信仰と統治
魔王がPR会社で働いています。
横山さんとは半年前から仕事をしている。
都内に数十店舗を構えるコーヒーチェーンの広報担当、三十代前半。上司の桑原さんは四十代後半、広報責任者だ。二人に共通しているのは、自分たちのブランドをとにかく好きだということだった。打ち合わせのたびに、それが言葉の端々から伝わってきた。
記者会見の前日、23時だった。
会場入りして準備を始めると、横山さんがいた。桑原さんもいた。イベント会社のスタッフも動いていた。会場はすでにそれなりの人数で回っていた。
段取りは俺が組んだ。横山さんたちがここにいることは知っていた。
ただ、実際に見るのは別の話だった。
イベント会社に任せればいいところを、二人は自分たちでやっていた。椅子を運び、受付の位置を確認し、資料を手に取って確認していた。誰かに言われるより先に、次の作業に移っていた。
俺も加わった。
しばらく無言で作業が続いた。深夜の会場に、椅子を運ぶ音だけが響いていた。
「田中さん」
横山さんが口を開いた。
「この仕事、好きですか」
俺は手を止めた。
好きか。
百万の軍勢を統べた俺が、議事録を取り、コーヒーを淹れ、クライアントに頭を下げる仕事が。三木さんの再質問に耐え、初芝さんの決裁を忘れた顔を見て、池上さんの構造を理解しようとしてきた、この仕事が。
答えが出なかった。
「わかりません」
正直に言った。
横山さんが少し笑った。
「そうですか」
それだけだった。責めるでもなく、驚くでもなく、ただそうですかと言った。
「横山さんは」
俺は聞いた。
「好きですか」
「好きですよ」
即答だった。
「自分のブランドを、自分の言葉で伝えられる仕事ですから」
横山さんは椅子を一つ持ち上げて、所定の位置に置いた。迷いがなかった。
俺はその背中を見ていた。
記者会見は熱があった。
横山さんが壇上でブランドの話をする時、言葉に力があった。桑原さんが記者の質問に答える時、一つ一つを丁寧に受け取っていた。このコーヒーが好きだということが、全部の言葉から伝わってきた。
記者たちもそれを感じ取っていた。
俺はその場の空気を感じながら、ようやく理解した。
命令で動く軍は俺が作れた。恐怖で動く組織も作れた。しかしこれは作れなかった。
全員が自発的に、同じ方向を向いている。誰かに言われたからではなく、そうしたいからそうしている。
これは統治ではない。
信仰だ。
会見が終わって、後片付けをした。
帰り際、桑原さんが言った。
「田中さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
俺は頭を下げた。今日は心から、そう思った。
横山さんが笑った。
「次もよろしくお願いします」
「はい」
会場を出た。
深夜に聞かれた質問が、まだ頭の中にあった。
好きか。
まだ答えは出ていない。ただ一つだけわかったことがある。
答えが出ない問いを持ったのは、この世界に来て初めてだった。
それもまた、統治の話だ。




