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君が私を忘れても、あたしは何度でも恋をする  作者: まめだいふく


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第7話:世界は、君の崩壊を観測する


 世界から、「緑」の色が剥ぎ取られた。


 翌朝。目を覚ました鈴音が、洗面所の鏡の前で最初に見たのは、昨日よりもさらに透き通った、雪のような自分の髪だった。


 指を通すたび、燃え尽きた灰のような白い糸がハラハラと洗面台に落ちる。それは鏡の中の自分を、どこか遠い国の見知らぬ少女のように変貌させていた。



「……っ」



 右腕を抱きしめる。アンプルの針を突き刺した二の腕の痕は、赤黒く脈打ち、服の布地が擦れるだけで火で焼かれるような激痛を走らせた。


 けれど、鈴音はその痛みを、無理やり飲み込んだ。この激痛こそが、昨日、澪を世界から奪い返した対価なのだと自分に言い聞かせて。


 ふと窓の外を眺め、鈴音は息を呑んだ。


 大好きだった公園のクヌギも、通学路の生垣も、今はすべてが濁った灰色に沈んでいた。


 失った「青」に続き、今朝、鈴音の視界から「緑」の輝きが完全に失われていた。



「……鈴音?」



 背後から、温度のない声がした。


 振り返れば、そこには一条澪が立っている。金の瞳は凪いだ海のように静かで、鈴音の白くなった髪を、まるで壊れた機械の部品を確認するかのように見つめていた。



「……あなたの髪、昨夜よりさらに白化が進んでいるわ。……バイタルの数値も、異常な速度で低下している。……星核である私を守るために、あなたの個体が崩壊するのは、効率的ではないわ。……今すぐ、機関の医療班へ行くべきよ」

「……、……だいじょうぶだよ、澪」



 鈴音は、震える唇を無理やり吊り上げ、笑顔を作った。


 耳は聞こえている。澪の、その機械的で冷たい声さえも、今の鈴音にとっては、この世で唯一の「本物」の音だった。



「……学校、行こう。……約束したでしょ。……ずっと、いっしょにいるって」



 鈴音は、澪の冷たい指先を、壊れ物を扱うようにそっと握りしめた。




 ――通学路を歩く。


 行き交う生徒たちの笑い声。遠くで響く車の走行音。


 音は聞こえるのに、視界から色が失われていく恐怖。信号の緑も、歩道の植え込みも、すべてが「無」の色に塗りつぶされていく。鈴音の平衡感覚は、少しずつ、けれど確実に狂い始めていた。



(……怖い。……本当は、すごく、怖いよ……)



 隣を歩く澪の体温だけが、その恐怖をかろうじて繋ぎ止めていた。


 校門をくぐろうとした、その瞬間だった。


 パリン、と頭の中で何かが割れるような鋭い音がした。

 


 空がどろりとした灰色に濁り、校舎も生徒たちも色彩を完全に失って、濃淡だけの影へと変わっていく。




 ――境界空間への、強制転移。


 並木道の真ん中に、一人の少女が立っていた。


 金色の髪を厳格に整え、背後に神々しいまでの七枚の光の羽を背負った、深紅の瞳の守護者。


 桐島紗夜。


 昨夜、雫に制止されて引き下がったはずの彼女は、今、昨日とは違う冷徹な殺気を纏っていた。



「……朝霧鈴音。……正式に、機関より『排除命令』が下ったわ」



 紗夜の声が、静まり返ったモノクロームの世界に響き渡る。



「……排除、命令……?」



 鈴音の声が震える。


 紗夜が右手を上げると、黄金の光が集束し、巨大な一振りの剣へと姿を変えた。昨夜の個人的な排除ではなく、今は「世界のシステム」そのものが、鈴音というバグを消去するために動き出していた。



「……システムに選ばれなかった『石ころ』が、理に触れた罪。……死を以て、清算しなさい」



 黄金の剣が振り下ろされる。


 死を悟った鈴音の目の前。


 不意に、世界が「停止」した。



「……へえ。人間のまま、アンプルの毒だけで理に干渉してるんだ。……あんた、相当なバカか、それとも救いようのない狂信者だね」



 頭上から降ってきたのは、気怠げで、けれどどこか鋭い、聞き慣れない少女の声だった。



 空中で静止した黄金の剣。


 その切っ先から放たれる熱量さえも、凍りついたように動かない。


 鈴音の目の前、わずか数センチの場所で、死の象徴が静止していた。



「……っ、……、……?」



 呼吸の音さえ、自分の耳にやけに大きく響く。


 視線を上げると、校門のアーチの上に、一人の少女が座り込んでいた。


 紫がかった黒髪をルーズに流し、気怠げに飴を噛み砕く音――ガリッ、という乾いた音が、静止した世界で異様に際立って聞こえた。



「……あは。そんなに驚かなくてもいいよ。……ただちょっと、世界の秒針を止めただけ」



 少女――雨宮 夜々(あまみや やや)は、ひらりと軽やかに地上へ降り立った。


 着物をアレンジしたような紫のドレスが、動きのない空気の中で、彼女の周囲だけ不自然に揺れている。彼女の背後には、陽炎のように揺らめく「五枚の紫色の羽」が浮かんでいた。



 彼女が鈴音の目の前に立った瞬間、鈴音はその瞳に射抜かれた。

 

 凪いだ夜の海のような、深く、底知れない『群青色の瞳』。



「……だれ……っ。……あんたも、機関の……?」



 鈴音は、震える足で澪を背後に隠しながら問い返した。


 夜々は、鈴音の白くなった髪と、翡翠の瞳に刻まれた漆黒の亀裂を、まるで壊れた機械の部品を検品するような目で見つめた。



「雨宮 夜々。……一応、機関の所属だけど、今はただの『観測者』。……九条 雫に頼まれてね。あんたがどれだけ壊れるか、特等席で見守っててあげてってさ」


 

 彼女が指先で鈴音の右腕――アンプルの傷痕に触れる。



「……あ、が……っ!!」



 触れられた瞬間、神経を直接焼かれるような激痛が走り、鈴音は膝をついた。


 夜々は冷ややかな群青色の瞳で、鈴音の苦悶を見下ろす。


「……信じられない。ただの人間が、アンプルの劇薬だけで、七枚羽の一撃を相殺するなんて。……あんた、自分が何をしてるか分かってないでしょ。……それ、魔法じゃないよ。ただの自傷行為。……自分の命を、ドブに捨ててるだけ」

「……わかってるよ……っ。……そんなこと、言われなくても……!!」



 鈴音は、激痛に耐えながら夜々を睨みつけた。

 


「……でも、これしかないんだ。……あたしが壊れるたびに、澪が……澪が、人間でいられる時間が……一秒でも増えるなら……っ」



 夜々は、その言葉を聞くと、心底呆れたように鼻で笑った。

 


「……バカだね。……本当に、反吐が出るほど人間らしい。……いいこと教えてあげるよ、朝霧鈴音。……機関が下した『排除命令』の意味、分かってる?」



 夜々が指を弾くと、モノクロームの世界がさらに変質した。

 


 校舎を、街を、そして隣に立つ一条澪を。


 血管のような青白いラインが、無数に這い回っているのが見える。


 それは、世界を維持するために「感情」という燃料を吸い上げ、一点へと集束させていく巨大なシステムの回路だった。



「……これ、は……」

「世界の設計図。……一条澪はね、その回路の終着点。……世界という巨大な時計を動かすための、最高級の『ゼンマイ』なの。……あんたがどんなに髪を白くして、寿命を削って抵抗しても、システムの歯車は止まらない。……彼女は最後には、ただの『装置』として焼き切れる運命にある」



 夜々の声が、鈴音の心臓を直接握りつぶすように響く。

 


「……そして、あんたは。……その精密な時計に噛み込んだ、ただの『砂利』。……バグなんだよ。……世界はね、正しい時間を刻むために、あんたという不純物を全力で排出しようとしてる。……それが、桐島紗夜の『正義』の正体」



 鈴音は、視界がさらに混濁していくのを感じた。


 「緑」に続き、今、視界の隅から「赤」の色が剥がれ落ちていく。

 


(……赤が、消える……。……澪の、リボンの色も……わからなくなる……)



 絶望が、冷たい泥のように鈴音の足元から這い上がってくる。


 だが、鈴音は、震える手で澪の冷たい指先を握り直した。



「……バグで、いいよ」

「……あ?」

「……砂利だろうが、ゴミだろうが、なんだっていい。……世界が、澪を装置にするって決めたなら。……あたしは、その世界をぶち壊すバグになってやる」



 鈴音の翡翠の瞳の奥で、黒い亀裂が爆発的に広がった。


 右腕の傷口から、ドロりとした漆黒の魔力が溢れ出し、夜々の「静止した時間」を内側から食い破り始める。


 夜々は、その凄まじい「執着」の波動に、飴を噛み砕く手を止めた。


 彼女の瞳に、初めて微かな驚愕と――そして、奇妙な期待の色が浮かぶ。



「……あは。……最高。……あんた、本当に救いようがない狂人だね」



 夜々が不敵に笑い、指を再び鳴らした。

 


「……いいよ。その『間違い』、わたしが少しだけ、手伝ってあげようか?」



 直後、時間が動き出す。


 静止していた黄金の剣が、咆哮を上げて振り下ろされた。



「――っ、死になさい!!」



 紗夜の叫び。


 黄金の光が世界を焼き尽くそうとした、その瞬間。


 鈴音の右腕から溢れ出した漆黒のリボンが、まるで巨大な翼のように広がり、黄金の刃を真っ向から受け止めた。




 ――轟音。



 黄金の剣が振り下ろされた瞬間、境界空間の石畳が耐えきれず爆ぜた。

 

 鈴音の右腕から溢れ出した漆黒のリボンは、羽の形にすらなれない泥のような闇となって、紗夜の一撃を真っ向から受け止めていた。だが、それは「防御」ではない。ただの「相殺」ですらない。鈴音の肉体を芯にして、理不尽なまでの執念が、世界の法則そのものを強引にねじ伏せているだけだ。



「……あ、が……っ、あああああ!!!」



 鈴音の喉から、声にならない絶叫が漏れる。


 アンプルの過剰な魔力が、毛細血管を内側から焼き切り、翡翠の瞳に刻まれた黒い亀裂が爆発的に広がった。視界は今、完全にモノクロームへと沈んでいる。


 緑も、青も、そして先ほどまでかろうじて見えていた「赤」も――。

 

 すべてが煤けた灰色に塗りつぶされていく中で、ただ、紗夜が放つ「黄金」だけが、網膜を焼き焦がすほどの光として焼き付いていた。



「無意味よ、朝霧鈴音! その力は、あなたの命そのものを燃料にしている。……そんな歪な光、一分も持たずに尽き果てるわ!」



 紗夜の声が、黄金の衝撃波と共に鈴音を打ち据える。

 


 事実だった。鈴音の足元には、パラパラと真っ白な髪が雪のように降り積もっている。一秒ごとに寿命が、記憶が、人間としての形が、漆黒の魔力へと変換され、消えていく。



「……うる、さい……っ!!」



 鈴音は、震える左手で澪の冷たい身体を抱き寄せた。


 背後にいる澪は、感情を失った金の瞳で、ただこの破壊の光景を見つめている。鈴音がどれほど血を流しても、彼女は「効率的な止血」さえ口にしない。その精神的な断絶が、物理的な激痛以上に鈴音の心を切り裂いた。



(……それでも、いい。……あんたが、あたしを『部品』としてしか見てなくても……。あたしが、あんたを愛してるから……!!)



 漆黒のリボンが、黄金の剣を強引に跳ね除けた。


 だが、その直後、鈴音の膝が折れた。右腕の感覚が完全に消失し、指先が石畳の上で力なく震える。



「……終わりよ。不純物の処理を完遂する」



 紗夜が冷酷に告げ、背後の七枚羽から無数の光の楔を射出しようとした、その時。



「――はいはい、そこまで。あんたの正義、ちょっと熱すぎ」



 紫の着物ドレスを翻し、夜々がその「死の領域」に割って入った。


 彼女が指先を一振りすると、紗夜が放とうとした光の楔が、空間ごと「断裂」して虚空へと消えた。



「……雨宮夜々! 貴様、機関の命に背くつもりか!」

「命令なんて、昨日のお弁当のゴミと一緒に捨てたよ。……わたし、面白いもん見ちゃったし。……ねえ、この子の『黒いリボン』、よく見てなよ。……これ、ただの魔力じゃない。システムの底に溜まった『呪い』を直接引き出してる。……放置しとくと、世界が腐っちゃうかもね?」



 夜々は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、意識が遠のきかけている鈴音の首筋を掴み、乱暴に引き寄せた。



「……返してもらうよ。この子は、わたしが預かる。……雫には、適当に報告しといて」

「……逃がすとでも思っているのか!」



 紗夜が再び黄金の羽を輝かせたが、夜々は気怠げに指を鳴らした。

 



「――《紫煙の檻》」

 



 瞬間、校門周辺が濃密な紫色の霧に包まれた。


 それはただの煙ではない。魔力そのものを遮断し、空間の座標を狂わせる「五枚羽」の奥義。

 


「……っ!? 雨宮……ッ!!」



 紗夜の怒声が遠ざかっていく。


 鈴音の意識は、底なしの深い闇の中へと沈み始めていた。

 

 腕が、熱い。

 頭が、割れそうに痛い。

 

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 

 けれど、最後に感じたのは、自分を支える夜々の強引な腕と、隣で寄り添う澪の、あのひどく冷たくて、けれど唯一無二の「体温」だった。



(……ああ。……まだ、繋がってる……)



 鈴音は、意識を手放す寸前、モノクロームの世界で最後の一色を、心の中で描き出した。

 

 それは、澪が髪に結んでいた、あの真っ赤なリボンの色。

 

 もう目には見えないけれど。


 魂に焼き付いたその「赤」だけを抱きしめて、鈴音は深い眠りへと落ちていった。







 どれほどの時間が経っただろうか。

 

 鈴音が目を覚ましたのは、埃っぽいカビの匂いが漂う、廃墟の放送室のような場所だった。


 窓には黒い布が何枚も重ねて貼られ、外の光を完全に遮断している。

 

 視界は、まだ灰色のままだ。

 


「……あ、……」


 

 声を出そうとして、喉の激痛に顔を顰めた。


 隣を見れば、椅子に腰掛けた一条澪が、虚空を見つめて静止している。彼女が無事であることに、鈴音は涙が出るほどの安堵を感じた。



「……起きた? しぶといね、あんた」



 部屋の隅、古い放送機材の上に腰掛けた夜々が、紫色の飴をガリガリと噛み砕きながら、鈴音を眺めていた。


 彼女の足元には、鈴音のあのボロボロのスケッチブックが転がっている。



「……ここは……」

「あたしのアジト。……『バグ指定』されたあんたを、普通に病院へ連れて行くわけにいかないでしょ。……ようこそ、世界の裏側へ。朝霧鈴音」



 夜々は、スケッチブックを足先でこちらへ押しやった。

 


「……あんたのその白髪、もう元には戻らないよ。……そして、あんたの感覚も。……次は、何が消えるんだろうね」


 夜々の瞳が、愉悦と、ほんの少しの同情を孕んで、鈴音を射抜いた。

 

 白く染まった髪。

 色彩を失った視界。

 

 鈴音の、本当の地獄が、ここから始まろうとしていた。


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