不採用
どんなに温厚な人でも時には怒りを爆発させることもある。
それは、物語のような劇的な瞬間ではない。魔王に村を焼かれたわけでも、恋人を寝取られたわけでもない。
ただ、そういう日だったというだけ。ちょっと歯車がずれていただけ。普段なら我慢して飲み込めることもその日は我慢できなかっただけのこと。
吉田豊明は雨の中、右手に巻かれた腕時計を気にしながらスーツ姿で走っていた。
息をきらして駅に入り、改札を抜けるとホームにできていただろう列の最後尾の人が電車に乗るところだった。
(間に合った)
吉田はぜえぜえと息をはきだし、ポケットからマスクを取り出して口につけた。そして、まだ人が入れる場所を探す。
しかし、どの入り口にもスライム一匹通さないような壁ができていた。誰もスペースを開ける努力をするそぶりすらみせない。
明らかに駅のホームに飛び込んできた男の乗車を待っている雰囲気に吉田は馬のような汗をかいた。
そんな時、一か所だけドアの入り口に人が立っていない場所を発見し、急いで飛び乗った。
(助かった。今日は会社に遅刻するわけにはいかない)
扉が閉まり、電車が発進する。
窓に反射した吉田はひどい恰好をしていた。
薄毛の髪が雨に濡れ、頭皮が見え隠れしており、雨と汗で襟元のシャツは濃い色をしている。窓越しでしかベルトが見えないほどに太ったお腹。きわめつけに酸っぱい匂いが鼻につく。
(俺も歳を取ったな。昔はこんな見た目じゃなかったのに)
「ちょっと、あなた。隣の車両に移ってくれない?」
高飛車な声に振り向くと、スーツ姿の若い女性が立っていた。
新品同様のパキっとした黒のスーツに男相手にも物怖じしない勝気な瞳に艶のある手入れの行き届いた長髪。エリート然とした風格を漂わせている。
「申し訳ありませんが、どういう理由でしょうか。私は乗車料金を払った立派な乗客です。あなたからそんなことを言われる筋合いはありません」
変な女性に絡まれたと思った吉田は他の乗客にも聞かせるように演技じみた声音でそう言った。
だけど、目の前の女性だけではなく、周囲の人たちもその発言に眉を顰め、不審者を見るように一斉に吉田へと注目する。
「はぁ~、いるのよね。こういう人。お客様は神様で何やってもいいって考え方やめたほうがいいよ?」
「君、ちょっと失礼じゃないか?ほら周囲の女性達もみな困惑しているじゃないか」
「やっぱ女が目的か!この変態男!いますぐ移動しないと通報するわよ」
他の乗客達は理不尽なことをいう女性の味方なのか、般若のような顔で頷いて同意を示している。
(くそっ、どうなってるんだ。あきらかにおかしいのはこいつだろ。やっぱ、女は女の味方をするのか……。ん?そういえば、男の乗客が見当たらない……)
吉田はこの車両に乗っているのは女性客だけだという事実に気が付き、ぶわっと全身から汗が噴き出した。
「まさかここって……」
「そう、女性専用車両よ。知ってて入ったくせに。くっさい匂い漂わせてあなたおかしいんじゃないの?そういう趣味?マジでキモイ。無理。早く出てって!出てけ!」
急に金切り声を上げた女性に頭を下げて、背中を丸め敗走するように隣の車両へと向かう。
(間違えて乗った俺も悪いが、この女、身なりは立派でも中身は最悪じゃないか!鬼の首とったように腕組みやがって、男に生まれてきたのが悪いってのか?)
通勤ラッシュで、すし詰め状態になっている隣の車両に体をねじ込んだ。
近場の男に舌打ちをされつつ、大きく出たお腹で押すように割って入る。
「きゃっ」
子供のような女の声に冷や汗をかく。
吉田の前には制服を着た背の低い女子高生が怯えた表情で後ろを振り向いていた。
ただでさえ満員の車両で大柄の男が追加されたものだから周囲の空間がなくなり、女子高生の背中にお腹が当たってしまっている。
(勘弁してくれよ。痴漢を疑われたら終わりだぞ)
吉田は吊革に掴まろうと両手の腕を上げると、女子高生のスカートの裾に軽く引っかかって、フワッと少しだけ捲れてしまった。
「ひっ」
女子高生の小さな悲鳴に、近くの乗客から睨まれる。
(いやいやいや、たまたまだから)
水中から顔を出すトドのように吊革につかまる。
(てか、女性専用車両に行けよ。なんでこっち乗ってんだよ)
その後も、ちらちらとこちらを振り返る女子高生に、吉田は生きた心地がしない時間を過ごした。
(これもそれも、あの高飛車な女のせいだ)
まるで犯罪者のような扱いを受けながらも、なんとか会社に辿り着く。
「あっ部長、おはようございます」
「おはよう」
「汗すごいですね。走ってきたんですか?」
「そんなことより、もう準備はできてるのか?」
「はい。後は面接に来る大学生を待つだけですね。それと、部長はまず身だしなみを整えたほうが……」
「そうさせてもらおう」
部長室に入った吉田は頭皮が見えた髪を整えて、汗でぐっちょりと濡れたシャツを着替えた。
最後に湿気で濡れたマスクを取ると、ハゲでデブの中年男から上場企業の重役に大変身を遂げる。
さっそく、面接室へと入ると部下の橋本と倉本がすでに椅子に座っていた。
「部長、お疲れ様です」
「ああ、それで優秀な人材はいるのか?」
そう言うと、橋本がファイルから一枚の履歴書を取り出した。
「この子すごいですよ。有名大学出身で海外留学経験者。語学が堪能で三か国語をネイティブレベルで操るトリリンガルです」
そう興奮ぎみに話す。
「いくらうちが日本有数の大企業って言っても、なかなかこのレベルの子は来ないですよ」
倉本も同意するように頷く。
「それは楽しみだな。初任給はどこよりも多く出せる資金力はあるんだ。絶対取るぞ」
「そういうと思ってましたよ部長」
(はぁ……今日は散々な目にあったからな。これぐらいの褒美はあっていいだろ。俺の肝いりで取った子が活躍すれば本部長に出世する日もそう遠くないだろう)
コンコン。
ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
橋本が姿勢を正して入室許可の声を出す。
「はい、失礼します」
パキっとした黒のスーツ姿の女性が姿勢よく正面のパイプ椅子の横に立つ。
「どうぞ、お座りください」
倉本が手で着席を促す。
「はい、失礼いたします」
軍隊のような返事に部下二人は満足げだ。
正面を向いた勝気な瞳は大人の男三人を前にしても揺るぎない。
「では、弊社への志望動機を聞かせもらえますか?」
「はい、御社の社訓である、人に優しくという一文は私の座右の銘と一致していました。海外留学の際でもボランティア活動に力を入れてきましたので、人に優しくというのはまさに私の学生生活でのモットーでした。なので思いを共にする御社で働きたいと思っております」
流暢な声はまるで清流のよう。
艶のある手入れの行き届いた長髪が声の熱量にふわりと揺れた。
彼女は自信満々な笑顔を絶やさない。
両隣の部下は誇らしげにちらりと横目で吉田の顔色をうかがう。
そして、俺もニンマリと頬を緩めてこう言った。
「不採用」




