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第二章 二節 懐柔


 家族の視線を背に受け、雛が自室に戻ってから数刻。扉が乱暴に開かれた。

 入ってきたのは侍女長のエレンだ。彼女の手には、食卓での指示通り、まともな温かい食事が載ったトレイがあった。

 だが、エレンはトレイを乱雑に机に置くと、鼻で笑って雛を睨みつけた。

 

「……満足ですか、お嬢様。旦那様の前で少し知恵が回ったからといって、調子に乗らないことです。私たちが面倒を見なければ、貴女は着替え一つできない『気味の悪い子供』に過ぎないのですから」

 

 食堂での平伏はどこへやら、エレンはいつもの嫌味たらしい態度に戻っていた。

 雛が何も言わずに食事を見つめていると、エレンはさらに言葉を重ねる。

 

「さぁ、冷めないうちに召し上がれ。……まぁ、魔女のお嬢様には口に合うかもわかりませんが。毒でも入っていた方がお口に合うかもしれませんけれど?」

 (きぃぃ!忌々しい!皆の前で恥をかいた。なぜあの場で名指しされねばならないのか)


 エレンは心の中で文句を言い始める。

 雛にはその心の声がなぜか聞こえていた。心の声に集中していたらエレンがまた話しかけてきた。


「お嬢様、早くお食べになってください。後の仕事がひかえてますゆえ」

 (早く食べなさいよ!せっかく手に入れた毒をいれてやったんだから。魔女なんだから毒なんて平気でしょ?どんな反応するか楽しみ……結果はあの人にも伝えなきゃ)


「……」(毒か……)


 毒なんて無縁すぎてどうしたらよいものか?と悩んでいるとルルが話しかけてきた。


 (雛、モルガンには毒は効かないよ。魔女であるからというのもあるけど……そもそもスープに入っているのは毒なんかじゃなくて睡眠薬だよ。それも効かないけどね)


 睡眠薬。何のためにいれたのか?気にはなった。

 少し考える……。すると頭に浮かぶ密会の場面…。

 

 雛はゆっくりと顔を上げた。その紫の瞳が、静かにエレンを射抜く。

 

「エレン。私に毒を勧めるなら、まずはあなたがその身で『安全性』を証明すべきではないかしら」

 

「は? 何を言って――」

 

 雛は淀みのない動作で立ち上がると、トレイに乗っていたスープを一口、エレンの口元へ突き出した。

 

「飲みなさい」

 

「……っ、何をするのです! 離して!」

 

「あら、毒など入っていないのでしょう? だったら飲めるはずだわ。それとも……ワイン蔵で衛兵隊長と密会していたときのように、口を閉ざすのがお上手なのかしら?」

 

 エレンの顔から、一瞬で血の気が引いた。

 

「な、何を……」

 

「隠しても無駄よ。あなたの指先に残る、隊長が好む質の悪い煙草の匂い。そして、その首筋にあるあざ。……我が家は使用人間の密会は禁止よね?お父様が知れば、あなたは舌を抜かれて追放、彼は絞首刑かしらね」

 

 雛の声は、感情を排した機械のように冷たかった。

 過去、使用人達の暗殺計画が発覚して以来、どんな理由であれ密会したものは相応の罰を受けることになっている。エレンと隊長は何度も密会をしている上に、雇い主であるゴルロイスの娘に毒を盛ろうとした疑惑まである。厳しい処罰からは逃れられないだろう。

 エレンはガタガタと震え出し、その場に崩れ落ちた。自分より遥かに小さな子供に、逃げ場のない「真実」を突きつけられた恐怖。

 

「わ、私は……」

 

「いい? 私はあなたの私生活に興味はないわ。ただ、私に牙を向くことだけは許さない。……エレン。命が惜しいなら、今日から私の『犬』になりなさい。城内の噂、父の動向、母の企み……すべてを私に報告するの。そうすれば、あなたの不潔な秘密は守ってあげるわ」

 

 雛は震えるエレンの顎を指先でクイと持ち上げた。

 

「……返事は?」

 

「は、はい……! お申し付けの通りに……っ!」

 

 エレンが涙を流して床に額を擦り付ける。

 雛はその背中を見下しながら、冷めたスープを口にした。

 

(まずは足場を固める。次は、あの無能な父を『便利な神輿』に仕立て上げなくてはね)

 

 翌日から、雛はエレンを通じて父ゴルロイスへ、一通の書状を届けさせた。

 そこには、北の部族との境界争いを終結させるための「現代的な交渉術」と、領内の鉱山から得られる利益を倍増させるための「物流の効率化」について、子供の遊びとは思えない精緻な計画が記されていた。

 ゴルロイスは書状をみて驚く。書状の通りにすれば、あらゆる悩みからも解消される。だが、やはりあの娘が書いたとは思えず、静観していた。

 

 数日後。

 再び書状が届く。

 以前書いたものより更に具体的でかつ素晴らしい内容だった。これは無視できないと感じたゴルロイスは娘の部屋へ向かった。


 

 雛の自室の扉を叩いたのは、侍女ではなく、困惑と期待を顔に張り付かせた父・ゴルロイス本人であった。


 モルガンの自室。これまで「離れの塔」に近い冷遇を受けていたこの部屋に、公爵家当主であるゴルロイスが自ら足を運ぶなど、前代未聞のことだった。

 雛は優雅に椅子に座り、卓上に広げた領地の地図を指先でなぞっている。その傍らには、エレンが淹れたばかりの最高級の茶が湯気を立てていた。

 

「……モルガン。この書状に書かれた『兵站の再編』と『関税の引き下げによる物流の誘致』。……これを本当に、貴様が考えたというのか」

 

 ゴルロイスの声は震えていた。怒りではない。己の窮地を救う、信じがたい「知恵」への戦慄だ。

 

「ええ。子供のたわごとだとお思いでしたか?」

 雛は地図から視線を上げず、淡々と続けた。

 

「お父様。コーンウォールは武力で勝る必要はありません。北の部族には交易の利権を握らせ、経済的に貴方へ依存させればいいのです。血を流さずに首輪を嵌める……。それが真の統治ではありませんか?」

 

「……っ」

 

 ゴルロイスは言葉を失い、食い入るように地図を見つめる。彼は、目の前の娘がもはや「不気味な子供」ではなく、自分を玉座へ繋ぎ止める「唯一の軍師」であると確信し始めていた。

 

 雛はふと、重厚な木製の扉の隙間に視線を向けた。

 そこには、呼吸を殺して聞き耳を立てている女の気配がある。ルルが足元で尻尾を揺らし、扉の方を向いて「グルル」と喉を鳴らした。

 

(……来ているわね、お母様。その醜い好奇心を、後悔に変えてあげるわ)

 

 雛はわざとらしく、父に向かって声を一段落とした。だが、その声は扉の向こうへ明瞭に届くよう計算されている。

 

「お父様。これからの公爵家には、古い慣習に縛られた『飾り物の女』は必要ありません。……美しさだけで、政治の邪魔をするような無能な妻が隣にいては、せっかくの私の策も台無しになりますもの」

 

 扉の向こうで、衣擦れの音が微かにした。

 

「今のお父様に必要なのは、華やかな社交界の主役ではなく、領地の利益を共に最大化できる冷徹なパートナー。……例えば、そう。近隣のロット王が、自慢の聡明な娘を側室に、という話を持ちかけてくるかもしれませんわね」

 

 ゴルロイスは、今や雛の知略に心酔しきっていた。

 

「……確かに、イグレインは領地の経営には疎い。美しさは申し分ないが、貴様の言う通り、これからの私に必要なのは『知恵』かもしれん」

 

「賢明なご判断ですわ、お父様」

 

 雛は冷たい微笑を浮かべた。

 

(聞こえたかしら、お母様? あなたが唯一誇っている『美貌』も『正妻の座』も、私の言葉一つで風前の灯火なのよ。不倫されて捨てられる女の絶望を、あなたも味わうといいわ)

 

「モルガン……。貴様を、ただの『魔女の血を引く異端』だと思っていた私が間違っていたようだ。これからは、私の相談役として常に側にいろ」

 

「光栄ですわ。……おや、お父様。扉の外で、何かネズミの鳴き声のようなものが聞こえませんでしたか?」

 

 雛がそう告げた瞬間、廊下からバタバタと、狂ったように走り去る足音が聞こえた。

 

 部屋の外では、イグレインが自室に駆け込み、鏡に映る自分の顔を見て悲鳴を上げていた。

 

「あの子……あの子が、私を殺そうとしている! 旦那様を奪おうとしている! あの気味の悪い紫の瞳で、私の居場所を……っ!」

 

 アレルギーのように腕を掻きむしり、爪を立てる。

 その様子を偶然にもモルゴスが見てしまう。


「お姉様、どうされたのかしら?お母様をあんな風にさせてしまうなんて……」

 モルゴスは不安を感じつつ、母を宥めるために部屋へ入るのであった。

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