第2話:あなたを守るたび、あなたが遠い
朝の教室。
鈴音の視界に映る澪の横顔は、昨日よりもさらに透明度を増しているように見えた。
(……ねえ、澪。今、何を考えてるの?)
喉まで出かかった問いかけを、鈴音は飲み込んだ。
聞くのが怖かった。もし「何も考えていない」と、あの無機質な声で返されたら。その瞬間、自分の中の何かが決壊してしまう気がしたから。
鈴音は、購買で手に入れたばかりの、澪の好物だったはずのデニッシュを机に置いた。
「ほら、澪。これ、好きでしょ。あたし、並んで買ってきたんだから」
努めて明るく、押し付けがましいほどの熱量で話しかける。
澪は、置かれたデニッシュをじっと見つめ、それから鈴音の翡翠の双眸に視線を移した。そこに宿る熱を、検品でもするかのように淡い金の瞳がなぞる。
「ありがとう。……でも、今はいいわ。必要ない」
「……『今はいい』って、一口も食べないの? あたし、並んだんだよ?」
「サプリメントで必要な栄養は摂取した。……鈴音、そんなに必死にならなくても、私はここにいるわ」
「ここにいる」
その言葉が、鈴音には呪いのように響いた。
肉体はここにある。けれど、鈴音の「大好き」に反応していた澪の心は、もうそこにはいない。
(違う。あたしの欲しい澪は、そんな機能的なこと言わない……!)
鈴音はデニッシュの袋を、指が白くなるほど強く握りしめた。
澪の手が、自分の震える手に伸びる。慰めかと思いきや、彼女はただ、邪魔なデニッシュを机の端へ除けただけだった。
放課後。
澪は、黒星機関の使者に導かれるように、旧校舎の裏手にある温室へと向かった。
そこには、冷気そのものを纏ったような少女、九条 雫が待っていた。
雫は、銀髪を揺らし、氷青の瞳で澪を射抜く。
「損耗が進んでいるわね。一条澪、あなたは『守護』の羽を捨てた。それは兵器として、正しい進化よ」
「……進化」
「ええ。情愛なんて、魂を不純にするノイズでしかない。見てなさい、これが『効率的』な戦いよ」
雫の背後で、《氷鏡輪》が静かに、そして鋭利に回転する。
その光景に、澪が吸い込まれるように一歩踏み出した――その時。
「――ふざけないでよ」
温室の入り口。
隠れてついてきていた鈴音が、震える声で、けれど明確な殺意を込めて割り込んだ。
「鈴音……? どうしてここに」
「どうして、じゃないよ! ……あんた、誰? 澪に、変なこと吹き込まないで」
鈴音は澪の前に立ちはだかり、自分より背の高い雫を、翡翠の双眸で睨みつけた。
その瞳は、今にも涙が零れそうでありながら、獲物を決して逃さない猛獣のような光を宿している。
「あら。これが『ノイズ』の正体ね」
雫は、鈴音を人間としてすら見ていない冷徹な視線で切り捨てる。
「一条澪。この個体を石ころだと思いなさい。そうでなければ、あなたは次の戦いで、さらに多くの羽を失うことになる。……自分を愛さない相手に執着されるのは、効率が悪いでしょう?」
「だまれ……」
鈴音の拳が震える。
澪が、自分を「石ころ」だと思う。その可能性を突きつけられた瞬間、鈴音の中で、愛情の裏側に潜んでいた真っ黒な独占欲が鎌首をもたげた。
「澪を兵器にするって言うなら……あたしが、あんたの鏡、全部割ってあげる」
魔法も、武器も持たない「ただの少女」が、世界のシステムそのものである魔法少女に宣戦布告する。
その歪な百合の熱に当てられたように、温室の空気が爆ぜた。
不意に、大気が震えた。
温室のガラスが悲鳴を上げ、視界の端から色彩が剥がれ落ちていく。紫色の澱みが、現実を蝕むように浸食し始めた。
『――検知。高エネルギー反応、座標B-14。一条澪、九条雫。直ちに出撃せよ』
脳内を直接掻き回す機械音声。
澪の左手首のブレスレットが、逃げ場を塞ぐように強く発光する。
「……行くわよ、一条澪。不純物を引きずるのは、そこまでになさい」
雫は冷徹に言い放ち、一歩踏み出した。その足跡からは、すでに現実の土の匂いが消え、凍てついた異界の氷が這い出している。
「待って、澪! 行かないで!」
鈴音が、澪の腕を必死に掴んだ。
その翡翠の双眸には、行けばもう「今以上の何か」を失ってしまうという、本能的な恐怖が滲んでいる。だが、変身の予兆である《星魂》の励起は、物理的な質量となって鈴音の手を弾き飛ばした。
「……ごめん、鈴音」
その謝罪に、以前のような痛みはこもっていない。ただ、離脱を円滑にするための「手続き」として発せられた言葉。
光が溢れ、二人の魔法少女は現実の裏側――境界空間へと「墜ちた」。
境界空間は、吹雪いていた。
雫の魔力が干渉しているのか、空は鈍色に凍りつき、地面からは巨大な氷の結晶が牙のように突き出している。
今回の敵は、半透明のクラゲのような形状をした、不定形の「影」。それが数十、数百という群れを成して、二人の少女を包囲していた。
「見てなさい。これが無駄を省いた『掃除』よ」
雫が指を鳴らす。
背後に浮遊する六角氷板――《氷鏡輪》が、幾何学的な陣形を組み、空中で固定された。
「《氷鏡輪》、反射光軸展開。――撃ち抜いて」
雫の手のひらから放たれた一筋の冷気の光が、一枚の鏡に反射し、次々と連鎖していく。
光は鏡から鏡へと飛び火するたびに増幅され、最終的には数百のレーザーとなって空間を埋め尽くした。
「影」たちは、悲鳴を上げる暇もなく、精密な幾何学模様に切り刻まれ、凍りつき、砕け散っていく。
「……すごい」
澪は、その光景を呆然と眺めていた。
自分の《六星羽》による戦いは、感情の昂ぶりに依存した、泥臭い命の削り合いだ。けれど雫の戦いは、冷徹な計算と、徹底的に排された「情」による、完成された作業だった。
「感傷に浸っている暇はないわ。一条澪、次はあなたの番よ。……あの大型を、最大効率で処理しなさい」
雫が指し示した先。空間が裂け、群れを統率する巨大な影が出現した。
澪は背後の五枚の羽を展開する。
「理性」「嫉妬」「執着」「恐怖」「愛情」。
欠けた一枚の穴から、冷たい風が吹き抜ける。
(……効率。ノイズを、消す……)
澪は、脳裏に浮かび上がる鈴音の泣き顔を、意識的に押し殺した。
雫のように、ただの「個」になれば、この内臓を焼かれるような矛盾した感覚から解放される。
彼女は、残された羽のうち「理性」と「恐怖」を連動させた。
死への恐怖を燃料に変え、理性の冷徹さで出力を制御する。
白金のブレードが、影の核を正確に貫いた。
手応えはない。ただ、効率的に「作業」が完遂されたという、乾燥した満足感だけが脳を満たす。
「……いいわ、一条澪。あなた、ようやく『兵器』の顔になってきたじゃない」
雫の賞賛は、呪詛のように澪の心に突き刺さった。
その頃、現実の温室。
一人残された鈴音は、崩れ落ちたまま、自分の手のひらを見つめていた。
そこには、弾き飛ばされた時に負った、小さな切り傷。
(……痛くない。これくらい、全然痛くないのに……)
翡翠の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
澪がいなくなった後の空間は、まるで世界の半分が消えてしまったように寒かった。
「……あたしを、ノイズだって言った」
鈴音は、震える手でブレスレットが嵌められていた澪の腕の感触を思い出す。
世界が澪から感情を奪い、兵器に変えていくというのなら。
「……なら、あたしが、その世界を壊してやる」
鈴音の瞳に宿ったのは、もはや正気の色ではなかった。
彼女は、温室の隅に落ちていた、雫が落としたと思われる黒星機関の通信端末を拾い上げた。
「あたしは、澪がいない世界なんていらない。……たとえ澪が、あたしの名前を忘れたって……あたしだけは、あんたの首輪を離さないから」
鈴音の翡翠の双眸に、どろりとした執着が澱のように沈んでいく。
それは、救いという名の破滅への第一歩だった。
境界空間が霧散し、夕闇の迫る温室へと二人は帰還した。
雫は息一つ乱さず、冷徹な所作で変身を解除する。一方、澪は膝をつき、激しい眩暈に襲われていた。
「……合格よ、一条澪」
雫は満足げに、澪の背中に視線を投げる。
残された五枚の羽のうち「理性」を司る一枚が、不自然なほどの輝きを放ち――直後、乾いた硝子が砕けるような音が温室に響いた。
澪の視界から、青い色が抜け落ちる。
世界を繋ぎ止めていた論理の糸が、一本、また一本と、音もなく断ち切られていく。
「さあ、戻りなさい。……その石ころが、まだそこで泣いているわよ」
雫は嘲笑を残し、影に溶けるように立ち去った。
静まり返った温室。土の匂いと、生ぬるい空気。
澪が顔を上げると、そこには立ち尽くす鈴音の姿があった。
「……鈴音」
澪が呼びかける。その声に、もはや「意味」を乗せることはできない。
自分を蝕んでいた葛藤も、鈴音への微かな申し訳なさも、今、抜け落ちた色の向こう側に消えていった。
「澪。……おかえり」
鈴音が、一歩、歩み寄る。
その翡翠の双眸は、先ほどまでの弱々しい光を捨て、どろりとした執着を宿していた。
「……離して。熱いわ、鈴音」
「離さないよ。……絶対に」
鈴音の指が、澪の髪に絡みつく。執拗に、逃がさないように。
澪は、その接触に何の感情も抱けなかった。ただ、皮膚に押し付けられる熱を、不快なノイズとして処理する。
「あなたのこういうところが、非効率なの。……分かっている? 鈴音」
「効率なんて、どうでもいい」
鈴音は、手の中で青白く点滅する機関の端末を、澪の視界に突きつけた。
禁忌。破滅。その通信端末が意味する絶望を、彼女は理解してなお、甘く笑った。
「澪が、あたしを『石ころ』だって思うなら。……あたしは、あんたを一生離さない『重荷』になってあげる」
鈴音は澪の首筋に顔を埋め、深く、深く、その香りを吸い込んだ。
震える腕で、澪の細い体を、折れんばかりに抱きしめる。
自分がなぜ鈴音を拒絶していたのか、その「理由」すらもはや思い出せない。
ただ、自分を締め上げるこの少女の、狂おしいほどの心音だけが、空っぽになった澪の檻に響き渡っていた。
君が私を忘れるたび。
あたしは何度でも、君の檻になる。
夜の温室に、少女の歪な息遣いだけが、いつまでも溶け残っていた。
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