、こいつは名の通った大学出なんだよ。記者だってそれほど暇なわけじゃないんだ。この俺を除いてはね。とにかく、金にならないことには手を出さないってのがまっとうな会社ってもんだ」

 フィルターの近くまで灰になっても、斎藤はなかなか煙草を消そうとはしなかった。斎藤の爪の先は垢で真っ黒だった。

「定年になったら、あんたにはちゃんと退職金やら年金やらが出るんだろう? いいご身分だ。わしらなんか、七十になってもまだまだ働かんと食っていけやしねえんだからな」

「さあね。退職金や年金がいくら出るかなんて考えてみたこともない。でもね、俺が退職金を何に使うつもりかわかるかい?」

「知ったことか」

 岩田は上半身をゆっくりと起こしながら言った。

「あの山の伐採さ。退職金で足りなければ借金してでも切り倒してみたい」

 斎藤が大きな眼球を剥き出すように岩田を睨みつけた。そして、フィルターしか残っていない吸殻をビールの空き缶の中にゆっくりと落とした。

「もう一本いくかい?」

 岩田の申し出に、斎藤は黙って人差し指と中指を突き出した。岩田はズボンのポケットから煙草の箱を取り出し、斎藤に一本を渡した。それが最後の一本だったことに気づいた岩田は忌々しそうに箱を捻り潰した。

「すまねえな」

 そう言って煙草の煙を再び深く吸い込むと、斎藤は満足そうに目尻を下げた。

「どうなんだい? あんただってもうその歳だ。あんたが死んでしまったら、もう誰もあのことを知っている人間がいなくなっちまう。誰かに洗いざらい話してしまいたい、楽になりたいって気持ちがどこかにあるんじゃないのかい?」

 斎藤がヤニのこびりついた黄色い歯を覗かせながら笑った。

「あんたもしつこい奴だねえ。何も話すことはないと昔から言ってるだろう。わしはな、誰にもあのことは話さないと決めたんだ。わし一人で墓場まで持っていくつもりだ」

 岩田と斎藤は、視線を先に外したほうが負けとでもいうように、しばらくの間無言のままお互いを凝視した。

 また電車が滑り込んできた。裸電球が揺れた。力なく垂れ下がった斎藤の洗濯物も静かに揺れた。

 岩田はゆっくりと立ち上がった。

「また来る」

 そう言うと、岩田はドアに向かった。慌てて佐藤も岩田の後を追った。ドアを閉めるとき佐藤が振り返ると、斎藤はまだゆっくりと二本目の煙草をふかしているところだった。佐藤はわざと大きな音を立ててドアを閉めた。斎藤が追い駆けてくるような気がして怖かった。

 前を向くと、岩田はすでにかなり先を歩いていた。

「岩田さん」

 佐藤の呼びかけにも岩田は振り向きもしなかった。小走りでやっと追いついた佐藤は岩田に詰め寄った。

「岩田さん、あの男はいったい何を知ってるんです?」

 岩田は足早に駅の方に向かいながら、なかなか答えようとはしなかった。しかし、駅の階段までやって来ると、岩田は背筋を伸ばして急に立ち止まった。

「当時、あの集落に住んでいた貴重な証人なんだよ。斎藤は必ず知ってるはずなんだ。あのとき何かを見たはずなんだ」

 佐藤は息を弾ませながら、それでも言葉を続けた。

「もしそうなら………。斎藤は仕事がなくて金に困っているようでした。取材料を少し弾めば喋るんじゃないでしょうか?」

 岩田が唇を歪めてふっと笑った。

「そんなことはもう何度も試してみたさ。でも、現金の入った封筒を目の前にしても、あいつは決して受け取ろうとはしなかった。ああ見えて、妙に頑固なところがある。いや、何かを必死で守ろうとしているんだ。いくら金を積んだところで無駄だ。そういう男なんだよ、斎藤は」

 階段を登り終えた佐藤が岩田の肩をふいに掴んだ。

「だったら、斎藤は本当に何も知らないのではないでしょうか? だって、事件当時、あの集落に住んでいたというだけのことなんでしょう? だったら、本当に何も知らないという可能性だってある」

「そんなはずはない」

 岩田は語気を強めてそう言った。

「行くぞ」

 岩田はさっさと改札を通過した。

「行くって、どこへ?」

 岩田は佐藤の方を振り向こうともしなかった。仕方なく佐藤も岩田の後を追った。岩田のワイシャツの背中には汗の跡が滲んでいた。


 岩田と佐藤は、斎藤のアパートまで来たときとは逆方向に、郊外から都心に向かう上りの普通電車に乗り込んだ。昼間の各駅停車は、通勤時間帯の混み具合からは想像もできないほど空いていた。岩田と佐藤は並んで座ったものの、会話のないままに三駅ほどが通り過ぎた。佐藤は気まずい沈黙が怖かった。

「岩田さんは定年後に何をされるおつもりですか?」

 岩田はさっきからじっと目を閉じたまま眠ったようにしている。

「さあな。これといって決まっていない」

 岩田は短く答えた。

「これまで随分と働いてこられたんです。何もまたあくせくしなくてもいいじゃないですか。奥さんだって怒ってらっしゃるでしょう。若い頃、岩田さんはほとんど家に帰らなかったって話は有名ですよ。仕事、仕事、取材、取材。定年を機に、少しは奥さん孝行ってのもいいんじゃないですかね?」

 電車が右にカーブすると、線路と車輪の軋む金属音が鳴り響いた。

「いや、俺は諦めない」

 岩田の言葉には言い知れぬ強さがあった。

「死ぬまで追い続けるつもりだ」

「そこまでして、なぜなんですか? 私には到底理解できません」

 佐藤は岩田の横顔をじっと見つめた。

「それは、俺にもわからん」

 岩田が目を見開いた。

「とにかく、俺はあの事件の真相が知りたいんだ。ただそれだけだ」

 腕組みをしたまま向こうの窓の外を見つめる岩田の横顔を佐藤は息を呑んで見つめていた。岩田は景色を見ているようで実は何も見ていない。今の岩田の頭の中で視覚は機能していない。岩田は事件のことだけを考え続けている。佐藤にはそれがよくわかった。

「しかし、仮にですよ。仮に事件の真相がわかったからといって、それが今さら何になるんです? もう四十年も前の事件なんです。小さな小さな集落で住民が忽然と消えてしまった。九人もの人間が、ある日突然いなくなってしまった。確かに当時は神隠しだと言われてあの地方ではかなりの話題になったでしょう。しかし、単なる集団失踪事件として事件は処理済みなんです。集団で失踪するには理由もあった。あんなところでは食べていけない。暮らしていけないからみんな出て行った。住民みんなが示し合わせて集落を捨てて他の土地に移り住んだ。別に不自然なことではないでしょう。生活が成り立たないのなら、誰だってそういう行動に出るはずです。そのどこに不審な点が残っていると言うんですか? もういいじゃないですか、岩田さん。やれるだけのことはやったでしょう」

 佐藤はこれまで口にできなかったことを一気に吐き出した。

「君にはわからないだろうが、そうじゃないんだ。あの事件のことを訊くと、当時の関係者のみんなが表情を変える。ある者は顔色が曇り、ある者は蒼白になる。『帰ってくれ』と突然怒り出す奴や急に無口になる奴がいる。何かに怯えて泣き出す奴までいる。みんなもう死んじまってるがね。きっと何かがあったんだ、あのときに。俺はそう確信してるんだ。何かとんでもないことがそこにはあったんじゃないかとね。そりゃあ、何も証拠なんてない。単なる俺の直感だ。しかし、とにかくこのままでは俺自身が納得できないんだよ」

 各駅停車の電車に乗って八駅目、岩田が突然立ち上がった。

「降りるぞ」

「ちょ、ちょっと、岩田さん」

 佐藤も慌ててホームに飛び降りた。

「ここに我孫子という男が住んでいる」

「その男もあの集落に住んでたんですか?」

「ああ、そうだ」

 岩田は無精髭を撫でながら続けた。

「沢松、斎藤、我孫子。もうこの三人しか手掛かりはないんだ。だから、俺はもう何年もこの三人を訪ねてる。何度足を運んでも得るものはないんだが。それでもこうしてまた来てしまう。なぜだか自分でもわからん」

「それで、その我孫子という男はどんな男なんですか?」

「斎藤とは違って、経済的には裕福だ。何しろこの辺りでは一番大きな不動産屋の社長だからね」

「不動産屋の社長?」

「ああ、そうだ。もちろんこの辺りだけで商売をしている地場の不動産屋だから、全国展開しているような大手の不動産会社ほどのことはないが、しかし、しっかりとこの辺りに根を張っていて、地元からの信頼も厚い」

「へえ、田舎の集落から都会に出て来て成功を収めたってわけですね」

「我孫子は斎藤とは違って見た目も紳士だ。突然俺が訪ねて行っても必ず丁重に迎えてくれる。単なる一介の記者であるこの俺に対してそんなにもてなす義理はないはずだがね」

 改札を出たところで岩田が立ち止まった。

「ここで待っててくれ」

 そう言うと、岩田は駅の売店の方に駆け寄って行った。岩田が煙草を買いに走ったことに佐藤はすぐに気がついた。

「問題は我孫子が記憶喪失ってことだ」

 煙草を二箱買って戻って来た岩田の言葉を佐藤はすぐには信じることができなかった。

「ええっ、記憶喪失? 記憶喪失なんかで社長が務まるんですか?」

「記憶喪失といっても、あの事件の前後数年間の記憶がないというだけだ。それ以前の子どもの頃のことはよく覚えているし、東京に出て来て以降の記憶もしっかりしている。今の仕事や生活には何の支障もない。ただ、事件前後の数年間だけがぽっかり抜け落ちているだけなんだ」

 岩田が鼻を鳴らして小さく笑った。

「実に都合がいい記憶喪失だとは思わないかい? ピンポイントでその数年間だけの記憶がないんだよ。俺は以前に似たような記憶喪失の男を取材したことがあるんだ。その男は海辺で近所の住人に保護された。ところが、なぜ自分がそんなところにいたのか、どうやって今まで来たこともない見知らぬ土地まで辿り着いたのか、まったく覚えていなかった。それどころか、自分が誰なのか、名前すら思い出すことができなかった」

 駅前には古い商店街が広がっている。岩田は狭い路地に入って行った。

「そうだ。自分の名前も、住所も、家族のことも、すべて記憶を失くしていた。しかし、不思議なことに生きていくために必要なことは全部覚えているんだ。日常生活には何の支障もなかった。新聞も読めるし金の計算もできる。学校で習ったようなことは、数学も英語も全部覚えている。ただ単に自分に関係する過去のことだけがわからないんだ」

「そういうことって現実にあるんですね」

「やがてその男は自ら商売を始めた。小さなレストランを始めたんだ。もともと料理がうまくてね。レストランは開店と同時に大繁盛。料理が美味いというだけじゃなく、食材の調達から店の資金繰りまで、経営にまつわることもすべてその男は心得ていた。二番目の店を出す頃には、男が保護されてからすでに五年が経過していたが、それでもその男は自分が誰なのか思い出すことができずにいた。ところが、十五年ほどが経ったときのことだ。男が朝起きて歯磨きをしていたら、突然思い出したんだ。自分のことも過去のことも、突然すべての記憶が蘇ったんだ」

「ええっ? 歯磨きをしていて思い出したんですか? そんな大事なことを?」

「そういうところが実に人間の不思議なところさ。何も歯磨きのときじゃなくてもいいじゃないかと俺も思った」

 突然背後から自転車の呼び鈴の音がした。佐藤が振り返ると、身体の割には大きな自転車に乗った小学生らしき子どもが佐藤のほうを睨んでいた。

 小さな声で笑っている岩田に佐藤は質問を続けた。

「それで、その男は何者だったんですか?」

「実は、都心で何軒ものレストランを経営していたやり手の青年実業家だった。最盛期には三十もの店を経営していたそうだ」

「やっぱり。だから、記憶を失くしてからもそういうことだけはできたわけですね」

「そういうことだ。しかし、あるときから経営が悪化し、男の会社は倒産の危機に直面した。手形の不渡りを出してしまったらしい。それで、もはやこれまでと諦めて、海辺に一人でふらふらとやって来たそうだ。もちろん入水自殺の覚悟をしてな。そして、財布やら免許証やらを岩場に捨てて、海に浮かんでいるところを地元の人に見つけられて一命をとりとめた。後日、男の言うとおりその辺りの岩場を探してみたら、十五年も経っているというのに、ちゃんと免許証が出てきたというんだから驚きだね。さすがに財布の中身まではなかったそうだが………」

「それはすごい」

「その後、俺は記憶喪失の専門家に取材して、そのときに訊ねてみたんだ。そうしたら、その専門家の話がなかなか興味深くてね。人間というものは、他の動物同様、とにかく自己の生命維持を第一義につくられているらしい。それが動物の本能というものなんだろうな。確かに、簡単に自ら生命を放棄するようでは、種の保存を図ることができないだろうからね。だから、生まれつき人間には生命維持のための安全装置というか、自己防衛のメカニズムみたいなものが備わっているそうだよ」

「なるほど」

「男は自殺を図ろうとした。その危険を察知した脳が、男の意思とは無関係に安全装置を働かせた。自殺につながる記憶を脳が自ら遮断して脳の奥底深くに沈めてしまったというわけだ。もちろん、そんなことが起こり得るなどと科学的に証明されているわけではないんだが、俺もこれには思わず納得してしまったね。それは実に理に叶っていると」

 今度は向こうから軽トラックが細い路地に入り込んできた。岩田と佐藤は古本屋の軒先に身をよけた。

「確かにあり得そうなことですね」

「脳の方ももう大丈夫と判断したんだろうな。十五年も経ってしまえば、今さら思い出しても自殺に向かうこともないだろうとね」

 軽トラックは、佐藤の腰の辺りをかすめて通り過ぎた。

「だから、我孫子だっていずれ思い出すかもしれない。俺はそう信じてるのさ」

 佐藤は額の汗を掌で拭いながら言った。

「しかし、あの事件は十五年前どころか、もう四十年も前のことなんですよ。四十年も経って思い出せないことを今さら思い出せるとはとても思えませんがね。海辺の男の話とは少し事情が違うんじゃないでしょうか」

「そんなことは誰にもわからないじゃないか。我孫子にとってはそれほど衝撃的なことだったのかもしれない。脳が安全と判断するにはまだ時間が必要だと考えているのかもしれない。きっとそれぐらいの事件だったんだ。だからこうして我孫子のところに何十年も通っている」


 商店街を抜けると、辺りは急に閑静な住宅街に変わった。その住宅街の片隅に我孫子の家はあった。それほど大きいというわけではないが、庭はきれいに手入れされ、品格の感じられる佇まいだ。我孫子の不動産屋は水曜日が定休日であることを岩田は知っていた。我孫子は家の庭いじりが趣味であり、休みといってもあまり出かけることはないと岩田は言った。今日は水曜日だ。水曜日に家を訪ねれば、かなりの確率で我孫子に会うことができることを岩田は知っていた。

 入口でチャイムを押した岩田は、中からの返事を待った。

「はい、どちら様ですか?」

 少し甲高い声がした。

「お久しぶりです。岩田です」

 岩田は愛想よく答えた。

「ああ、岩田さんでしたか。少しお待ちください」

 会社名を言わずとも、岩田と名乗るだけでわかるほど、岩田と我孫子はよく知った仲になっていた。

「やあ、岩田さん、お久しぶりです。さあ、中へどうぞ」

「初めまして」

 佐藤は急いで我孫子に挨拶した。

「岩田さんと同じ出版社の方ですか? さあどうぞ、遠慮なさらずに」

 我孫子の顔には屈託のない笑顔が浮かんでいた。痩せた身体に上品なロマンスグレーの髪型。外見からしても、我孫子が地域の名士であることは十分に伺えた。

 広い応接間に通された岩田と佐藤は、大きな革張りのソファに案内された。佐藤は本革の匂いに包まれて、自分の気分が幾分高揚しているのを感じた。部屋の中にはさまざまな置物が並べられていたが、どれも年代物の雰囲気を漂わせていた。

 岩田は慣れた様子でソファに沈み込んでいた。それでも無精髭だけはさっきからずっと気になるらしい。

「今日はあいにく妻が外出してましてね。少しお待ちください。何か冷たいものでもご用意しますから」

「いえ、気を遣わんでください。突然押しかけてきたのはこちらのほうですから」

 岩田の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、我孫子は奥のほうにそのまま引っ込んでしまった。

「すごい家ですね。いかにも不動産屋の社長のご自宅といった感じがします」

 お盆の上に麦茶を三つ載せた我孫子が戻って来た。

「さあ、どうぞ。愛想がなくてすみません。外は暑かったでしょう。今年の夏は特に暑いと感じるのは私だけでしょうか?」

「これは申し訳ありません、いつも突然にやって来て。確かに外は暑いですが、まあ夏というのはそういうものです」

 斎藤とは違い、我孫子の眼差しは柔和で優しかった。

「ところで、何かわかりましたか、下谷の集落の件は?」

 岩田より先に我孫子が集落の名を口にしたことに佐藤は驚いた。

「いや、それが、何も新たにわかったことはありません。もう四十年も前の話ですからね。今さらそう簡単に新しい事実が出てくるわけもありません」

「そうですか。せっかく岩田さんがここまで熱心に調べていらっしゃるというのに」

 我孫子はゆっくりとソファに腰掛けた。

「下谷ですよねえ、下谷………」

 我孫子は岩田のために下谷の事件のことを思い出そうと努めていた。

「そうです、下谷です。上谷じゃなくて」

「下谷、下谷………。いや、やっぱり駄目です。上谷のことなら、どこでどんな遊びをしたかまでよく覚えているんですが、下谷のこととなるとまったく覚えていません。本当に申し訳ない」

「いや、そんなに簡単に思い出していただけるとは思っていませんから。実は、今日もこちらに伺う前に、沢松さんと斎藤さんのところに伺ってきました」

「ああ、沢松さんと斎藤さんね。いつも岩田さんがいらっしゃるところだ。私と同じく、下谷の集落について何か知っていらっしゃる方たちのことですよね。それで、何かわかりましたか?」

「いいえ、いつもと同じです。沢松さんは以前より被害妄想が酷いようで、お医者さんの話では、最近は特に幻聴も激しくなってきたようです」

「お気の毒な話ですね」

「斎藤さんも相変わらずでして、決して下谷の話はなさろうとはしません。本気で、自分一人で墓場まで持って行くおつもりのようですよ」

「岩田さんから下谷のお話をお伺いしたのは、もうかれこれ何年前のことですかね? 三十年ほども前になりますか………」

 我孫子が佐藤のほうを振り向いた。

「あなたは岩田さんとペアでお仕事をされていらっしゃるんですか?」

 佐藤は慌てて姿勢を正した。

「あっ、申し遅れました。私は佐藤と申します。岩田と同じ出版社で、岩田の部下としていわば見習い中みたいなものです」

「そうですか。それはラッキーですね。岩田さんのような記者に付いていれば、仕事上はもちろんのこと、人としての生き方についても学ぶべき点はきっと多いでしょう」

 我孫子が優しく微笑んだ。

「私は上谷の集落の生まれです。四国の山間の本当に小さな集落です。その上谷の集落も、かなり前になくなってしまいましたがね」

「集落がなくなってしまったんですか?」

 佐藤は思わず身を乗り出した。

「そうです。もともと上谷は山奥の小さな集落で、過疎化の進展とともに、とうとう誰も住まなくなってしまったんです。言わば自然消滅してしまった集落というわけです」

 我孫子が麦茶のグラスの氷を鳴らせた。

「しかしね、岩田さんがおっしゃっているのは上谷ではなく下谷です。岩田さんが私に教えてくれたのは、上谷の集落から二キロほど離れたところに下谷というさらに小さな集落があって、その集落の住民がある日突然消えてしまったという不思議な話なんです」

 岩田は目を閉じたまま、我孫子と佐藤のやり取りを黙って聞いていた。

「それで? 我孫子さんは下谷のことについて、本当にまったく何も覚えていらっしゃらないんですか?」

 我孫子が首を横に振った。

「申し訳ありませんが、本当に何も覚えていません。以前に岩田さんから新聞記事を見せていただいたことがあります。古い地方新聞の小さな記事で、『下谷の住民が集団失踪』という見出しが付けられていました」

 我孫子が目を細めながら、今度は岩田のほうを見た。

「実は、その記事を見るまでは、私は岩田さんのことを疑っていたんですよ」

 岩田は目を開けたが、表情はまったく変えなかった。

「下谷の話なんて架空の話で、私は岩田さんに騙されているんじゃないかと思っていました。しかし、その記事を見せられたときに気づきました。『下谷という集落は実在したんだ。岩田さんは嘘をついてはいなかったんだ』と。しかし、それからというもの、私の苦悩の日々が始まった。隣の集落の下谷のことを私が知らないはずはない。隣の集落のことを覚えていないわけはない。そのとき初めて私は自分の記憶に欠けている時間があることに気づかされたんです」

 岩田は黙ったままであった。

「いや、岩田さんのせいでも何でもありません。岩田さんを非難しているわけではないんです。自分の記憶が完全ではない。自分の記憶にぽっかりと抜け落ちている部分があると気づいたとき、その衝撃はものすごいものでした。そんなことが自分に起こり得るなんて、それまで想像したこともなかったんです」

「それはそうでしょう。同じことがもし私に起きれば、私だって平常心ではいられない」

 岩田がやっと口を開いた。

「もし私が下谷の話をしなければ、我孫子さんはずっと幸せな人生を送ることができたかもしれない。申し訳ないことをしたと思っているんですよ、実のところは」

 我孫子は柔和な笑顔を浮かべた。

「いえ、岩田さんに教えていただいたほうがかえってよかったんです。私の仕事が今日順調に運んでいるのは、そのときの岩田さんのお話のおかげなんです。自分の記憶が完全ではない。すなわち、自分自身は必ずしも完全な人間ではないということを改めて思い知らされたんです。すると、何だか急に自分自身が謙虚になることができた。若さも手伝って、それまでの私は傲慢だった。自分の考え方や言動がすべて正しいと信じ切っていた。少しでも自分の考え方に合わないと、その人間のことを馬鹿にしていた。しかし、自分が完全な人間ではないと知ったとき、自分自身を客観的に見つめることができるようになった。それが今の仕事にも生かされているんです」

 我孫子は残った麦茶を一息で飲み干すと、その勢いで氷の一塊まで口の中に流し込んだ。我孫子の口の中で氷が砕ける音がした。

「そういう意味では、ここにいらっしゃる岩田さんは私の恩師とも言える人なんですよ。しかし、私はまだ何も恩返しができていない。下谷のことについて、いまだに何一つ思い出すことができないんですから」

 我孫子が微笑みながら佐藤にそう言った。

「ところで、岩田さんのご定年はいつでしたっけ?」

「来年の二月です」

「そうですか。それまであと半年しかない。何とか岩田さんが現役の記者でいらっしゃる間にお役に立とうと思っていたのですが。残り半年で何か思い出す自信は正直なところ今の私にはありません」

 岩田が上半身を起こした。

「いえ、気になさらないでください。私が個人的に興味を持って追い駆けているだけのことですので。あの下谷の集団失踪事件について記事にすることができなくてもかまわない。編集長から『まだ君はあの事件を追っているのか。そんな暇があるんだったらこっちの事件を調べてくれ。こっちに興味がないんだったらあっちの事件でもいい。とにかく、うちは人手が足りないんだから、無意味なことに時間を潰さないでくれ』って嫌味を言われるぐらいなもんです」

 結局、我孫子のところでも、岩田と佐藤は収穫を得ることはできなかった。

 我孫子は岩田と佐藤を丁重に門のところまで見送ってくれた。

「残念ながら、我孫子さんは本当に何も覚えていないようですね」

 岩田は黙っていた。そして、ズボンのポケットから煙草を取り出し火を点けた。我孫子の家では煙草を我慢していたらしい。

「いや、ああ見えてわからんよ。私も以前はそう思っていた。我孫子は本当に記憶を失っているものだと」

「そうじゃないんですか?」

「いや、確かなことはわからん。本当に記憶がないのかもしれないし、実は鮮明に覚えているが知らぬ振りをしているのかもしれん。人間なんてわかりゃしない。嘘をつくのが人間だ。いいか? 君もこれから立派な記者を目指そうと思うんだったら、人間を百パーセント信用しちゃ駄目だ。もちろん人間には悪いところばかりじゃなく、いいところもたくさんある。だが、他の動物と人間が決定的に違うのは嘘をつくということだ。人間だけが損得勘定で嘘をつく。取材をしていて関係者の話が合わないとき、何か矛盾があるとき、それはそのうちの誰かが嘘をついているからだ。誰かが真実でないことを言っている。今回だって正直者は沢松ぐらいのものかもしれない。皮肉なことに病人だがな」

 岩田の煙草の煙が佐藤の目に沁みた。

「沢松にとっては、本当に自分の悪口が聞こえるんだ。沢松はそれをありのままに話しているだけだ」

 快速電車が通り過ぎた。駅のホームで各駅停車を待つ佐藤のワイシャツの袖が微かに揺れた。

「今度の日曜日は空いているかい?」

 岩田が佐藤に訊ねた。

「ええ、休みです。特に予定もないです」

「だったら、一度下谷を見ておくか?」

「はい?」

「下谷だ。私にとっても、在職中最後の下谷になるかもしれない」

 佐藤は改めて岩田の執念を感じた。そして、岩田が自分を誘ってくれたことを佐藤は嬉しく思った。

「ぜひ私も連れて行ってください、現場へ」

 佐藤はすぐに返事をした。

 岩田が微笑んだ。

「だが、綺麗な格好をして来るなよ。汚れてもいいような服装で来るんだ。おっと、それに靴もな。新品の革靴なんかで来るんじゃないぞ」

「わかりました」

 佐藤は元気に答えた。


 羽田からの飛行機は空いていた。佐藤は窓側に座らされ、岩田は通路側を選んだ。

「俺はな、通路側の席のほうが好きなんだ。窓側だとどうも狭いところに押し込まれたような気になって窮屈な思いがする」

 岩田はたいして長くもない足をわざと組んで、左足を通路に投げ出した。岩田はこの便に何度乗ったのだろう。

 佐藤は空港で会ったときから、岩田の提げていた黒い鞄が気になっていた。その鞄は、今は岩田の足元に置かれていた。別に宿泊の予定はない。取材のときも、岩田はいつも手ぶらだった。ポケットの中に、小さな手帳とペンが器用に押し込まれ、必要なメモはそれで済ませていた。岩田は記憶力にも優れていた。岩田は一度見聞きしたことはほぼ完璧に覚えている。

 佐藤は岩田のことを根っからの記者だと尊敬していた。

「もう少し上の人とうまく付き合えば、もっと昇進できだだろうに。変に頑固で一途なものだから、損ばかりしている」

 佐藤は岩田のことをいつもそう思っていた。

 飛行機の中でも岩田は無口だった。佐藤は意を決して岩田に訊いた。

「岩田さん、その黒い鞄なんですが………」

 岩田が眠そうな目で振り向いた。

「ああ、これか?」

 岩田は窮屈そうに上半身をかがめて黒い鞄を手に取ると膝の上に置いた。錆び付いたチャックを開ける音がした。近くでよく見ると、ところどころ鞄には穴が空いている。

「なかなか年季の入った鞄ですね」

「ああ、入社したときから使ってるからな」

 鞄を開けると、岩田は中から黄緑色のファイルを取り出した。

「今のうちにこれでも読んでおけ」

 佐藤の膝の上に置かれたファイルはずしりと重かった。

 佐藤は恐る恐るファイルの中を覗き始めた。古い新聞記事の切り抜きやセピア色に変色した写真が、一枚一枚丁寧にファイリングされている。

「岩田さんって、見かけによらずまめなんですね。これって、下谷の集団失踪事件に関する資料ですよね?」

「ああ、そうだ」

 岩田は目を閉じたまま首を縦に振った。

 ファイルの中には、驚くほどの膨大な資料が詰め込まれていた。岩田の三十年にも渡る汗の結晶である。

 やがて、岩田はぽつりぽつりと噛み締めるように話し始めた。

「その事件が起きたのは、俺が入社した年のことだ。事件が起きたとき、俺はその事件のことを知らなかった」

「最初から調べていたわけではなかったんですね?」

「ああ、違う。私がその事件のことを知ったのは、それから一年後のことだ。休みを利用して四国に旅行したときのことだ。当時にしては珍しく、今の女房と婚前旅行をしていたときのことだった。泊まった旅館の女将から下谷の失踪事件のことをたまたま耳にしてね。それで何となく興味を持った。それが下谷の事件との出会いだった」

「そのとき女将は何と?」

「近くで集団失踪事件があったというだけで、それ以上は喋りたがらない。深く訊こうとすると、口をつぐんで逃げるようにどこかへ行ってしまうんだ」

「女将は何かを知っていたわけですね」

「それはわからない。何かを知っていたのかもしれないし、本当に知らなかったのかもしれない。ただ、誰が聞いても気味の悪い不思議な事件であることには間違いない。九人の人間が、あるとき一斉に忽然と姿を消してしまったんだからね」

 佐藤がファイルの中を指差した。

「ここに書いてありますよ、この記事。『三世帯九人が集団失踪』って。『一世帯は未亡人と息子の二人暮らし、別の一世帯は夫婦と小さな子どもの三人、もう一世帯は夫婦二人、合計九人が忽然と消えてしまった』って。あっ、一人だけ後で見つかった人がいる。十才の子ども………」

「それが沢松だ」

「あの入院している沢松のことですか?」

「そうだ。三日後に見つかったんだ。怖がってずっと隠れていた。だから、失踪したのは九人ではなくて、八人というのが正確だ。沢松が見つかって以降も、当時はずっと九人が失踪と報道されていたがな」

「でも、ここにこんなメモが書いてありますよ。『見つかった十才の子どもは、その夜悪戯のお仕置きで納屋の中に閉じ込められており、そのとき何が起こったのか見ていない。その後も二日間、ずっと納屋の中にいた』って」

「それは俺が書いたメモだ。若かりし頃の沢松に聞いたんだ。当時はまだ沢松も病気を発症していなかったからな。今より受け答えもまともだった。しかし、何の悪戯で親からお仕置きされたのか知らないが、一晩中真っ暗な納屋に閉じ込められていたんだから、本当に何があったのか知らないらしい。今どきそんなお仕置きなんかしてみろ。児童虐待だ何だといって大騒ぎになるかもしれないが、その当時はそれぐらいが当たり前だった」

「メモによると、事件が明るみになったのは、上谷の鬼頭という男が警察に届け出たことがきっかけということになってますね」

「ああ、そうだ。九人が失踪した翌日に、鬼頭という男が地元の警察に届け出た」

「岩田さんは鬼頭という男にも会われたんですか?」

「いや、会うことはできなかった。事件の半年後に鬼頭は亡くなっている。鬼頭はそのときすでにかなりの高齢だった。死因は心不全ということになっている。鬼頭は上谷の長老的な存在で、上谷のことは何でも知っていたそうだ。地理も歴史も家系のことも、上谷のすべてをな」

「残念でしたね。鬼頭に話を聞くことさえできれば、何かわかったかもしれないのに」

 岩田は気圧のせいで耳が痛くなったのか、普段は舐めない飴を頬張った。佐藤も一つ勧められたが断った。

「鬼頭が亡くなる寸前に、自分の女房にこう言ったそうだ。『斎藤と天谷、それに我孫子には実に悪いことをした。申し訳ない。沢松の息子のこともよろしく頼む』と」

「斎藤? 天谷? 我孫子? それに沢松の息子?」

「ああ。あの斎藤と我孫子、それに沢松のことだ。天谷という男は、斎藤や我孫子と同じく上谷の出身なんだが、今からもう二十五年ほど前に亡くなっている。自殺だ。遺書らしきものはなかった。鬼頭の女房もすでに亡くなってしまったから、今や真相を知る可能性のあるのは、斎藤と我孫子、それに沢松に限られている」

「それで、岩田さんは何度もその三人のところに足を運んでいらっしゃったんですね」

「何しろ他に行くところがないからな」

 岩田が無精髭を撫でながら笑った。

「ところで、この小さな記事はいったい何ですか? 東京の下町での殺人事件………。被害者は人権擁護団体の職員のようですね。下谷の集団失踪事件とは何の関係もないようですけど………」

「ああ、その記事か。迷宮入りして結局犯人は捕まえられなかった………」


 空港からはバスに乗り、鉄道の駅に着くと今度はローカル線に乗り換えた。やがて二人は無人の小さな駅に到着した。その駅で降りたのは、岩田と佐藤の二人だけだった。

 岩田は慣れた様子でタクシー乗り場に向かった。待っていたタクシーは一台きりで、運転手が暇を持て余すように車の外で大あくびをしていた。

「運転手さん、いいかい?」

「あっ、どうぞどうぞ」

 運転手は慌てて帽子を被り直し、白い手袋をはめ直した。

「上谷まで」

「上谷?」

 運転手が怪訝そうな声で後部座席の岩田をミラーで確認した。

 岩田がにっこりと微笑んだ。

「運転手さん、失礼だが年齢は?」

「年齢? 三十を過ぎたところですが?」

「そうかい。三十過ぎの人でももう知らないんだ、上谷のことを。じゃあ、私の言うとおりに行ってください。私が道順を教えますから。まずは、県道を真っ直ぐに行って」

「はあ」

 運転手はまだ半信半疑の様子で車を走らせ始めた。

「上谷と言っても通じないんですね」

 佐藤が小声で岩田にそう言った。

「無理もない。今じゃ誰も住んでないんだし、町名も変わってしまったからね。それにもともと地図に載るかどうかの小さな集落なんだから。上谷の近辺に生まれ育った者にしかわからなくても当たり前といえば当たり前さ」

 岩田はその後も手際よく道順を運転手に指示していった。何度も坂を越え、曲がりくねった細い山道を奥のほうに入って行った。

「こんな先に何があるんですか? 私もこんなところまで来たのは初めてなもんで」

 運転手が何度も疑い深そうに確認した。人気のないところにでも連れて行かれて、後部座席の二人に襲われるのではないかと怖れているような素振りだった。山奥深く車が入って行くにつれ、佐藤も次第に不安な気持ちにかられていった。

 竹に覆われた細い山道を抜けると、やがて四方を山に囲まれた谷のような場所に出た。

「運転手さん、ここでいいよ。ここが上谷だ」

 舗装すらされていない山道はそこで行き止まりになっていた。行き止まりになっているところは、車一台がやっとUターンできるほどのわずかなスペースしか残されていない。

「運転手さん、申し訳ないがここで三十分ほど待っていてくれないか。もちろんその間の代金もちゃんと払うから。ここで運転手さんに帰られたら、われわれは戻る手段がなくなっちまうからね」

 運転手は帽子を脱いで額の汗を拭った。

「はあ、それは一向にかまいませんが、でもお客さん、こんなところでいったい何を?」

「運転手さんにはわからないだろうが、ここは私にとっては重要な場所なんだ。思い出深い場所なんだ。おい佐藤、行くぞ」

「は、はい」

 佐藤は先を急ぐ岩田に小走りでついて行った。

 佐藤は胸ポケットから携帯電話を取り出した。「圏外」という表示を見たとき、佐藤は言い知れぬ不安を覚えた。車も通れない幅の山道をさらに十分ほど歩いただろうか。雑草や雑木が生い茂っているだけの景色に佐藤は困惑した。ここではあらゆる種類の植物が、それぞれ好き勝手に成長している。そこには何の規律も秩序も存在しない。ただそれぞれが種の保存のために生育し、他者を顧みず自己主張を繰り返しているだけである。

 やがて、二人は少し開けたところに出た。二百メートルほど先の背の高い雑草の間から、廃屋のようなものが二、三軒その姿を見せていた。

「ここが下谷ですか?」

 佐藤が岩田に確認した。

「いや、下谷じゃない。ここは上谷だ」

「上谷?」

「そうだ。わずか十数年でこんなになってしまうんだから、自然の力というものは実に怖ろしいね。もうあの廃屋のところまでも行けやしない。あと数年もすれば、雑草と雑木であの廃屋も覆い尽くされてしまうだろう。人間が住んでいた跡形なんてすべて消えてしまうんだ」

 佐藤は改めて周囲を見回した。

「下谷は? せっかくここまで来たんですから下谷まで行ってみましょうよ」

 岩田が首を横に振った。

「俺だって下谷に行きたいのは山々だが、これ以上先には進めない。もうこの先には道らしきものすらないんだ。何しろあれから四十年も経つんだ。上谷ですらこの有様だ。下谷まではとても行けない」

 佐藤は落胆した気持ちを隠せなかった。

「下谷はあっちの方角だ」

 岩田が佐藤の気持ちを察したかのように大きな声で指差した。その方向には、鬱蒼とした雑木林しか見えなかった。

 岩田は大きな岩の上に腰掛けると、肩から提げていた黒い鞄を下ろし、その中を物色し始めた。

「二十年前にこれを下谷で見つけたんだ」

 岩田が新聞紙の包みを佐藤に手渡した。佐藤は丁寧に新聞紙を開いた。

「これは、櫛ですよね? かなり欠けてはいますけど」

「下谷に人が住んでいた証拠だ。二十年前には、辛うじて下谷まで行くことができたんだが、そのときに拾ったんだ」

 下谷の方角を見つめる岩田の横顔が急に老け込んで見えた。

「下谷はここからさらに二キロほど下って行ったところにある。上谷ですらあまり作物が育たない土壌なのに、下谷はさらに農業には向かない土地だったそうだ。それでも下谷の住人は畑を一所懸命耕していた。当時の生活は貧窮を極めたそうだ。その日その日の食うものにも困るほどだったという」

「だとすれば、生活に困窮して集団で失踪したという当時の警察の判断はやっぱり正しかったんじゃないんですか? 住人みんなで都会にでも出て行った。下谷に見切りをつけたんでしょう。十分あり得ることじゃないでしょうか?」

 岩田がズボンのポケットから煙草を取り出した。

「しかし、下谷の住人が失踪したとき、家の中には茶碗や裁縫道具、それに布団、生活に必要と思われる物すべてがそのまま残されていたんだ。新しい場所で新しい生活を始めるといっても、最低限の生活必需品は持って行くのが普通だろう。それに沢松だ。わが子を納屋に忘れたまま沢松の両親が集落を出て行くとは考えられない」

 佐藤はうつむいた。

 岩田と佐藤の背中には、西に傾きかけた夏の日差しが容赦なく照りつけていた。


 東京に戻った翌日、佐藤には四国日帰りの疲れがまだ残っていた。目をこすりながら出社すると、一枚の辞令が佐藤を待っていた。

「関西支社への異動を命ず」

 薄い小さな紙にはそう書かれていた。

 佐藤は目を丸くした。何度も何度もその文言を確かめた。別に関西勤務が嫌なわけではなかったが、佐藤は岩田と離れることが残念でならなかった。下谷の集団失踪事件について、残り半年、岩田とともにできる限り調べたいと思っていた。

 しかし、そんな佐藤の思いとは無関係に、東京での佐藤の最終勤務日はあっという間にやって来た。佐藤は岩田のところに挨拶に行った。岩田はただ微笑んで何も言わなかった。

 佐藤が転勤してから半年が過ぎた。関西支社での佐藤の勤務は予想以上に忙しく、岩田のことを思い出す余裕すらあまりなかった。そんな中、ある日東京から岩田の定年を祝う送別会開催の案内が届けられた。佐藤にしてみれば、何を差し置いても出席しなければならない送別会であった。

 二月の寒い金曜日の夜だった。岩田の送別会は新宿で行われることになっていた。佐藤は休みを取ってでも東京に駆けつけるつもりだったが、上司の計らいで朝から東京に出張させてもらっていた。

 岩田の送別会には三十人ほどが出席し、賑やかな時間があっという間に流れた。岩田の周りは出版社の幹部たちが取り囲み、佐藤はビールを一杯注ぐことができただけで、なかなか岩田と話す機会をつくれないまま中締めとなった。

 二次会には十人ほどが参加した。佐藤は運悪く、テーブルの一番端の席になったものだから、またしても岩田と話す機会には恵まれなかった。

 やがて、二次会も終わり、岩田と握手をした参加者は三々五々に散っていった。佐藤は岩田の様子をじっと観察していた。そして、岩田が一人になった瞬間を見計らい、岩田に声を掛けた。

「岩田さん、お久しぶりです。やっと岩田さんを捕まえることができた。よろしかったらもう一軒だけ、もう一軒だけお付き合いいただけませんか。どうしても最後に二人だけで話がしたいんです」

「おう、佐藤か」

 さんざん酒を注がれた岩田はすでにかなり酔ったように見えた。

 佐藤は岩田を地下の静かなバーに連れ込んだ。カウンターに並んで座った岩田は上機嫌だった。

「大阪ではちゃんと頑張ってたのか?」

「ええ、何とかやってますよ。毎日忙しいですけどね」

「忙しいぐらいがちょうどいい」

「岩田さん、その後下谷の事件について、何かわかったんでしょうか?」

 岩田は少しずつ酔いが覚めかかっているらしく、冷静な口調でゆっくりと話し始めた。

「わからない。何も新たな事実は出てこないよ。斎藤も我孫子も、それに沢松も、相変わらずの状態だ」

「以前からぜひお訊きしようと思っていたんですが………」

「何だい?」

 岩田の無精髭はさらに伸びていた。

「岩田さんはこの事件の真相をどう考えていらっしゃるんですか? 岩田さんのことだ。証拠はないまでも、きっと岩田さんなりのストーリーというものを頭の中では描いていらっしゃるんでしょう?」

 岩田が鼻を鳴らして小さく笑った。

「もちろんさ。記者なんだから、仮説ぐらい持たなくてどうする。でもな、その仮説は今でも仮説のままだ。いまだに何の証拠もない。俺の描いたストーリーが真実かどうかは結局わからないままだ。もしかすると、ただの空想に過ぎないかもしれない」

 佐藤は岩田に向き直った。

「空想でもいいんですよ。ぜひ最後に聞かせてください」

 岩田が寂しそうに笑った。

「俺は空想の話をするのは嫌いだ。記者としてはあくまでも事実に基づいて、真実だけを伝えたい。しかし、君には世話になった。唯一いっしょに上谷まで行った仲だ」

 岩田はグラスの中のカクテルを一息に飲み干した。

「下谷はね、島流しの集落だ。俺はそう思っている」

「島流し?」

「そうだ、島流しだ。何らかの事情で上谷にいられなくなった者たちが流される場所だったんだ。そして、ずっと閉じ込められていたんだ」

「どういうことですか、閉じ込められていたって?」

「下谷に住んでいた三世帯のことについて、上谷の住人に聞いたことがあるんだ。もちろん本当のことかどうかはわからない。例えば失踪した九人の中にいたあの夫婦。あの夫婦はもともと上谷に住んでいたらしい。しかし、あるとき下谷に引っ越している。いや、引越しを余儀なくされたんだろう」

「わざわざ畑には向かない下谷に引っ越したということですよね。それはなぜなんですか?」

 岩田の口から涎が一筋垂れた。

「伝染病だ」

 岩田が煙草を取り出した。ライターの火がなかなか点かないのに苛立ちながら、岩田は話を続けた。

「夫婦のどちらかが当時は不治の病と言われた伝染病にかかってしまったんだ。それで、上谷の集落にはいられなくなったというわけさ」

 岩田のくわえた煙草にやっと橙色の火が点された。佐藤はその火が広がるのをただ見つめていた。

「次に未亡人とその息子。あの二人ももともとは上谷に住んでいた。そこの息子が隣の家から物を盗んだところを見つかって、母親含めて強制的に下谷に移されたらしい」

「盗み? 泥棒だったら警察に届ければいいじゃないですか?」

「それはもちろんそうなんだが、何しろ昔のことだ。村の掟のほうが重要な意味を持っている時代だった」

「いくら何でもそんなことはないでしょう。昔といっても四十年前のことです。戦後十五年も経った頃の話じゃないですか」

「確かに都会では高度経済成長に向かおうとしていた。しかしな、君だって見ただろう、あの上谷を。人里離れた小さな集落のことだ。戦前の風習がそのまま残されていたって不思議じゃない。そういう孤立した集落だったんだよ、上谷は」

 暗いバーの中で紫色の煙が宙を漂っていた。

「沢松は? あの沢松ももともとは上谷に住んでいたんですか?」

「いや、沢松の場合は少し事情が違うようだ。いつからかはわからないが、沢松の親も生まれたときから下谷に住んでいた」

「沢松の親がいったい何をしたというんですかね? やっぱり盗みか何かでしょうか。沢松の祖父か祖母かが何か罪を犯して、それで下谷に暮らし始めたんでしょうか?」

「いや、違う」

 目を細めた岩田の返事を佐藤は待った。

「遺伝なんだよ」

「遺伝?」

「沢松の精神的な病のことについては、以前にも話したことがあるだろう。いまだにその病気の原因ははっきりしていないんだ。しかし、一部には遺伝による影響が大きいと言われている。恐らく、沢松の親か誰かが同じような病気だったんだろう。もちろん科学的に立証できるような話ではないから、理不尽なことだし偏見だ。無知だ。しかし、おそらくそんなことが原因で、沢松の家系はずっと下谷に閉じ込められていたんだと思う。」

 佐藤はうつむいた。

「伝染病に泥棒、それに遺伝による病気。上谷にはいっしょに住むことができない事情を抱えた人間たち。下谷はそんな島流しの人間が暮らしていた哀しい集落………」

 佐藤の語尾には力がこもっていなかった。

「しかし、そのことを上谷の住人に訊くと、みんな口ごもってはっきりとはそう言わない。下谷のことについては誰も喋りたがらない」

「それが事実なら、素直に喋るはずがない。ところで、そんな下谷の住人がなぜ集団で失踪してしまったんです? やはり自分たちの境遇に絶望したからでしょうか?」

「ところで、俺のファイルの中のあの記事を君も見ただろう。二人で上谷に行ったとき、黒い鞄の中にあったあのファイルのことだ」

「ああ、覚えています」

「ファイルの最後に挟んであった東京の人権擁護団体の職員が殺された事件のことだ」

 佐藤は首を捻った。

「確かに見ましたが、下谷の集団失踪事件とは何の関係もない事件だと思いましたけど」

「それが大いに関係あるんだよ。俺は、あの殺人の実行犯は我孫子だと思っている」

「えっ、我孫子? 不動産屋の社長のあの我孫子ですか?」

 岩田が再び煙草を取り出した。

「当時、我孫子は東京に出てきたばかりの頃だ。上谷から出て来て最初に住んだアパートが、あの事件の現場に極めて近いところにあった」

「しかし、我孫子には人権擁護団体の職員を殺すような動機がないじゃないですか」

「だから、我孫子は実行犯だと言っただろう。指示をした人間は別にいる。恐らく、上京して来たときに、我孫子はすでにそういう指示を受けていたに違いない。いや、その指示を実行するために上京して来たんだろう」

「指示って、誰からの指示なんですか?」

「鬼頭だよ。上谷の長老だった鬼頭が指示したんだ」

「鬼頭が? 何のために? たとえ鬼頭だったとしても、我孫子と同じく動機がない」

「上谷を守るためだ」

 岩田の吐き出した煙が佐藤の目の前で広がった。

「どういうことです? どうしてそれが上谷を守ることに?」

「鬼頭は上谷と下谷の関係を知られたくなかったんだろう。上谷が下谷に島流しをしてきた歴史が世間の明るみに出ることを怖れたんだ。そんなことが知れたら、上谷の歴史に傷がつく。上谷の恥を世間に晒すことになる。そんなことになっては、過去の長老たちにも顔向けできない。そう思ったんだろうな、鬼頭は。まだ少年時代の沢松に聞いたことがある。『ある日、東京から来た見知らぬおじさんに、お父さんがしきりに何かを訴えていた。涙ながらに、すがるように何かを訴えていた』って。もしそれが東京で殺された人権擁護団体の職員だったとしたら………」

「沢松の父親が下谷の差別の実態を人権擁護団体に訴えたってことですか?」

「村の掟が守れない連中ばかりが過去からずっと下谷に隔離されてきたんだ。そういう連中があるとき不満を爆発させたとしても、決して不思議ではない。今でこそそんなことは考えづらいが、それまで下谷の住人は、そういう生活にもじっと我慢してきたんだ。自分たちはそういう生活しかできない身分と諦め、無理やりそれを受け入れ、それでも逞しく生きてきた。しかし、時代は変わった。当時はちょうど人権運動が盛んになり、社会的にも注目され始めた頃だった」

「それで、鬼頭が指示したと?」

「鬼頭が我孫子にその指示をしたことは容易に想像できる。人権擁護団体の職員の口封じさ。鬼頭は我孫子を東京に送った。従順な性格の我孫子のことだ。『そうしなければ上谷の名誉を守ることはできない』とでも思ったんだろう。鬼頭に殺人を指示されて、正義感に燃えていたかもしれない。しかし、その犯行は我孫子にとってはあまりにも衝撃的だった。絞殺とはどういうものか、もがく被害者がどのような醜い乱れ方をするのか、それを目の当たりにするには我孫子の心は脆過ぎた。犯行後、我孫子は繰り返し繰り返し自問自答したに違いない。『生まれ故郷の上谷は守りたい。しかし、そのために人殺しまでして本当に良かったのだろうか? 自分は正しかったのだろうか?』と。我孫子は長い間、そうやってずっと苦しんだはずだ。そして、あるとき我孫子は記憶を失くした。海辺で自殺しようとした男が十五年後に記憶を取り戻したという話をいつか君にもしたことがあったっけ。あの男といっしょだ。これ以上そのことについて考え続けると、いずれは異常を来たし命すら自ら奪いかねないと脳が判断したんだろう。だから、我孫子は自己防衛のために記憶を喪失した」

 岩田は二杯目のカクテルには手を付けなかった。代わりに煙草の本数が増えていた。

「あの斎藤はどう関係していたんでしょうか?」

「君も見ただろう。斎藤は屈強な身体つきだ。実は、亡くなった天谷も斎藤と同じような身体つきだったらしい。下谷の九人もの住人を一晩で片付けてしまうことができるとすれば、それは斎藤と天谷だったんじゃないかと俺は考えている」

「片付ける?」

「そうだ。下谷の九人はどこにも失踪なんかしていない。集団失踪事件なんて存在してないんだ。恐らく、今でも下谷の土の中奥深くに沢松以外の遺体が眠っているはずだ」


 ふと気がつくと、岩田は新宿駅のタクシー乗り場の列に並んでいた。地下のバーからここまでどうやって辿り着いたのか覚えていない。佐藤とどうやって別れたのかも思い出せなかった。

 岩田の乗ったタクシーはまもなく高速道路に入った。新宿の摩天楼の光が殊更眩しく映っていた。しばらくすると、岩田はこれまで感じたことのない疲労感に襲われた。

 運転手がラジオをつけた。アナウンサーの低い声が今日のニュースを伝えていた。

「自動車部品メーカーX社が不良品であることを知りつつ長年販売を続けてきた問題で、先日××社長が会見で『その他の製品に品質問題は確認されなかった』と発表したものの、今日になってその他の製品にも不具合があったことがわかりました。X社は『現在調査中でコメントできない』としています」

 岩田は目を閉じた。目蓋の裏には、沢松、斎藤、我孫子の三人が現れた。やがて三人は仲良く談笑を始め、しばらくすると三人が岩田のほうを振り向いてにやりと笑った。

「法律より掟、世間の常識より村の掟………」

 岩田の呟きは車のエンジン音に掻き消された。


 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。