第3話:上書きのキスは、忘却の味がする
世界から、少しずつ「理由」が消えていく。
翌朝、一条澪が目を覚ましたとき、最初に感じたのは視界の違和感だった。
カーテンの隙間から差し込む光は、昨日よりも白く、刺すように鋭い。机の上に置かれた教科書も、壁に掛けられた制服も、それらが「何のためにそこにあるのか」という情報の紐付けが、古い粘着テープが剥がれるように、音もなく脱落していた。
(……これは、服。……これは、紙の束)
昨日の戦闘で《六星羽》の一枚、――「理性」を司る羽が砕け散った代償だ。
論理的な思考、事象の前後関係、そして「目的意識」。それらが欠落した澪にとって、世界はただの無機質なオブジェクトの羅列へと成り下がっていた。
淡い金の瞳で鏡を見る。
そこに映る少女が「自分」であることは認識できる。だが、なぜ自分が学校へ行かなければならないのか、なぜこの心臓が動き続けているのか。その根源的な「なぜ」が、霧の向こう側へと消えていた。
ただ一つ、脳の奥底に刻まれた強制命令だけが、彼女を動かす。
『――適合者、一条澪。日常を維持せよ。』
黒星機関からの、冷徹なプログラム。
澪は、人形のような正確さで制服に袖を通した。その指先が、ボタンを留める際にわずかに震えた。理由のない震え。合理的な解釈を拒むその小さな痙攣を、今の彼女は「バグ」として無視するしかなかった。
一方、朝霧鈴音は、自室のベッドの上で膝を抱えていた。
その手の中には、温室で拾った黒い通信端末がある。本来、魔法少女を管理・観測するためのデバイス。一般人が触れれば、それだけで「汚染」される危険のある禁忌の道具だ。
「……っ、はぁ、はぁ……」
端末の液晶から漏れ出す、どろりとした紫色の光が、鈴音の翡翠の瞳を怪しく照らしている。画面には、理解を超えた文字列が高速で流れていた。
――《星魂》の損耗率、82%。
――第ニ魂片「理性」の完全消失を確認。
――第三段階:装置化への移行プロセスを開始。
「装置……? 何よ、これ。澪は、人間だよ。あたしの、大事な……」
鈴音の指が、画面に映る「一条澪」という文字をなぞる。
端末を通じて流れ込んでくるのは、黒星機関が隠蔽してきた「魔法少女の真実」だった。
彼女たちは、世界を維持するための生贄に過ぎない。感情という高エネルギーを燃やし尽くし、最後には自我を失った「星核」という名の永久機関へと成り果てる。
「ふざけないで。勝手に決めないでよ」
鈴音の胸の奥で、真っ黒な感情が渦を巻く。
それは愛などという綺麗な言葉では括れない。自分を置いていこうとする世界への怒り、そして、自分を「石ころ」だと断じた澪を、力ずくで自分だけの場所に繋ぎ止めておきたいという、底なしの独占欲だ。
「……あたしが、書き換えてあげる。世界なんてどうでもいい。……澪を壊すのがこの世界なら、あたしが、その『理』を食い破ってやるから」
鈴音が端末の「承認」ボタンを強く押し込んだ瞬間。
彼女の指先の傷口から、端末へと赤い血が吸い込まれていく。
それは、ただの少女が「観測者」を超え、システムのバグ――「執着の共犯者」へと堕ちた瞬間だった。
登校中の並木道。
澪は、いつものように自分の隣を歩く鈴音を、横目で眺めていた。
「ねえ、澪。今日の空、すっごく青いね」
鈴音が、いつものように笑いかけてくる。
けれど、澪には分かっていた。鈴音の笑顔の端々が、まるで壊れた映像のように僅かに震えていることを。そして、彼女から漂う匂いが、昨日までの「日向のような香り」から、焦げ付いた金属のような、不吉な臭気へと変わっていることを。
「……そう。青い、という波長の光が、散乱しているわ」
澪の返答は、あまりに情緒に欠けていた。
以前なら「綺麗だね」と微笑み返し、手を繋いだはずの場面。だが今の澪には、「空が青いこと」と「自分が幸福を感じること」の間に、論理的な繋がりを見出せない。
「……あはは、相変わらず理屈っぽいなぁ。でも、いいよ。澪がそこにいてくれるなら、あたし、何だっていい」
鈴音の手が、澪の左手に伸びる。
躊躇いなく、指を絡める。その握力は、骨が軋むほどに強かった。
「……鈴音。痛い。……離して」
「ダメ。離さない。……絶対、絶対に離さないからね」
鈴音の翡翠の瞳が、至近距離で澪を捉える。
そこにあるのは、かつての献身的な幼なじみの眼差しではない。獲物を檻に閉じ込め、二度と外の世界を見せないと誓った、捕食者の輝き。
澪は、その瞳の奥に宿る「何か」に、言い知れぬ違和感を覚えた。
澪の瞳が、一度だけ、迷うように瞬いた。
理性を失った彼女には、それが「恐怖」なのか、あるいは「未知への興味」なのかすら判別できない。ただ、絡められた指先から伝わってくる、熱いほどの執着。それだけが、色の消えゆく世界の中で、唯一鮮烈な「現実」として澪の皮膚を焼いていた。
(……鈴音は、なぜ私を離さないの?)
その問いへの答えは、すでに彼女の魂から削り取られている。
理解できないまま、二人は燃えるような朝の光の中を、崩壊へと向かって歩き出す。
繋いだ手のひらから伝わってくる、鈴音の異様な熱。
それを「不快なノイズ」として処理しようとした瞬間、澪の脳内の深い場所で、古い記録媒体が無理やり再生されるような、激しい火花が散った。
(……これは、何?)
視界が白く爆ぜる。
並木道の緑が、一瞬にして夕暮れ時の琥珀色に染まった。
――十年前。
まだ「魔法少女」なんて言葉も、世界を維持するための「代償」なんて概念も知らなかった頃。
七歳の澪と鈴音は、放課後の誰もいない公園の隅で、雨上がりの湿った土の匂いを嗅いでいた。
『……澪、もう帰っちゃうの?』
鈴音が、澪の袖を小さな手で掴んでいた。
当時の鈴音は今よりもずっと泣き虫で、それでいて、一度掴んだら絶対に離さないという、剥き出しの独占欲をすでにその翡翠の瞳に宿していた。
『ううん。鈴音が離してくれないなら、ずっとここにいるよ』
幼い澪は、困ったように、けれどこの世で最も大切な宝物を眺めるような目をして笑った。
今の金の瞳とは違う、温かな陽だまりのような琥珀色の双眸。
澪は、泥で汚れた鈴音の頬を、自分の指で優しく拭った。
『ねえ、澪。……約束して。あたしのこと、一人にしないで。大人になっても、おばあちゃんになっても、ずっとあたしの隣にいて。……あたしのこと、絶対に忘れないで』
それは、子供特有の無邪気で、残酷なほど重い契約だった。
鈴音にとっての世界は、その頃からすでに一条澪という太陽を中心に回っていたのだ。
『うん。約束するよ。わたしが、鈴音をずっと守ってあげる。……もし世界中の人が鈴音のことを嫌いになっても、わたしだけは、鈴音の味方でいるから』
澪は、自分の小指を鈴音の前に差し出した。
小さな、けれど確かな温もりを持った二人の指が絡まる。
『指切った。……嘘ついたら、針千本。……あと、あたしのこと忘れたら、あたしが澪を食べてあげるからね』
冗談めかして笑う鈴音。
その時の澪は、ただ幸せそうに頷いていた。
自分が守るべき「幸せ」という定義が、この少女の笑顔であると、当時の彼女は魂の芯から理解していた。
――刹那、記憶の断片は硝子細工のように砕け、現在へと引き戻される。
「……っ」
澪は、繋がれた手を反射的に振り払おうとした。
今の彼女にとって、先ほどの記憶は「論理性の欠如した、非効率なノイズ」に過ぎない。
「守る」という言葉の意味も、「味方でいる」という誓いの理由も、すでに羽と共に砕け散っている。
「……澪? どうしたの、急に立ち止まって」
鈴音が、不安げに首を傾げる。
その翡翠の瞳には、先ほどの回想の中の少女と同じ、深い飢餓感が潜んでいた。彼女は、澪が自分のことを「忘れていく」ことを、本能的に察している。だからこそ、その空白を埋めるように、さらに強く、さらに深く、呪いのような執着を注ぎ込もうとする。
「……何でもない。ただ、古い記録が再生されただけ」
「古い記録? ……あたしとの、約束のこと?」
鈴音の顔が、わずかに歪んだ。
「記録」という言葉。それは、もはやその記憶に「感情」が伴っていないことを冷酷に示していた。
「……覚えてるよ。あたしも、あの日のこと。……澪、あんたはあたしに言ったんだよ。『ずっと守ってあげる』って。……忘れたなんて、言わせないから」
鈴音の声が、湿り気を帯びて低くなる。
彼女は、澪の左手首に嵌められたブレスレット――《黒星機関》の呪縛を、射抜くような目で見つめた。
「世界が、そのブレスレットが、あんたからあたしを奪うっていうなら。……あたしが、その約束、書き換えてあげる」
鈴音のポケットの中で、禁忌の端末が熱を帯びる。
彼女が選んだのは、澪を救うことではない。澪を、自分なしでは生きられない「壊れた人形」にしてでも、自分の手元に留め置くという、地獄のような愛の形だった。
「……行こう、澪。予鈴が鳴るわ」
澪は、鈴音の言葉の真意を計りかねたまま、再び歩き出す。
――かつて交わした、純粋な指切り。
それが今、世界を蝕む「呪い」へと反転していく。
校舎の屋上から、九条雫がその光景を冷ややかに見下ろしていた。
彼女の背後で、《氷鏡輪》が不吉な音を立てて共鳴する。
「……壊れ始めているわね。あの子と、兵器。……不純な結びつきは、破滅を招くだけなのに」
その日の放課後。世界が再び、微かな震えを見せた。それは、次の「代償」を求める、境界空間の胎動だった。
終わりのチャイムは、断頭台の鐘の音に似ていた。
教室の窓ガラスが、内側から沸騰するように歪み始める。色彩が抜け落ち、どろりとした紫の闇が床から這い出してきた。
「……っ、あ、が……っ!!」
鈴音は、その場に膝をついた。
肺に流れ込む空気は、焼けた鉄の味がする。ただ立っているだけで、内臓を直接掻き回されるような圧迫感が鈴音を襲う。
『――緊急事態。適合者、一条澪。直ちに《星核》を励起せよ』
黒星機関の通信が空間を震わせる。
澪は変身を完了させた。だが、その動きは昨日よりもずっと危うい。
「理性」を欠いた彼女には、迫りくる巨大な《影》が、なぜ自分を殺そうとしているのかという「因果」が理解できない。防衛本能という回路を物理的に削り取られた彼女は、トドメを刺されるその瞬間まで、ただの観測者としてそこに立ち尽くそうとしていた。
「澪……! 逃げて……! お願い、逃げてよ!!」
鈴音の叫びは、猛烈な突風にかき消される。
鎌が鋭く回転した。影が空気を裂く。
白金の羽がギリギリで弾かれ、澪の華奢な肩が浅く切り裂かれた。鮮血が舞い、羽の一枚に硝子が砕けるような鋭い亀裂が走る。
(やだ……やだ、やだ! 澪が、壊れちゃう……!)
鈴音は半狂乱で、ポケットの中の黒い端末を掴み出した。
「何でもいい……あたしの何かをあげるから!! 澪を……澪を助けて!!」
デタラメに画面を叩く。指先が割れたガラスで血を零す。
その「執着」に、端末がどろりとした黒い光を放ち、鈴音の翡翠の瞳を焼き焦がした。
『――緊急プロトコル:身代わり譲渡を受理。……代償:過去記録、セクターD-12の消去』
鈴音の脳に、熱い針を刺されるような激痛。視界が白く爆ぜ、自分の中から「ナニカ」が強引に引き抜かれる感覚。
「あ、が……あぁぁぁぁぁっ!!」
鈴音の体から溢れ出した光が、澪のブレスレットへと流れ込む。
空中で巨大な盾が展開され、鎌を真っ向から弾き飛ばした。澪の金の瞳が、理解できない事象を前に、かすかに揺らぐ。
「……魔力、急速充填。……攻撃プロセス、再開」
供給されたエネルギーを燃料に、澪の羽が黄金に輝く。
一閃。
影は断末魔すら上げず塵へと還り、境界空間が霧散していく。
気がつくと、世界は静かな夕暮れの教室に戻っていた。
澪は変身を解き、少しだけ呼吸を乱して立っている。その足元に、鈴音は糸の切れた人形のように倒れ伏していた。
「……鈴音。今の攻撃、あなたの端末が……」
「……あは、は……。……助かった、んだよね……? 澪……」
鈴音は、這いずるようにして澪の制服の裾を掴んだ。
顔色は土色になり、鼻からは一筋の血が流れている。けれど、その瞳には愛する人を守り抜いた安堵の光が宿っていた。
「……ええ。驚異的な出力だったわ。……あなたのバイタルに異常はないけれど」
澪が、ゆっくりと鈴音の前にしゃがみ込む。
その指先が、震える鈴音の頬に触れた。
「……何か、忘れていることはない?」
「え……? ……何、それ。……あたし、大丈夫だよ。……ちょっと、頭がぼーっとするだけ……」
鈴音は笑おうとした。
けれど、ふと、意識の底にぽっかりと開いた「穴」に気づいた。
(……あれ? あたし、さっきまで何を考えてたんだっけ?)
中学二年の、あの暑い夏の日。海辺で澪と二人、アイスを分け合いながら交わした、あの大切な約束。
その光景が、まるで古びた写真が燃えるように、真っ白な灰になって消えていく。
「……う、そ……? ……あ、あたし……何、を……」
思い出せない。何を失ったのかすら、思い出せない。
ただ、胸の奥にひどい「喪失感」だけが残り、冷たい風が吹き抜けていく。
「……鈴音? 涙が出ているわよ。……痛み、があるの?」
澪の問いかけに、鈴音は応えられなかった。
感情を失い、不思議そうに自分を覗き込む「現在の澪」。
彼女を守るために、自分は「過去の澪」との思い出を、自らの手で燃やしてしまったのだ。
「……バカ。……何でも、ないよ……」
鈴音は、澪の細い首を、折れんばかりに抱きしめた。
記憶が消える。思い出が消える。
いずれ、澪のことも思い出せなくなる日が来るのかもしれない。
その恐怖を打ち消すように、鈴音は腕の中の熱を、もっと深く求めた。
「……ねえ、澪。……あたしのこと、見て」
「見てるわ。……網膜には、あなたの姿が投影されている」
どこまでも無機質な、鏡のような金の瞳。
そこに映る自分は、ひどく惨めで、狂気じみた顔をしていた。
「……違う。そうじゃない。……あたしを、刻み込んで」
鈴音は、澪の頬を両手で挟み込み、強引にその顔を引き寄せた。
驚きすら見せない澪の唇に、鈴音は自分の唇を、叩きつけるように重ねた。
「……っ、ふ……」
柔らかな感触。けれど、そこには「愛」への反応は一切ない。
澪の口内は、驚くほど冷えていた。
今のキスは、鉄と、乾いた硝子と、忘却の味がした。
「……鈴音。これは、何の意味を持つ行動?」
唇が離れても、澪は瞬き一つせず、事務的な疑問を口にする。
その残酷な問いに、鈴音は歪んだ笑みを浮かべ、再び澪を抱きしめた。
「……意味なんて、なくていい。……あんたが忘れていくなら、あたしが、新しい記憶を無理やり上書きしてあげる。……今のキスも、この熱も、……あたしの名前も」
鈴音は澪の耳元で、呪いのように囁く。
鈴音の翡翠の瞳に、どろりとした執着が澱のように沈んでいった。
「……忘れても、いいよ。……あたしが、また何度でも、……あんたに恋をするだけ、だから……」
君が私を忘れるたび。
あたしも、あたしを削って、君に堕ちていく。
それは救いなどではない。
忘却の果てで待ち受ける、二人の壊れた「愛」の始まりだった。
夕闇の沈む教室。
鈴音のポケットの中で、黒い端末が、役割を終えたばかりの熱を帯びたまま、弱々しく、けれど脈打つように点滅を繰り返していた。
その光は、鈴音の左目に、わずかな色彩の欠落を招いていることを、彼女はまだ、気づいていない。
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