第50話 坂道での冗談と新しい眼鏡
あれから一ヶ月という月日が流れた。大倉山の坂道に吹き付ける風は、もはや秋の残り香をすべて拭い去り、季節を冬の厳しい外套の中へと深く引きずり込んでいる。
木々は枯れ葉を落とし、コンクリートの斜面は氷のような空気を纏って、道行く者の足取りを重くする。
だが、そんな寒空の下を登ってくる私の心持ちは、以前の閉塞感に満ちたものとは違っていた。私の鼻筋に載った新しい眼鏡は、フレームの色も以前の地味なものとは異なり、明るい色をしている。
そのレンズが冬の低い陽光を反射し、キラリと鋭く光り、温かな光を放つたび、私は自分の中の何かが新しくなったことを実感するのだ。
私の足取りが軽やかなのには、もう一つの理由があった。数日前、私はようやく、己の人生を重く縛り付けていた過去の亡霊たちに別れを告げてきた。父、そして実母である咲子、さらには私を慈しんで育ててくれた母である美津子。三人の墓前へと向かい、私は事件が解決したことを、ようやく自分の言葉で報告することができたのだ。
その墓参りの道中を思い返すと、自然と口元が緩んでしまう。
あの時、佐伯はいつもの無愛想な態度をどこかへ置いてきたかのように、真っ赤なスポーツカーを滑らせて私を迎えに来てくれた。流麗なボディが朝日を受けて紅蓮に輝き、エンジンが咆哮を上げる。彼はその助手席に私を乗せ、神戸の複雑に入り組んだ山並みを縫うようにして、各墓所を巡ってくれたのだ。
加速するたびに背中がシートに沈み込み、風を切る音が車内を支配した。以前はあれほど遠く、苦痛に満ちた場所へ、今は隣に座る彼の静かな気配を感じながら向かうことができた。あの真紅の車が駆け抜けた記憶が、今の私の足元を確かに支えている。
そんなことを考えているうちに、私は書斎の木製ドアの前に立っていた。扉の向こう側には、いつもと変わらぬ男の日常がある。私はノックもせずに、静かにそのドアを押し開く。
部屋の中は、相変わらず資料の山に支配されていた。使い込まれた古書、乱雑に積まれた少女漫画、そして何年も手入れを繰り返されてきた万年筆のインクの匂いが、独特の安心感となって私を包み込む。
佐伯はいつものように机に座り、猫背を深く丸めて、資料の数々をじっと眺めていた。その瞳は資料の細部を射抜くように集中しており、その背中は以前よりも心なしか緊張が解けているように見える。
私は彼に気づかれないよう足音を殺して近づき、わざとらしく澄ました顔を作ってから、彼の耳元へと声を投げた。
「佐伯様、私の心に灯るこの想いと、したためた文字の筆圧の揺らぎ……貴方様だけはとくと御覧遊ばしてくださるのかしら?」
そのセリフは、彼が書斎のあちらこちらに置いている少女漫画の一冊から借りてきたものだ。少し古風で、気恥ずかしくなるような、彼が好むあの時代のヒロインが決まって口にする定型句。私なりに考えた、精一杯の拙い冗談だった。
佐伯は一瞬、資料から目を離し、動きを止めた。何が起きたのかを理解できず、キョトンとした表情で私を見上げる。彼が驚きのあまり、いつもは鋭く光る瞳を大きく見開いたままフリーズしている。
そんな彼の姿が愛おしくて、私はわざと少しだけ眼鏡をずらしてみせた。その眼鏡の奥にある私の瞳が、悪戯っぽく、そして彼を挑発するようにキラリと笑みを浮かべる。その視線に気づいた瞬間、佐伯の表情がみるみると崩れていった。
彼は堪えきれない様子で口元を覆い、やがて肩をクックッと激しく震わせ始めた。
最初は小さな息の漏れるような笑い声だった。その響きは瞬く間に部屋を支配し、仕事の手を完全に止めてしまうほどに増幅していく。彼は机に突っ伏し、今までに見たこともないほど、心底おかしそうに声を上げて笑い出したのだ。あの鋭い眼光を秘めた男が、子供のように無防備に、涙を滲ませるほどに笑い転げている。
その少年のような姿を見つめながら、私は自分の胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘くて苦い痛みを感じていた。それは、これまで私の人生を支配していた孤独とはまったく別の、温かな感情の奔流だった。
(ああ、こんな顔をするんや。この人は、案外と隙だらけで、ずっと私のことを見ていたんやね)
その瞬間、書斎の扉が荒々しく開かれた。
私は驚いて振り返る。そこに立っていたのは、華やかな外套に身を包んだ女性、理恵子だった。彼女の視線がまず佐伯へと向かう。いつもなら獲物を狙うような険しい表情で仕事に没頭しているはずの佐伯が、今は子供のように肩を震わせて笑い、目尻には柔らかな皺さえ刻まれている。その信じられない光景に、彼女は一瞬、言葉を失って呆然と立ち尽くした。
次に理恵子の視線が、机のすぐそばに立つ私へと滑り落ちる。彼女の瞳が細められ、鋭い観察眼が私という存在を頭の先からつま先まで精査していく。
「卓也、あんた……正気なの? その顔、何十年ぶりに見たかしら」
理恵子は私と佐伯の顔を交互に覗き込み、その言葉には驚愕と、隠しきれない困惑が混じっていた。彼女の中で、佐伯という男は常に鋭利な刃物のような存在だった。
それが今、この小娘の前で、これほどまでに無防備な笑顔を晒している。理恵子にとって、その事実は彼女の持っていた佐伯像を根底から覆す、あまりにも衝撃的な事件である。
彼女は特有の勝ち気な表情を少しだけ緩め、私と佐伯を交互に見つめる。その瞳が、二人の間に流れる空気を、まるで上質なワインの鑑定でもするかのように丹念に読み解いていく。
「まるで、何年も連れ添った夫婦みたいね。あんたがそんなふうに柔らかな空気を纏うなんて、あの子のこと、もうすっかり忘れたのかと思ったわ」
理恵子の投げかける言葉には、過去への追悼と、現在の私達への複雑な感情が入り混じっているかのようだ。だが、彼女は佐伯の過去を否定しているのではない。あの大切な婚約者の面影を、佐伯は誰にも触れさせないよう、心の最も奥深くに厳重にしまい込んだのだ。それを理恵子も、本当は理解している。彼女は、佐伯が私に向けたその柔らかな眼差しの中に、自分が決して入り込めない領域が存在することを察知したようだ。
佐伯は私を見つめたまま、笑みを絶やさずに理恵子の方を振り返る。
「理恵子か。少し騒がしかったやろか。まあ、見ての通り、少しばかり息抜きをしていたところなんや」
彼の言葉には、以前の棘や拒絶の響きは微塵もない。理恵子は、その言葉に、またしても言葉を失う。
私と佐伯の間には、確かに、誰にも邪魔させることのできない、甘やかで静かな絆が芽生えつつあるからだろう。
その事実は、この場を訪れた理恵子に、確信という名の現実を突きつけた。私は少しだけ照れくさくなりながらも、佐伯の横顔をじっと見つめ返し、この温かな時間を何よりも大切にしたいと感じた。
佐伯は私と理恵子の間に漂う緊張を優しく解くように、机の上の資料を端へと寄せた。そして彼は、私に向かって手招きをする。その動作一つ一つに、今まで見たこともないような、あまりに自然で気負いのない優雅さが宿っていた。
「理恵子、お前も座れ。冷たい風が入ってくるやろ。せっかくなら、こいつが持ち込んだ、少しばかり面白い話題に付き合ってくれへんか」
理恵子は呆れたように溜息をついたが、その表情にはどこか安堵の色が見える。彼女は私の隣に腰を下ろすと、佐伯の穏やかな表情を改めて見つめ、何かを確信したように頷いた。
「面白い話題、ねえ。あんたがそんなふうに誰かと笑い合えるようになったのなら、まあ、悪くはないのかもね」
部屋の空気が、さらに柔らかくなっていく。
窓の外では冬の陽が少しだけ傾き、室内の影を長く伸ばしている。だが、この部屋の奥底にある温かな絆は、外の厳しさとは無縁の場所で、静かに育まれている。
私は自分の手元にある新しい眼鏡を握りしめ、これから始まる佐伯や理恵子との会話に期待を膨らませる。
私の心はどこまでも温かく、そして確かな希望に満ちているのだ。
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