第6話:君の中で、世界が孵る
世界は、冷徹な数値と波形、そして残酷な等価交換の連鎖によって構成されている。
東京都心、地下数百メートル。地図にも記録されず、地上の喧騒が一切届くことのない静寂の深淵に、《黒星機関》の心臓部たる戦略観測室はある。
広大な円形の室内を支配しているのは、無数のホログラムパネルが放つ、網膜を刺すような蒼白い光だ。そこでは、世界を維持するための生贄――「魔法少女」という名の燃焼体のエネルギー効率が、秒単位で監視されている。
「――バイタル、第ニ警告域を依然として推移。対象、一条澪の魂の欠損箇所に、異常な外部干渉を確認」
オペレーターの無機質な報告が、静まり返った室内に響く。
中央の特等席に深く腰を下ろし、銀髪を弄りながらその光景を眺めている少女、九条 雫は、愉悦を隠しきれない様子で瞳を細めた。彼女の手元にある端末には、朝霧鈴音という一人の少女の透過図が、赤く点滅しながら映し出されている。
「……あはは。本当に、使ったのね。あのアンプルを。……迷いもせずに、自分の腕に。……あの子を失う恐怖は、肉体を貫く劇薬の痛みさえも、甘い蜜に変えてしまったのかしら」
雫は、鈴音が昨夜下した決断を反芻し、喉を鳴らした。
鈴音が選んだのは、魔法を「享受」することではなく、自らの命を「磨り潰す」ことだった。適合者ではない普通の人間が、感情を爆発的に魔力へ変える増幅剤を、血管に直接流し込む。それは、自らの魂を芯にして燃え上がる、漆黒の灯火だ。
モニターの中で、鈴音の生命波形が激しく乱れている。アンプルの針を腕に穿ったその瞬間、彼女の神経系は一度焼き切れ、魔法という名の呪いが彼女の血液を上書きした。それは本来、人間が耐えられる負荷ではない。それを可能にしているのは、雫が「偶然」を装って彼女に拾わせた、あの黒いデバイスの存在だった。
「九条。随分と楽しそうね。……自分の『紛失物』が世界を汚しているというのに、その余裕はどこから来るのかしら」
背後から響いたのは、硬質で涼やかな、けれど逃げ場のない圧倒的な圧力を孕んだ声だった。
振り返れば、そこには金髪を厳格に整え、一分の隙もない立ち居振る舞いで立つ少女――桐島 紗夜がいた。彼女の深紅の瞳は、ホログラムに映る鈴音のデータを、ゴミ溜めを眺めるような冷徹さで射抜いている。
「……あら、お姉様。最強の《七枚羽》様が、わざわざこんな地下の掃き溜めにまで何の御用? ……観測なら、私一人で十分足りているけれど」
雫は椅子を回転させ、不敵な笑みを浮かべる。紗夜は雫の挑発を、無価値なノイズとして一瞥だにせず、空中に浮かぶ一条澪のバイタルデータに指を触れた。
「一条澪の周辺で、許容範囲を超えたノイズが発生しているわ。……不純な外部干渉。あなたが流したアンプルの反応ね。……それと、以前紛失したとされる『デバイス』の信号も、同じ場所で同期を始めている。……肉体に直接魔法を打ち込み、世界を欺くような愚か者は、速やかに排除すべきよ」
紗夜の瞳には、一切の迷いがない。
彼女にとって、魔法少女は世界を維持するための精密な時計の歯車だ。そこに「執着」という名の泥を塗りつけ、システムの整合性を崩そうとする鈴音の存在は、看過できない穢れに他ならなかった。
「……排除、ね。……分かっているのかしら、お姉様。……あの少女が今、どれほどの純度で一条澪を『生かして』いるか。……彼女を消せば、一条澪という星核は、その瞬間に崩壊するわよ?」
「それでも構わない。……歪なまま維持される理に、価値はないわ。……一条澪は再構成すればいい。けれど、そのバグは今ここで断ち切る必要がある」
紗夜が踵を返した瞬間、観測室の温度が数度下がったような錯覚に陥る。
背後に浮かぶ黄金の羽が、微かな光を放ち、彼女の決意を肯定するように震えた。
「……排除してくるわ。……『石ころ』が魔法に触れればどうなるか、その身に刻んであげる」
紗夜が去った後、雫は再びモニターへと向き直った。
そこには、朝の光の中で、何も知らずに手を繋ぐ二人の少女の姿が映し出されている。
「……あはは。いいわよ、お姉様。……あなたのその眩しすぎる正しさが、あの子の底なしの狂気に触れた時、どんな音を立てて壊れるのか……。……特等席で、じっくり観測させてもらうわね」
闇の中で、銀髪の少女の笑い声が、いつまでも反響していた。
翌朝。
朝霧鈴音の住むマンションの洗面所には、静かな絶望が満ちていた。
鏡の中に映る自分の姿。
昨日まで、夜の海のように深い藍色を湛えていたはずの髪は、今や雪のように真っ白に染まり、朝の光を反射して透き通るような不自然な輝きを放っている。
「……、……っ」
ブラシを通すたび、洗面台にハラハラと白い糸が落ちる。
アンプルを腕に深く突き刺し、自らの寿命を燃料として魔法を起動させた代償。それは鈴音の肉体から、少しずつ「生命」の色を奪い去っていた。
視界は薄い膜を張ったように霞んでいる。
ふと窓の外を眺めても、かつて大好きだった空の青は、どこか色褪せて見えた。
まるで世界に薄い灰色の膜がかかっているみたいに。
(……これでいい。……あたしがどれだけ壊れても、澪が隣にいてくれるなら)
鈴音は、震える左手で右の二の腕を抱きしめた。
衣服の下、アンプルの針が貫いた皮膚の跡は、赤黒く腫れ上がり、今も脈打つような鈍い痛みを刻み続けている。けれど、その激痛こそが、澪の心をこの世界に繋ぎ止めた証のように思えて、鈴音は歪な笑みを浮かべた。
ポケットの中では、あの黒いデバイスが微かな熱を帯びている。
アンプルの過剰な魔力によって肉体が内側から焼き切られないのは、この機械が鈴音の「痛み」を肩代わりし、暴走する力を強引に制御しているからだ。
「……お待たせ。……澪」
リビングへ戻ると、そこには感情を失った金の瞳で、虚空を見つめる黒髪の少女が立っていた。
鈴音は、その冷たい、けれどこの世で最も愛おしい手を握りしめる。
「……行こう。……学校」
澪は何も答えない。けれど、鈴音に手を引かれるまま、静かに歩き出した。
二人が並んで、いつもの通学路を歩み、校門をくぐろうとした、その瞬間だった。
パリン、と頭の中で何かが割れるような鋭い音がした。
部活動の喧騒。笑い声。遠くで響くチャイムの音。
それら全ての「日常」が、一瞬にして消失する。
空はどろりとした灰色に濁り、校舎も木々も色彩を失ってモノクロームの影へと変わっていく。
――境界空間への、強制転移。
その絶望的な静寂が支配する並木道の真ん中に、一人の少女が立っていた。
金色の髪を夕闇になびかせ、背後に神々しいまでの七枚の光の羽を背負った、深紅の瞳の守護者。
「……不純物を特定。朝霧鈴音。……お前の存在ごと、排除する」
紗夜が静かに宣告した瞬間、鈴音の全身に、心臓を直接握りつぶされるような凄まじい重圧が襲いかかった。
「……っ、ぐ、……っ!!」
並木道の石畳が、みしりと不吉な音を立てて沈んだ。
桐島紗夜が、ただそこに佇んでいるだけで、境界空間の重力は数倍に跳ね上がり、生身の鈴音を物理的に押し潰そうとする。空気そのものが磨りガラスのように鋭く、呼吸をするたびに肺の奥が切り裂かれるような感覚に陥る。
魔法少女ではない鈴音にとって、この空間に居続けること自体が、全身の血管を針で掻き乱されるような劇毒に等しい。ましてや、昨夜アンプルを直接その身に穿ったばかりの腕が、紗夜から放たれる純白の魔力に共鳴し、内側から爆ぜるような激痛を上げている。
「無駄よ、朝霧鈴音。……システムに選ばれなかった『石ころ』が、この純潔な魔力の檻に耐えられるはずがないわ。……その髪の白さは、あなたが理を汚した代償。死を以て、その穢れを清算しなさい」
紗夜は、金髪を夕闇になびかせながら、一歩も動かずに鈴音を見下ろした。
彼女が右手を微かに上げると、背後の七枚羽から、黄金の「光の楔」が数本、音もなく射出された。
ドシュッ、と鈍い音が響く。
光の楔は鈴音の急所を貫くのではなく、彼女の制服の袖やスカートの裾を掠め、その影を石畳に深く縫い止めた。身動きを封じられ、逃げ場を完全に失った鈴音。紗夜にとって、これは戦闘ですらない。ただの不純物の「間引き」だった。
「……澪。……にげ、て……。……こいつ、は……っ」
鈴音は、震える手でポケットの中のデバイスを握りしめた。
アンプルの副作用で視界は霞み、もはや目の前の紗夜の姿さえ、二重、三重にブレて見える。色彩を失いつつある世界で、ただ一つ確かなのは、隣に立ち尽くす澪の「体温」だけだった。
「……排除。一条澪の完成に、あなたの存在は不要よ」
紗夜の羽が、まばゆい光を集束させ、巨大な一振りの剣へと姿を変える。
その絶対的な「正義」を前に、鈴音は死を悟り、ゆっくりと瞳を閉じた。
――けれど。
今まで感情を失い、空っぽの金の瞳で虚空を見つめていた黒髪の澪が、ふらりと、鈴音の前へ一歩踏み出したのだ。
「……や、めて……」
その声は、消え入りそうなほど小さかった。
けれど、澪は確かに、自分の意思で鈴音を背中に隠した。
「……澪……? ダメ、下がって……っ!」
「……鈴音が消えるのは、……いや……っ」
感情は六星羽と共に砕け散り、失われたはずだ。けれど、自分を守るために髪を白くし、腕を血と脂汗に濡らしながら耐え続ける鈴音の姿が、澪の魂の深層に眠る「最後の記憶」を、システムの理を無視して激しく揺さぶっていた。
「……退きなさい、澪。それは、あなたを惑わすだけの毒よ。私がそれを取り除き、あなたを完璧な星核へと戻してあげる」
「……違う……っ。鈴音は、わたしの……全部、なの……!!」
澪が絶叫した瞬間、彼女の胸元で、鈴音の持つデバイスが、耳を劈くような共鳴音を響かせた。
鈴音の腕の傷から漏れ出る、行き場のない「痛み」。
澪の瞳から零れる、名前のない「涙」。
二つの歪な執着が、黒いデバイスの中で最悪の形で混ざり合い、臨界点を超えて溢れ出した。
「……っ、あああああああ!!」
鈴音の右腕から、ドロりとした漆黒の霧が噴き出した。それはまだ羽の形にすらなっていない、ただの「呪いの奔流」。
けれどその闇は、紗夜の黄金の光を食い破るように広がり、二人の周囲を漆黒の繭のように包み込んでいく。
「……っ!? システムを侵食している……? あなたたち、一体何を――」
光と闇が激しく衝突し、境界空間がガラスのようにひび割れていく。
崩壊しゆく世界の中で、白髪の少女と黒髪の少女は、互いに縋り付くようにして、底知れない闇の中へと沈んでいった。
――闇の中。
そこは、音も、光も、自分と他者の境界さえも曖昧になる場所だった。
鈴音は、腕から流れる熱い血の感覚だけを頼りに、澪を抱きしめていた。
アンプルの熱に浮かされた頭の中で、古い記憶が断片的に明滅する。
まだ髪が青く、二人で笑ってアイスを食べていた頃の。何も失っていなかった、あの日々の残滓。
「……ねえ、澪。……あたしを、見捨てないで」
闇に溶けゆく意識の中で、鈴音はしがみつく力を強めた。
澪の背負う「星核」としての運命が、どれほど残酷なものであっても。
自分が「バグ」として、この世界から排除される運命にあったとしても。
「……離さないよ。……たとえ、あんたの心が、一欠片も残らなくなったとしても。……あたしが全部、覚えておくから」
鈴音の白髪が、闇の中で微かな光を放つ。
澪の返答は聞こえない。けれど、抱きしめる腕に伝わる微かな震えが、何よりも確かな答えのように思えた。
二人の周囲を包む漆黒の繭が、内側から激しく脈動する。
それは、世界を救うための魔法ではなく。
たった一人の少女を、世界から奪い去るための、醜悪で美しい「呪い」の産声だった。
漆黒の繭の中は、死後の世界のように静まり返っていた。
外側で荒れ狂っていた紗夜の黄金の魔力も、空間がひび割れる凄まじい轟音も、ここには一切届かない。ただ、ドクン、ドクンと、二人の少女の心臓の鼓動だけが、重なり合うように響いていた。
鈴音は、腕から流れる熱い血の感覚を頼りに、澪の細い身体を強く抱きしめていた。
アンプルの過剰な負荷によって、意識は煮えたぎる熱湯の中に沈んでいるようだった。脳を直接、冷たい針で掻き回されるような感覚。
「……、……みお……」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
抱きしめた澪の体は、驚くほど冷たかった。まるで精巧に作られた硝子の人形のように。
けれど、澪の金の瞳からは、いまだに止まることなく涙が溢れ続けている。感情を司る「羽」を失ったはずの彼女が、なぜ泣いているのか。それは魔法の理論でも、機関の計算式でも説明のつかない「バグ」だった。
「……すず、ね。……いたい、の。……ここが、……すごく……」
澪が、震える指先で自らの胸元をなぞった。
そこには、かつて「理性」や「守護」を宿していた場所だ。
本来なら何も感じないはずの空洞。そこを、鈴音の放つ「呪いのような執念」が強引に埋め、疑似的な痛みを再構築していた。
「……いいよ。……痛くても、いい。……あたしが、その痛みを全部、代わってあげるから」
鈴音は、澪の涙を指で拭った。
その指先は、アンプルの副作用で感覚を失い始めていたが、澪の頬の冷たさだけは、魂に直接刻まれるように伝わってきた。
「……あたしが、あんたの『痛み』になる。……あんたを、ただの『装置』になんかさせない。……世界なんてどうでもいい。……あたしだけを、見て……」
ポケットの中のデバイスが、鈴音の独白に応じるように、ドク、と鼓動した。
鈴音の腕の傷口から溢れた血が、デバイスの黒い表面を濡らし、複雑な回路を赤く染め上げていく。
それは魔法の起動ではない。ただの「人間」が、魔法の領域に干渉し続けるための、絶望的な抵抗だった。
その時。
漆黒の繭が、内側から優しく撫でられるようにして、音もなく裂けた。
「――あはは。素晴らしいわ。本当に、期待以上の『壊れ方』ね」
闇の切れ間から差し込んできたのは、境界空間の濁った灰色の光。
そして、銀髪を軽やかになびかせ、場違いなほど晴れやかな笑みを浮かべた少女――九条 雫だった。
彼女の背後では、紗夜が苦々しげに武器を収めているのが見えた。雫が何らかの「観測データ」を盾に、この場の戦闘を強制的に停止させたのだ。
「……九条、貴様。……この『不純物』を、野放しにするというのか」
「お姉様、落ち着いて。……彼女は今、最高に面白い『検体』なの。……魔法少女でもないのに、アンプルとデバイスの暴走だけで、あなたの黄金を食い止めた。……これ以上のデータ、他にないでしょう?」
雫は、鈴音の痛々しい腕の傷を、愛おしげに指でなぞった。
鈴音は、射抜くような視線を雫に向けるが、抗う力はもう残っていない。
「……ねえ、朝霧鈴音。……その腕、もう限界でしょう? ……アンプルの熱に焼かれて、あと数日もすれば、あなたの神経は炭になって崩れ落ちる。……『魔法少女』になれば、その苦しみから救ってあげられるけど……どうする?」
雫の手の中に、漆黒の結晶体が浮かび上がる。
鈴音は、その「誘惑」を、濁った瞳で見据えた。
「……、……いらない。……あたしは、魔法少女になんてならない。……あたしは……『人間』のまま、この痛みを持ったまま……澪を奪い返すんだから」
鈴音の拒絶に、雫は意外そうに目を丸くし、それから一層深く笑った。
「……あはは! 最高! ……そうね、まだ早いわよね。……その絶望が、もっと深く、逃げ場のない場所まで熟すのを待ってあげる」
雫が指を弾くと、世界は再び「日常」の色を取り戻し始めた。
校門前。境界空間は解け、通行人たちの雑踏が戻ってくる。
そこには、白髪の少女が、黒髪の少女を抱きしめて座り込んでいる姿だけが残されていた。
「……今日はここまで。……でも覚えておいて、鈴音。……あなたが『人間』でいられる時間は、もう、砂時計の最後の一粒くらいしか残っていないのよ?」
それだけ言い残し、雫と紗夜の気配が、人混みの中に溶けて消えていく。
鈴音は、震える手で澪を抱きしめ直した。
白くなった髪が、風に揺れる。
腕の激痛は、引くどころか、さらに深く肉体を蝕み始めていた。
けれど、澪の金の瞳が、ほんの少しだけ自分を映している。それだけで、鈴音は地獄の中でも笑うことができた。
「……今日は帰ろう、澪。」
返事はない。けれど、澪は鈴音の白髪に、そっと指を触れた。
それは、失われたはずの欠片か、それとも――
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