決裁を忘れた男
魔王がPR会社で働いています。
大手外資系B2B企業の広報担当。五十代、声が大きい、よく笑う。修羅場をくぐり抜けてきた人間特有の、妙な貫禄があった。一時代前の空気をまとっている。だから今日の話は通じると思っていた。
「この提案なんだけど」
初芝さんが言った。
「これをベースに年間で見せてもらうことってできる?」
俺は一瞬止まった。
決まっていた。三ヶ月前に提出済みだった。初芝さんが「いいですね、進めましょう」と言った。俺はその言葉を決裁として受け取った。田中誠の記憶によれば、それは「承認」を意味するらしい。
「年間プランは三ヶ月前にお出ししていて、ご承認をいただいております。各活動に微調整こそありますが、全体設計としての変更はございませんが。」
「うーん、なんかそもそもの方向性が違う気がするんだよね。グローバルからきてる今年のロードマップって見せてたよね?」
そこから先は長かった。
初芝さんは喋り続けた。俺は聞き続けた。
内容を要約すると「最初から方向性が違った」だ。しかし三ヶ月前に初芝さんは「いいですね」と言った。その矛盾を俺が指摘しようとした瞬間、隣に座っていた甲斐田さんが動いた。
「初芝さん、おっしゃる通りで、私どもの理解が浅い部分がありました。もう少し初芝さんのビジョンを聞かせていただけますか」
それだけだった。
初芝さんの表情が和らいだ。話の矛先が過去から未来に向いた。俺が突きつけようとしていた議事録とメール履歴は、静かにノートの下に沈んだ。
参謀級の動きだ。惜しい、ここが異世界なら甲斐田さんは俺の右腕にしていた。
俺は口を閉じた。
会議は二時間続いた。
初芝さんは好きなだけ喋り、俺たちは好きなだけ直された。発想が弱い、理解が浅い、もっとうちのビジネスを勉強してほしい。
一つ一つは反論できた。しかし反論を試みるたびに甲斐田さんの相槌が俺の言葉を遮断する。やめろという強い意図を感じる。
俺は耐えた。
魔王が言葉で制御されていた。
なんとか着地した。次回の提案の方向性が決まり、初芝さんは満足そうに立ち上がった。帰り際、俺の肩を叩いた。
「田中くんさ、入札時に会った時から一皮剥けたね。成長を感じるよ」
成長。
俺が。
百万の軍勢を統べた俺が。
この男に。
成長を。
認められた。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。四十五度、丁寧に。
丸の内にある初芝さんのオフィスを出た。エレベーターを待つ間、甲斐田さんは何も言わなかった。タクシーを拾って乗り込んでからも、しばらく沈黙が続いた。夜の首都高が窓の外を流れた。
「甲斐田さん」
「なに」
「初芝さん、三ヶ月前の決裁を覚えていませんでした」
「知ってる」
「なぜ証拠を出すのを止めたんですか」
甲斐田さんは窓の外を見たまま言った。
「出して、どうするの」
俺は答えられなかった。
かつての俺なら、決裁を忘れた将軍は即座に更迭していた。しかしここではクライアントを更迭できない。
証拠を突きつけても、得られるのは正しさだけだ。仕事は消える。
「これが現代の統治か」
思わず口に出た。
甲斐田さんが俺を見た。
「何それ」
「いえ、何でも」
タクシーは六本木に向かって走り続けた。次の提案まで二週間ある。初芝さんのビジネスを勉強しなければならないらしい。百万の軍勢を率いた俺が。
それもまた、統治の話だ。




