泣きすぎた夜 ~喪の作法は、この家ではわたくしが決めております~
五月十一日の朝、マルグリット・ラングヴァイは、いつもどおりに起きた。
髪を結い、襟布を当て、幅を指で測る。この時季の喪は色を薄くするから、灰色の明るいほうを選んだ。鏡の前に立って、背を伸ばし、顎の位置を決める。
声を出さずに、三度。
上げるのが三度。下げるのは二度目と三度目のあいだに一度だけ。息を吸う長さは、心の中で四つ数える。終わりの一声は落としきらない。落としきると、家を出た者の泣き方になる。
六年、一日も欠かしていない。
昨夜も欠かさなかった。島の分祠でも、島から戻る舟の上でも、屋敷の玄関でも、彼女は正しく悲しんでいた。
鏡の中の顔は、正しく歪んでいた。
水差しの水で目のふちを冷やして、彼女は窓を開けた。
庭に、人がいる。
黒い長衣が三人。神殿の者である。うちの一人が書付を胸に抱えていて、あとの二人は棒のようなもので石畳の目地を数えていた。数えているのではなく、測っているのかもしれない。
窓を閉めた。
朝食の時刻に、誰も呼びに来なかった。
厨房まで、自分で降りた。
竈に火が入っていない。昨夜のうちに落としたまま、誰も熾していなかった。灰の匂いが冷えている。
彼女は生まれてこのかた、火を熾したことがない。しばらく竈の前に立って、それから上へ戻った。
昨夜のことを、彼女は順を追って思い返した。
順を追わないと、腹が立つ。腹が立つと形が崩れる。形が崩れるのがいちばんいけない。
舟が四艘出た。島の分祠に着いたのは日没の少し前で、灯りが六本立っていた。参列は十四人。招いた者が十二人で、あとの二人は招いていない。荷を運ぶ侍女がひとりと、勝手に舟を頼んだ者がひとりである。
泣き女の席には、誰も座らないはずだった。
公示の紙の欄は空けてある。空けたのは彼女で、埋める権限を持っているのも彼女である。埋めなければ儀は成らない。成らなければ、預かられた名はその年は返らない。
娘が、歩いてきた。
黒い服。痩せた形。髪を後ろで固く結っている。帳を二冊抱えて、まっすぐ席まで歩いてきて、膝をついた。
誰も止めなかった。
あれが、いちばん不可解だった。
止める規定が儀にはない、というのは、あとで聞いた。書いていないから止められない。書いていないのは、これまで誰もそんなことをしなかったからである。
この国は、そういうふうにできている。書いてあることは守られ、書いていないことは起こらない。起きたことがないものは、書かれない。
その隙間に、あの娘は座った。
返名、始めます、と娘が言った。
マルグリットは泣きはじめた。
儀のあいだ、参列の者は口をきいてはならない。泣くことは、口をきくうちに入らない。喪の場で悲しみを形にするのは、血のある者の務めである。彼女は六年、その務めを一度も欠かしていない。
ヨナス。
マティアス。
ライナル。
ゲルト。
名が四つ、石の壁に返った。応える声はない。当たり前である。読み上げられるのは死んだ者の名だからだ。
五つ目で、娘が息を入れた。
シビル・ラングヴァイ。
誰かが息を呑んだ。彼女は型を崩さなかった。三度上げて、一度下げて、また上げる。
応える声は、なかった。
そのとき、少しだけ気が緩んだ。認めておく。
次に、娘は師の帳を開いた。
五百七年三月。ラングヴァイ家。リカルド。
石が、返した。
はい、と男が言った。
マルグリットは、泣き続けた。
止めるという考えが浮かばなかった。浮かぶ場所が、彼女の中にない。儀は終わっていない。終わっていない儀の途中で泣き止む親族は、この国にいない。
五百十一年九月。ラングヴァイ家。エルマ。
はい、と女が言った。
参列の列が動いた。誰かが立ち、誰かが座り込んだ。灯りの焔が揺れて、石の天井に影が跳ねた。
彼女は泣き続けた。
上げるのが三度。下げるのが一度。息は四つ。終わりを落としきらない。
娘は、次の名を読んだ。ヨセフィーネ。応える声はない。それから、司祭のほうへ向き直った。
以上、八つ。応えのありましたのは、二つでございます。
あの声は落ち着いていた。喉を焼いた者の声ではない。事務の声である。数を申告して、儀を終える手順どおりの声だった。
そこへ、後ろから声がかぶった。
三つです。
黒い外套の女が、灯りの縁まで歩いてきた。
頬が痩せて、目のふちに影がある。髪を後ろで束ねて、布で包んでいた。
マルグリットが最初に見たのは、その布だった。
包み方が雑である。額の生え際が出ていて、耳の後ろで結び目が寄っている。喪の場に出る者の頭の包み方ではない。それから外套の襟。合わせが左右で半指ぶんずれていた。
この家に八年いた者が、あの襟の合わせを直せないはずがない。
直させたのは自分である。四年かけて、五度直させた。五度で憶えた娘だった。
シビル・ラングヴァイは、わたしです。
彼女は泣き続けた。
止めるという考えは、そのときも浮かばなかった。浮かべば、崩れる。崩れれば、十四人がそれを見る。
だから型を守った。上げるのが三度、下げるのが一度、息は四つ。
守っているあいだ、頭のどこかが襟布の合わせを直したがっていた。手を伸ばせば届く距離だった。伸ばさなかったのは、作法に反するからである。
司祭が、名簿を閉じられずにいた。あの男は二十六年、記載漏れを一度もしていない。その正確さで書かれた字が、そこにある。
記載を、改めます。
あの男が言ったのは、それだけである。
娘は、司祭のほうを見なかった。
彼女のほうも、見なかった。
最後まで、一度も。
昼前に、セヴランが来た。
「母上」
「お座りなさい」
息子は座らなかった。窓辺の椅子の脇に立って、脚も組まなかった。この子が座らずに話すのを、彼女は初めて見た。
「神殿の人が、庭を測ってる」
「見ましたわ」
「屋敷の中も、そのうち入るって」
「そうでしょうね」
彼女は刺繍の枠を膝に置いた。針を三度動かして、糸の張りを確かめる。手を動かしていると、順序が保てる。
「セヴラン。どこで間違えたか、お分かりになって」
息子は答えなかった。
「欄でございます」
彼女は針を止めなかった。
「公示の、泣き女の欄。あそこを空けておけば、埋まらないと思いました。埋める権限はわたくしにしかございませんでしたから。ですが、埋めなくても儀は始まってしまう。始まった儀に立った者を追い出す条が、規定に書かれておりませんでした」
「母上」
「わたくしの読み違いです。手続きの読み違いですわ」
窓の外で、石畳を測る音が続いている。かつん、かつん、と規則正しい。
「母上、そこじゃないよ」
「では、どこですの」
息子は、そこで初めて彼女のほうを見た。
二十四になる。顔立ちは兄に似ていない。誰に似ているのかを、彼女は昔よく考えた。
「僕、ずっと知らないふりをしてた」
「知っていましたわ」
針が布を通る音がした。
「あなたは訊かない子でした。訊かない子は育てやすうございます。当主というのは、訊いてはいけないことの数を憶えている役目ですから」
「僕、当主にならないよ」
「なりますわ」
「ならない」
声は荒らげていなかった。この子も、荒らげ方を知らずに育った。
セヴランは、扉のほうへ歩いた。歩いてから、一度だけ振り返った。
「母上、昨日、泣いてたよね」
「作法でございます」
「三つ声が上がっても、ずっと泣いてた」
「作法でございます」
「そこだよ」
彼は出ていった。
扉が閉まってから、マルグリットは針を布に刺したまま、しばらく動かなかった。
そこだよ、と言われた意味を、順を追って考えた。
考えて、分からなかった。
儀は終わっていなかった。終わっていない儀の途中で泣き止むのは、作法に反する。反すれば、この家が身内を見失っているように見える。見えることを避けるのが、彼女が三十五年やってきた仕事である。
どこが間違いなのか。
姑のことを思い出した。
十九で嫁いできた年、彼女は毎朝、鏡の前に立たされた。姑は扇を持って後ろにいて、指の関節を打った。上げが四度になれば打たれ、息が五つになれば打たれる。三月かかった。
三月目の朝、姑が言った。
中身のことは、誰も見ませんからね。
あれは慰めだったのだと、彼女は長く思っていた。悲しくないときにも泣けるように、形だけ覚えておきなさいという意味だと。
いまも、そう思っている。
姑は正しかった。誰も中身を見なかった。三十五年、一度も。
打たれた指の関節は、いまも冬になると痛む。
午後に、神殿からの書状が来た。
召喚である。三日後、分祠の記録室にて、五百七年および五百十一年の記載に関する聴き取りを行う。同席は本山の使者二名。
差出人の欄に、ドルーガの名があった。
彼女は書状を二度読んだ。
二度読んでから、家令を呼んだ。ヴィルヘルムは襟の乱れない顔で入ってきて、扉の内側に立った。
「司祭様へ、遣いをやってちょうだい」
「はい」
「伺いたいことがございます、と」
「何と伺えばよろしゅうございましょう」
「襟布の幅を」
家令が、一拍おいた。
「襟布の、幅」
「聴き取りの席でございましょう。喪の期間ではございますけれど、あれは儀の場ではございません。三本では広うございますし、二本では軽うございます。神殿の記録室に出ますときの幅を、この家は決めておりませんの」
「かしこまりました」
「それから、髪は結い上げるか、下ろすか」
「伺ってまいります」
ヴィルヘルムは出ていった。
返事は、夕方に来た。
書付を持って戻った家令は、それを差し出さずに、口で言った。
「司祭様からは、お答えはございませんでした」
「無いとは」
「そのようなことは私の職分ではございません、と」
マルグリットは、書状の縁を指で揃えた。
あの男とは八年になる。八年、彼女が動かしたのは寄進と本山への口利きで、あの男が動かしたのは記載である。金は一度も動いていない。物が移らないから、跡が残らない。
跡が残らないというのは、繋がりも残らないということだった。
「下がってよろしくてよ」
「はい」
「ヴィルヘルム」
「はい」
「この屋敷に、あと何人おりますの」
家令は答えるまでに、ひと呼吸を使った。
「本日で、十七人でございます」
昨日の朝は、二十六人いた。
夕方までに、また二人減った。
厨房の下働きと、洗い場の年寄りである。暇乞いに来た者はいない。荷を持って裏門から出ていくところを、彼女は二階の窓から見た。
二人とも、荷を全部持っていった。鍋まで持っていった。
出ていく者が荷を持っていくのは、当たり前のことである。当たり前のことが当たり前に起きているのを、彼女はしばらく窓から見ていた。
同じ日の夕方、神殿の者がひとり、屋敷の中へ入った。
書付を抱えた若い男である。案内を乞わずに廊下を歩き、記録室ではなく、東の翼の空いた部屋を順に検めていた。
「奥様でいらっしゃいますか」
「そうですわ」
「五百七年にこちらを辞した侍従長の部屋は、どちらでございましょう」
「二階の西の端。階段から三つ目でございます」
「ありがとうございます」
「片づけは、当時の女中頭がいたしました。名を申し上げましょうか」
「お願いいたします」
彼女は名を言った。その者が今どこの村にいるかも言った。屋敷を辞した使用人の行き先を、彼女は全員ぶん憶えている。内向きを預かる者の務めである。
若い男は書き取って、礼をして、東の翼へ戻っていった。
訊かれたことに正確に答えるのは、気持ちのよいものだった。
この二日のあいだで、誰かに何かを訊かれたのは、それが初めてである。
夜のうちに、書状を三通したためた。
一通は本山の使者へ。分祠の司祭の記載の正確さについて、八年見てきた者として申し上げたいことがある、という内容にした。書き終えて、封をせずに置いた。
二通は、南の親類へ。彼女の生家である。父はもういないが、甥が家を継いでいる。
筆を持って、書き出しを三度書き直した。
三度目で、やめた。
この二十年、生家へ出した書状は寄進の礼状だけである。用件のない手紙を書いたことがない。用件のない手紙の書き方を、彼女は知らなかった。
紙を三枚、燭台の焔に近づけて、燃やした。
燃やしてから、本山への一通も燃やした。あれを出せば、司祭の記載の正確さを八年見てきた者が誰なのかを、本山は考えることになる。
夜になって、彼女は襟布を自分で選んだ。
誰にも訊けなくなったので、自分で決めるしかない。指二本半にした。半という幅はこの家の作法にない。作法にないものを自分で作るのは、三十五年で初めてだった。
鏡の前に立って、当ててみた。
悪くない。
悪くないと思ってから、彼女は少し長く鏡を見た。
昨夜、あの娘は、一度もこちらを見なかった。
名を読み上げ、応える声を数え、司祭に申告をして、それから帳の一枚目を開いた。あの娘がしたのはそれだけである。
誰も咎めなかった。
誰も、彼女の名を呼ばなかった。
断罪の言葉がなかった。指を差されもしなかった。あなたがやったのだと言われれば、言い返す用意はいくらでもあった。家は人より長く生きるものです、人ひとりを退けて家が百年続くのなら、と。あの理屈で、彼女は六年、自分を保ってきた。
言う相手が、現れなかった。
あの娘は名前を読んでいただけである。読んでいるあいだ、彼女は泣いていた。泣いているところを、十四人が見ていた。
六年、誰も検めなかった。
この国の誰ひとり、他人の泣き方の中身を検めたりしない。彼女はそれを知っていて、知っているから一つの型に決めた。夫を送るときも、子を送るときも、使用人を送るときも、同じ型で通した。喉に負担がなく、涙の出の悪い朝でも成り立つ型である。
検めた者が、一人いた。
金で雇った、身分の外側の娘である。名前も呼ばれない職の者だった。
襟布を外して、たたんだ。
たたむ手つきは、乱れなかった。
翌朝、彼女はいつもどおりに起きた。
庭にはもう神殿の者が四人いる。石畳の目地を測り終えて、今日は東の翼のほうへ回っていた。厨房から煙が上がっていない。朝食の支度をする者が、昨日の夜のうちにまた減った。
髪を結い、襟布を当て、幅を指で測る。
指二本半。
鏡の前に立って、背を伸ばし、顎の位置を決めた。
声を出さずに、三度。
上げるのが三度。下げるのは二度目と三度目のあいだに一度だけ。息を吸う長さは、心の中で四つ数える。終わりの一声は落としきらない。
涙は、右の目から先に落とした。
左が先に落ちる泣き方は、若い娘のものである。
三度目を終えて、彼女は襟布の折り目を指の腹で二度撫でた。整えるところは、どこにもなかった。整っているものを整えるのが、彼女の朝である。
今朝も、寸分違わなかった。
お読みくださって、ありがとうございました。
この人が六年のあいだに何をして、それを誰が数えていたのかは、連載のほうに書い
てあります。
『泣き女のわたくしが呼ばれたのは、誰ひとり泣かなかった公爵夫人の葬儀でした』
全30話・完結済みです。一気にお読みいただけます。




