第5話:君が消えるまでの数分間
その夜、鈴音の自室は、月光さえも拒絶するような重苦しい静寂に満ちていた。
窓の外では、春の夜風が微かにカーテンを揺らしている。本来ならば、穏やかな眠りが訪れるはずの時間。けれど、部屋の空気は密度を増し、吸い込むたびに肺が灼けるような緊張感に支配されていた。
ベッドの端に腰掛けた一条澪は、月明かりを反射する金の瞳で、所在なげに自分の指先を見つめている。
その姿は、あまりに美しく、そしてあまりに遠い。
《守護》と《理性》という魂のバックアップを失った彼女には、もはや「昨日」と「今日」を繋ぐ感情の糸が存在しなかった。今の彼女にとって、目の前にいる朝霧鈴音は、愛する幼馴染ではない。ただ、自分の本能が「手放してはならない」と告げる、熱を帯びた執着の対象でしかなかった。
「……ねえ、澪。準備はいい?」
鈴音の声は、自分でも驚くほどかすかに震えていた。
膝の上に置いた手の中には、九条雫から渡された《感情の増幅器》がある。細い首を持つガラスのアンプル。その中で青白く脈打つ液体は、まるで命を啜る怪物の心臓のように、不気味な燐光を放っていた。
「準備……? 何の」
澪がゆっくりと首を傾げる。その動作一つをとっても、今の彼女には「理由」が必要だった。
かつての澪なら、鈴音が眉を寄せただけで「どうしたの?」と駆け寄ってくれた。雨の日に傘を忘れた鈴音を校門で一時間も待っていた時も、テストの結果が悪くて落ち込む鈴音に無言で甘いココアを差し出した時も、彼女は言葉を超えて鈴音の心を守っていた。
けれど、今の澪には、鈴音が震えている理由も、その瞳に浮かぶ悲壮な決意も理解できない。
鈴音は手の中のアンプルを見つめた。
もし、ここで踏みとどまれば。この禁忌に触れなければ、まだ普通の、色のない日常に戻れるのかもしれない。
——けれど、それは澪の心が死んだままの世界だ。そんな世界で生き延びることに、一体何の意味があるというのか。
鈴音は一瞬だけ、強く目を閉じた。
暗闇の中で、かつての澪の笑顔を思い出す。
そして、迷いを断ち切るように、親指の腹でガラスのアンプルの首を跳ね上げた。
パキリ、という硬質な音が、戻れない一線を越えた合図のように響き渡る。
鈴音は躊躇わなかった。自らの腕、浮き出た血管が痛々しい白い肌に、その鋭いガラスの断面を深く突き立てた。
「……っ、あ、あああああああ!!!」
絶叫が、喉の奥からせり上がる。
血管に沸騰した鉛を流し込まれたような、焼けるような激痛。
魔法少女ではない鈴音の肉体にとって、高濃度の魔力増幅剤はあまりに過剰な毒だった。視界が真っ白に染まり、網膜の裏側で幾千もの火花が散る。自分の内側にある「命」が、目に見えない奔流となって体外へ吸い出され、媒介となって澪へと流れ込んでいく感覚。
寿命が削れるたび、鈴音の美しい藍色の髪が、毛先から雪が積もるように、不自然な白へと褪せていく。夜の海の色をしていた彼女の証が、命の灯火と共に奪われていくのだ。
それでも、鈴音は逃げ出そうとはしなかった。薄れゆく意識の中で、彼女は必死に手を伸ばし、目の前の澪の細い肩を、壊さんばかりに強く抱きしめた。
「……鈴音……? 何、を……っ、ぐ、あ……っ!」
無機質に澄んでいた澪の表情が、劇的に歪んだ。
彼女の背後に、戦いの中で砕け散ったはずの六星羽の幻影が、鈴音の命を燃料にして、強制的に再構築されていく。
呼び戻されるのは、人としての誇り、思慮深さ、そして——鈴音を慈しむ、あまりに深い《守護》の心。
やがて光が収まり、荒い呼吸音だけが残る。
ゆっくりと顔を上げた澪の瞳には、痛切なまでの正気と、涙が宿っていた。
「……鈴音。馬鹿だよ、本当に。……何、してるの……っ」
澪の手が、震えながら鈴音の頬を包み込む。それは執着に溺れた人形ではない。鈴音の痛みを、自分のものとして分かち合おうとする、あの「一条澪」の掌だった。
「……お帰り、澪」
鈴音は床に崩れ落ちながら、必死に笑った。
澪は震える手で、鈴音の身体を抱き起こした。鈴音の重みを、鈴音の痛みを、自分のものとして分かち合おうとする、血の通った温もり。
「馬鹿だよ……どうして、こんな……。もうすぐ消えるだけの、私のために……自分の命を、こんなに……っ」
澪の瞳から、大粒の涙が零れて、鈴音の頬を濡らす。それは心が、痛烈なまでの悲しみを感じている証拠。
二人はそれから、長い間何も言わなかった。
ただ、月明かりの差し込む部屋で、互いの体温を確かめ合うように、静かに抱き合っていた。
鈴音の寿命が燃える鈍い痛みと、白く褪せた藍色の髪。そして澪の胸の奥で再び激しく脈打ち始めた「心」の音。
時計の針が刻む音さえも、今は一秒ごとに二人の命を削り取っていく贅沢な調べに聞こえた。
月明かりの下、澪の震える指先が鈴音の髪に触れた。
かつては夜の海のように深く、吸い込まれるような鮮やかさを誇っていた藍色の髪。それが今は、不吉なほどに透き通った白へと変色している。命を燃やすとは、こういうことなのだと、戻ってきた理性が残酷なまでに理解させていた。
「……鈴音。きれいな髪だったのに。……私のせいで、こんなに」
澪の声は、切実な後悔に震えていた。彼女は鈴音の白くなった髪を一房掬い上げ、慈しむように自らの額に押し当てる。その温もりは、失われていたはずの十年の重みそのものだった。
「……いいんだよ、澪。……色なんて、また染めればいいし。……それより、あたしのこと、ちゃんと見て。……今の澪の目に、あたしは映ってる?」
鈴音は弱々しく笑い、澪の頬に手を添えた。
金の瞳。そこにはもう、鈴音を「観測対象」としてしか見ていなかった冷たい硝子の光はない。痛烈な自責と、溢れんばかりの慈愛が、混ざり合って揺れている。
「……映ってるよ。……誰よりも、世界で一番、私の大切な鈴音。……ごめんね、鈴音。……独りにしちゃって。私、酷いことばかり……」
澪は、鈴音を壊れ物を扱うように、ゆっくりと、けれど二度と離さないという強い意志を込めて抱きしめた。
二人はそれから、長い沈黙に身を委ねた。
言葉を交わすのが勿体ないほどに、互いの心臓の音が重なる。
ドクン、ドクンと、不規則に脈打つ澪の「心」の音。それが、鈴音にとってはどんな音楽よりも心地よく響いた。
「ねえ、鈴音。……さっきのスケッチブック。……あの紫色の海、あの日私たちが……中二の夏に見た海とは、全然違うよ」
澪が、鈴音の耳元で囁くように切り出した。
「……え、……やっぱり、そうだよね。……あたし、思い出そうとすると、頭の中にノイズが走って……。……ねえ、本当は……どんな色だったの?」
鈴音の問いに、澪は目を閉じて、大切に仕舞い込んでいた記憶の箱を、一つずつ丁寧に開けていく。
「あの日、駅を降りた瞬間にね、潮の匂いがしたんだ。……空も海も、目が痛くなるくらいの青で。……砂浜を歩くたびに、足の裏が焼けるみたいに熱くてさ。……鈴音、覚えてる? 海の家でかき氷を買ったときのこと」
「……かき氷……?」
「そう。鈴音はブルーハワイで、私はイチゴ。……なのに、鈴音が『そっちの方が、海の色に近いよ!』って言って、私の青いかき氷を無理やり奪ったんだよ。……それで、ベロを真っ青にして笑って……。……私が呆れてると、『澪もこっちにしなよ、お揃いだよ』って、自分のスプーンで私の口に氷を押し込んできて。冷たくて、なんだか……すごく甘かった」
不意に、鈴音の脳裏に鮮やかな色彩が蘇る。
冷たくて甘い氷の感触。二人で分け合った、喉が痛くなるような青い甘さ。
「……ああ、……そうだった。……あたしたち、笑いすぎて……お腹痛いねって、言ってた気がする。……全部、嘘じゃなかったんだ」
「……そう。……それで、二人で波打ち際を歩いて。……鈴音、しゃがみこんで必死に何かを探してた。……『澪に似てるやつ、あげる』って言って、差し出してくれたのが、あの真っ白な、小さな桜貝。……透き通っていて、少しだけピンクが混じってて。……ああ、鈴音には、私はこんな風に見えてるんだなって思ったら、すごく嬉しくて、泣きそうになったんだよ」
澪は、鈴音の背中に回した手に、ぎゅっと力を込めた。
「大好きだよ、鈴音。……10年前からずっと、今日この瞬間まで。……鈴音を泣かせてまで守る世界なんて、私には……これっぽっちも、必要なかったのに……っ!」
澪の嗚咽が、鈴音の胸に響く。
その涙は、寿命を削ってでも取り戻したかった、正真正銘の「一条澪」の涙だった。
十年という歳のすべてを燃料にして、二人は今、この残酷なまでに美しい再会を噛み締めていた。
窓の外では、夜の帳がわずかに白み始めていた。
二人の影を繋ぎ止めていた青い燐光が、砂時計の最後の一粒が尽きるように、一粒、また一粒と湿った夜気の中へ溶けて消えていく。
「……あ、……パリン、て……」
鈴音の耳に、残酷な音が届いた。
澪の背後。鈴音の命を燃料にして、無理やりその輪郭を保っていた六星羽の幻影が、耐えきれなくなった硝子細工のように、端から乾いた音を立てて砕け散っていく。
それは、澪の「心」がもう一度死にゆく音だった。
一欠片が弾けるたびに、澪の瞳から鮮やかな光彩が失われ、深い霧のような空虚が侵食していく。幸福な対話の時間は、無慈避なカウントダウンへと姿を変えた。
「……時間が、ないみたい。……鈴音、こっち向いて」
澪が、震える指で鈴音の顎をそっと持ち上げた。
寿命を数年分も削り取られた代償で、鈴音の視界は酷く霞んでいた。まるで厚い膜を張られたかのように、世界が遠い。自分の藍色の髪が、不自然な白へと褪せてしまったことも、今の彼女にはぼんやりとした色の混濁としてしか捉えられなかった。
「……行かないで。……まだ、行かないで、澪。……あたし、まだ……何も、返せてない……っ」
鈴音は、力が入らない指先で、必死に澪の制服の胸元を掴んだ。
指が震える。感覚が遠のく。
戻ってきた《理性》が、そして鈴音を狂おしいほどに愛する《守護》の心が、またあの熱量のない奈落の底へと引きずり戻されようとしている。
「鈴音。……最後にあの日、海で言えなかったこと……言わせて」
澪の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
それは、奪われる直前の、世界で一番「痛い」幸せ。
「……君が私を忘れても。私が私じゃなくなっても。私は、何度だって君を選ぶよ。……10年前も、あの日も。……そして、明日からも」
重なり合った唇から、鈴音の削り取られた命が、そして澪の取り戻した心が、溶け合うように混ざり合う。
それは、10年間のすべてを薪にして燃やし尽くすような、激しく、痛切な、永遠の誓い。
——パリン、パリン。
決定的な崩壊の音が、立て続けに部屋に響いた。
最後の一枚の羽が結晶の塵となって消えた瞬間、澪の体がびくりと跳ね、そして完全に弛緩した。
鈴音の肩に顔を埋めたまま、彼女は動かなくなる。
「……澪?」
恐る恐る、鈴音がその名を呼んだ。
数秒の、永遠にも等しい沈黙。
やがて、澪はゆっくりと顔を上げた。その瞳からは、先ほどまで世界を慈しみ、鈴音を想っていた鮮やかな光が完全に消え失せ、また底の見えない深い霧のような、空虚な凪が戻っていた。
「……鈴音。どうして、泣いてるの? 身体が、すごく冷たいよ。……横になったほうがいい。安静を推奨するわ」
戻ってきたのは、熱を失った、静かすぎるあの声だった。
先ほど分かち合った「ブルーハワイのかき氷」の甘さも、「桜貝の記憶」も。今の澪にとっては、また実感を伴わない、外部データのログへと戻ってしまったのだ。
「……あ、は……。……あはは……っ」
鈴音は、力なく笑った。
あれほど求めた「本物」は、夜風のように通り過ぎ、あとにはひどく冷えた部屋と、真っ白に染まってしまった自分の髪だけが残された。
しかし。
鈴音は、澪の冷たい手に、自分の手を重ねた。
理性のない澪は、もう鈴音の与える「正解」を拒むことができない。彼女には、それが嘘か誠かを見分ける基準すら存在しないのだ。
「いいんだよ、澪。……あたしたち、あの日……海でね、約束したんだよ」
鈴音は、白髪の混じった頭を澪の胸に預け、恍惚とした表情で嘘を紡ぎ始める。
「『鈴音は一生、私の所有物だよ』って、澪が言ったんだ。……あたしを、一生離さない。誰にも渡さないって。……覚えてる?」
「……そうなの?」
澪は、虚空を見つめながら、その言葉を反芻するように呟いた。
彼女には、その言葉を否定する心も、疑うための記憶の熱量も、もう残っていない。鈴音がそう言うのなら、それが「今の自分」を定義する唯一の、絶対的な破片になる。
「……うん。鈴音がそう言ったのなら、きっとそうなんだね。……私のなかに、その言葉を否定するものは、もう何もないから。……鈴音が私の本当になってくれるなら……私は、それでいい」
澪の無機質な指が、鈴音の白い髪をゆっくりと、機械的に撫でる。
そこに愛はない。かつての《守護》の熱もない。けれど、そこには絶対に壊れることのない、拒絶されることもない「執着」だけが固定されていた。
鈴音の唇が、暗がりのなかでゆっくりと歪んだ。
視界は霞み、寿命は尽きかけている。けれど、彼女の心は、かつてないほどに昏い多幸感で満たされていた。
(——これでいい。……これで、いいんだ。……澪は、もうどこにも行けない。あたしだけの、あたしだけのもの。……一生、離さないよ)
窓の外、夜が明けていく。
自らの命を薪にして、嘘を本物に変えた鈴音。
自らの心を削り、ただの器へと成り果てた少女。
二人の歪な物語は、ここから「救済」という名の「独占」へと、さらなる深淵に向けて加速していく。
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