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君が私を忘れても、あたしは何度でも恋をする  作者: まめだいふく


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8/8

第8話:最後の色は、君の鼓動


 世界から、また一つ「意味」が零れ落ちた。



 廃ビルの放送室。


 カビ臭い埃の匂いと、古い放送機材が放つ重苦しい油の臭いが混じり合う、閉鎖的な空間。窓には幾重にも黒い遮光布が貼られ、外の世界の光を拒絶している。

 その隙間から漏れるわずかな光さえも、今の朝霧鈴音にとっては、網膜を刺すような不快な灰色のノイズに過ぎなかった。



「……あ、……っ」



 声を絞り出そうとして、喉を焼くような渇きに顔を顰める。


 右腕を動かそうとした瞬間、肩から先が消失したかのような、奇妙な無感覚が鈴音を襲った。

 アンプルの劇薬を過剰に摂取した代償は、すでに肉体の限界をとうに超えている。赤黒く腫れ上がった二の腕は、もはや自分の意思で制御できる範疇を離れ、ただ脈打つ激痛と、それさえも塗りつぶす感覚に支配されていた。


 鈴音は、震える左手で自分の右腕をなぞった。指先に伝わるのは、自分の肌とは思えないほど冷たく、硬質化した肉の感触。


 視線を落とせば、そこにあるのは完全なモノクロの世界だ。


 失った「青」に続き、鈴音の世界からは「緑」も、そして生命を象徴する「赤」の輝きさえも失われていた。


 色彩を失った視界の中で、唯一、異様なまでに白く発光しているように見えるのは、自らの髪だ。


 あの絶望的な戦いの最中に雪のように染まったこの白髪は、今や鈴音にとって「人間を辞めつつある」ことの消えない刻印となっていた。鏡を見ずともわかる。指先をすり抜ける毛束は、生気を失い、燃え尽きた灰のように脆い。



「……また、白くなったのかな」



 自嘲気味に呟いた声が、静まり返った室内で虚しく反響する。


 かつての深い藍色は、もうどこにも残っていない。この髪が一本落ちるたびに、自分の寿命と記憶が、一滴ずつ砂時計のように零れ落ちていく。



「……起きたの、鈴音」



 すぐ傍らで、温度の低い声がした。


 視線を向ければ、そこには一条澪がいた。背後に浮かぶ《守護》と《理性》の羽は砕け散り、その残骸が星屑のように彼女の周囲で死んだ光を放っている。


 澪の金の瞳は、じっと鈴音を見つめていた。だが、そこにはかつてのような、凛とした強さや、鈴音を導こうとする意志の輝きはない。どこか焦点が甘く、空っぽの器に溜まった水のように、静かで、起伏がない。



「……澪。……大丈夫? 怪我はない?」



 鈴音は震える左手を伸ばし、澪の指先に触れた。


 澪はその手に、自分の手を重ねる。指先は少し冷えていたが、そこには確かに、血の通った人間としての微かな拍動があった。


 だが、澪の反応はどこまでも淡白だった。鈴音の手を拒みはしないが、自ら強く握り返す熱量もない。ただ、そこにある体温を無機質に享受しているだけのようだった。



「怪我はないわ。……それより鈴音、バイタルが不安定よ。少し、じっとしていて」



 澪の声は、微かに震えていたかもしれない。だが、それは感情ゆえの震えというよりは、土台を失った建物が微かに共振しているような、不安定な危うさだった。


 《理性》を失った彼女は、今や自分の置かれた状況を論理的に整理することができない。なぜ追われているのか、なぜ自分がここにいるのか。それらの問いは、今の彼女にとってノイズに過ぎない。



「……いいんだよ、澪。あたしが勝手にやったことだもん」

「ダメよ。……鈴音が壊れるのは、胸の奥が、ずっとざわざわして、痛い。……効率が悪いわ、こんなの」



 澪は、鈴音の左手を自らの胸元に引き寄せた。


 《理性》が消えたことで、彼女は自分の感情を言語化する術を失いかけていた。ただ、内側から溢れ出す不安と、鈴音を失うことへの根源的な恐怖だけが、泥のように彼女の心を支配している。


 彼女は鈴音を見つめたまま、一筋の涙を零した。それは悲しみゆえの涙というよりは、壊れた蛇口から漏れ出す水のように、制御不能なバグの結果に見えた。



「鈴音……私、あなたのそばにいていいの? ……今の私は、あなたを守ることも、正しく考えることもできない……。ただの、壊れたガラクタなのに」



 澪は、すがるように鈴音の肩に顔を埋めた。


 かつての彼女なら、鈴音を叱り、諭し、守ろうとしただろう。だが今の彼女は、鈴音に寄りかからなければ、自らの存在を維持することさえできない依存体へと変質していた。



「……いいんだよ、澪。壊れてても、ガラクタでも。あたしが、あんたの代わりにあたしの全部をあげるから」



 鈴音は、澪の細い背中に腕を回し、強く抱きしめた。


 澪もまた、壊れ物を掴むような力強さで、鈴音の背中に指を立てる。その震えは、決して機械的なものではなかった。消えゆく自我の淵で、たった一人の「飼い主」を離したくないと願う、あまりに無様で、あまりに人間らしい必死さだった。



「あは。相変わらず、最高に趣味の悪いカップルだね、あんたたち」



 部屋の隅、古い放送機材の上に座った雨宮夜々が、紫色の飴をガリガリと音を立てて噛み砕いた。


 紫がかった黒髪をラフに流し、着物風のドレスを気だるげに揺らす彼女の瞳は、深い群青色。眠たげな表情の裏で、その鋭い視線は二人の閉じた世界を冷ややかに射抜いている。



「……夜々。……あんた、なんで助けたの」

「めんどくさいこと聞かないでよ。……ただの気まぐれ。雫に『面白いもん見守ってて』って言われただけだし」



 夜々は、煙管のようなデバイスから紫色の煙を吐き出した。その煙が、鈴音の右腕を這うように流れる。



「あんたの右腕、もう死んでるよ。アンプルの毒が神経を焼き切って、五感を順番に失っていく。……視覚の次は、なんだと思う?」



 夜々が指先で自分の耳を指差した。


 鈴音は息を呑んだ。


 確かに、夜々の声は聞こえている。けれど、その響きはどこか分厚い膜の向こう側から聞こえてくるような、奇妙な疎遠さを孕んでいた。音が、少しずつ砂嵐のノイズに混じり始めている。



「……聴覚の剥離。……あの日、海で聞いた波の音も、その子が呼んでくれたあんたの名前も、全部砂の中に消えていくんだ。……世界が、あんたというバグを本気で掃除し始めてるんだよ」

「……、……勝手に、言わせとけばいいよ……!」



 鈴音は、澪の細い肩に額を預けた。


 聴覚が消えれば、澪の呼ぶ声も聞こえるようになる。視覚が消えれば、澪の姿も見えなくなる。


 残るのは、この腕の中に伝わる、微かな体温と、絶え間なく溢れる涙の熱さだけ。



「鈴音、聞こえにくい? ……私の声が届かないなら、もっと近づけばいい?」



 澪が、淡白な、けれど拒めない響きを伴って囁いた。彼女は鈴音の白髪に指を絡め、その顔を覗き込む。彼女の瞳には、鈴音が自分をどう定義したのかを確かめるような、空虚な期待が張り付いていた。


 それは、一条澪の死を予感させると同時に、鈴音の「唯一」として生きることを受け入れた、残酷で静かな変質の証だった。



「……はぁ、いいよ。じゃあ、この廃ビルをあんたたちの『箱庭』にしてあげる。……でも、時間はあまりないよ。……あの女が、もうすぐそこまで来ている」


 夜々が指先で描いた紫色の煙――《紫煙の檻(しえんのおり)》が、放送室の入り口を塞ぐように渦を巻いた。


 灰色の世界で、白髪の少女は静かに目を閉じ、澪の心臓の音を探した。


 ドクン、ドクンと、不規則に、けれど切実に刻まれるその音。


 それが、鈴音にとっての最後の色だった。





 廃ビルの放送室を包む紫色の煙――《紫煙の檻》が、外界の因果を物理的に遮断していた。


 外側で鳴り響くはずの街の喧騒も、今は聞こえない。死んだように静まり返った空気の中で、雨宮夜々は手元のデバイスを操作し、青白い光を空中に投影した。



「……あーあ。やっぱりね。かなりキてる」



 夜々の群青色の瞳が、気だるげにそのホログラムを追う。そこには、一条澪の心臓部を中心とした「魂の設計図」が、不気味な幾何学模様となって浮かび上がっていた。


 鈴音はその光に、本能的な嫌悪感を覚えた。それは、自分たちが決して触れてはならない、人間の「内側」を無理やり暴き出すような、暴力的な光だったからだ。



「……何、これ」

「魔法少女の『カルテ』だよ。……ほら、ここ。背中の羽、見てみな」



 夜々が指し示した先。澪の背後に浮かぶ光の羽は、かつての神々しい輝きを失い、煤けたように濁っていた。


 本来ならば六枚あるはずの羽は、今や四枚しか残っていない。砕け散った二枚の隙間からは、絶えず魔力の残滓が黒い煤となって零れ落ちている。



「羽の状態。……《守護》、消滅。……《理性》、消滅。残り四枚。……あは、思ったより削れてるね。あの女……紗夜とやり合うには、ちょっと心許ないかな」



 夜々は他人事のように飴を噛み砕く。ガリッ、という音が、静かな部屋に冷酷に響いた。



「ねえ、夜々。……さっきから言ってる『削れる』って、どういう意味」



 鈴音の問いに、夜々は少しだけ面倒そうに視線を向けた。彼女は紫のドレスの裾を揺らしながら、澪の周囲をゆっくりと歩き回る。



「言葉通りの意味だよ。あんたも薄々気付いてるんじゃない?……この羽はね、彼女の感情そのものなんだ。戦うたびに、あるいは強力な魔力を使うたびに、この羽が身代わりになって砕け散る。……《守護》が消えれば、誰かを守りたいという献身が死ぬ。《理性》が消えれば、物事を正しく判断する倫理観が死ぬ」

「……、……」

「つまりね、羽が壊れるたびに、一条澪という人格は少しずつ死んでいくんだよ。全部なくなれば、そこに残るのは自我も記憶もない、ただの魔力供給源――《星核》っていう名の置物だ。世界を維持するためだけのゼンマイだよ」



 鈴音は、隣に座る澪を見た。


 澪は、その残酷な解説を、まるで遠い国の天気予報でも聞くような顔で受け流していた。感情が欠落し始めている彼女にとって、自分の魂が削られているという事実は、もはや恐怖の対象ですらなかった。



「……合理的ですね。……感情という不安定な変数を排除し、純粋なエネルギーとして変換する。……効率的なシステムです」



 澪の口から漏れたのは、あまりに淡白な、そして無機質な肯定だった。


 彼女にとって、今の自分は「鈴音の唯一」という役割さえ果たせれば、他の人格など不要なコストに過ぎないのかもしれない。



「……、……っ! ふざけないでよ……!」



 鈴音の左手が、澪の肩を強く掴んだ。


 激昂した彼女の瞳には、漆黒の亀裂が走り、右腕の黒い紋様が脈動を強める。



「澪は兵器じゃない! 装置なんかじゃない! ……あたしが、あたしがそんなことさせない……!!」

「でも機関はそう思ってるよ。……あいつらにとって、魔法少女は世界を維持するための使い捨ての装置に過ぎない。……救いなんて、最初から一欠片もないんだよ」



 夜々の声が、珍しく熱を帯びた。それは皮肉屋の彼女にしては、あまりにも剥き出しの怒りだった。



「……わたしもね、見てきたんだよ。昔、仲間だった子たちが、そうやって順番に装置になって消えていくのをさ。……だから、わたしはもう、何もかもどうでもよくなったんだ」



 夜々はふいに関心を失ったように、また気だるげな表情に戻った。



「でも、あんたは違う。朝霧鈴音。……あんたは魔法少女でもないのに、執着だけでそのシステムを食い破ってる。……あんたの存在そのものが、この完璧で退屈な世界の『バグ』なんだ」

「バグ……」

「そう。……この世界を、システムの理をぶち壊せる可能性があるとしたら、それはあんたみたいな狂った人間だけだ」



 夜々は飴を吐き出し、不敵な笑みを浮かべた。



「教えてあげるよ。救う方法。 あは、一つしかないよね?…………この世界を、システムの理を、まるごとぶち壊すことだ」



 鈴音は、夜々の瞳の中に、消えかけた残り火のような希望を見た。


 それは、自分と同じように世界に絶望し、けれど何かを壊したくてたまらない、破壊者の瞳。



「……世界を、壊せば……澪は助かるの?」

「助かるかどうかは知らない。……でも、少なくとも装置として死ぬことはなくなる。……ま、二人で心中するよりはマシな結末なんじゃない?」



 夜々はそう言うと、再び飴を口に放り込んだ。


 鈴音は、静かに頷いた。


 色彩は失われ、音も遠のきつつある。


 けれど、この少女を救うための道が「破壊」であるならば、迷う理由などどこにもなかった。



「……協力するよ。……あたしが、バグになって……この世界を終わらせてあげる」



 鈴音の決意に応えるように、澪がそっと彼女の背中に手を添えた。


 その感触はどこまでも淡白で、けれど、この廃ビルという小さな箱庭の中で、二人を繋ぐ唯一の確かな重力だった。








 同時刻。《黒星機関》本部、最深部に位置する管制室。


 壁一面を埋め尽くす巨大なモニターが、無数の数値を無機質に弾き出している。その中心で、桐島紗夜は黄金の剣を杖のように突き立て、微動だにせず立っていた。彼女の背後に浮かぶ《七枚羽》は、もはや神々しい後光などではない。それは、システムに背く者を一塵も残さず焼き払うための、冷酷な「裁きの火」そのものだった。



「……ターゲット、捕捉完了。セクター14、廃ビル内」



 オペレーターの報告に、紗夜は静かに目を閉じた。


 彼女の脳裏には、かつて同じ戦場で肩を並べ、同じ未来を信じていたはずの戦友――雨宮夜々の顔が浮かんでいた。



「……夜々。あなたまで、その少女に毒されたというの。……悲しいわ」



 紗夜の声には、微塵の揺らぎもなかった。彼女にとって、個人の感情は世界の平穏を維持するための「コスト」に過ぎない。たとえ親友であっても、システムの歯車を狂わせる石ころであれば、粉砕するのが彼女の信じる『正義』だった。



「朝霧鈴音を、A級排除対象として捕獲、あるいは物理的消去を開始。……不純物は、一滴たりとも残してはならない。一条澪は、たとえ羽が最後の一枚になろうとも、『回収』しなさい。彼女は世界を回すための、最後のゼンマイなのだから」



 紗夜が目を開いた瞬間、黄金の魔力が爆発的に膨れ上がった。その威圧感だけで、管制室の空気が物理的に歪み、防壁が悲鳴を上げる。



「……行きましょう。この穢れた夜を、終わらせるために」



 最強の追跡者が、光の尾を引いて夜の街へと飛び出した。






 一方、廃ビルの放送室。


 夜々が展開していた《紫煙の檻》が、外側から凄まじい衝撃を受けて激しく波打った。



「……あは。本気だね。これ、あたしの檻ごとビルを更地にするつもりだよ」



 夜々が気だるげに飴を噛み砕く。だが、その瞳だけは、獲物を狙う猛禽類のような鋭利な光を宿していた。



「……っ、……澪、危ない……!」



 鈴音は、聞こえにくくなった自分の声を振り絞り、隣に立つ少女の服の裾を強く掴んだ。


 その時、頭上から降り注いだのは、落雷のような黄金の光だった。



 その瞬間、空気そのものが跪いた。



 爆鳴とともに、天井が紙細工のように弾け飛ぶ。瓦礫が降り注ぐ中、光の粉を散らしながら、一人の少女が音もなく舞い降りた。


 桐島紗夜。その絶対的な存在感に、鈴音の呼吸が止まる。



「……相変わらず、趣味の悪い登場の仕方」

「夜々。そこを退きなさい。……あなたの処遇については、後で審問会で決定します」



 紗夜の金の瞳が、次に鈴音を射抜いた。その視線は、人間を見るものではなく、害虫を駆除する際のような、底知れない冷徹さに満ちていた。



「朝霧鈴音。あなたの執着は、この世界のバグです。……バグは、消去されなければならない」

「……、……うるさい……っ!!」



 鈴音は、震える脚を叱咤して立ち上がった。視界は灰色の砂嵐、右腕は死に、耳からは音が奪われつつある。



「澪は、渡さない……! あたしが……あたしだけが、この子の唯一なんだ……!!」



 鈴音の翡翠の瞳に刻まれた漆黒の亀裂が、内側から爆発するように広がった。


 彼女の執着に呼応し、死んでいたはずの右腕から《漆黒のリボン》が溢れ出し、濁った魔力の奔流となって紗夜へと牙を剥く。



「……いい目だね。じゃあ、教えてあげるよ、鈴音」



 夜々が、鈴音の背後で不敵に笑った。



「タイムリミットは、あの子の羽が全部なくなるまで。……それまでにこの世界のシステムをぶち壊せなきゃ、あんたも、その人形も、全部塵だよ」

「……、……分かってる。やってやる……!」



 灰色の世界で、白髪の少女は叫ぶ。


 たとえ五感がすべて消え去り、命が尽き果てようとも。


 最後の一枚の羽が散る前に、自分を忘れていく少女を守るために。


 最強の「正義」と、最悪の「バグ」。


 絶望の連鎖を断ち切るための、最悪の反逆が始まった。


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