●2022年5月
2022年5月10日(火)
ゴールデンウィークが明けた。
みんな普通に旅行したり帰省したりしていた。その結果だろうか。東京の感染者数がまた四千人台に戻ってしまった。
もう誰も自粛なんてしていない。
私も久しぶりに拓也と会って食事をした。でも会話はどこか弾まなかった。彼の興味はもう私にはないのかもしれない。
食事の場所は彼が選んだイタリアンレストラン。以前よく行っていた店だったが、メニューを見ると値段が全体的に上がっていた。パスタが千五百円から千八百円に、ワインも一杯六百円から八百円に。
「物価上がったよね」と拓也がため息をついた。
「そうね。うちの雑誌でも価格帯を下げた特集が増えてる」
会話はそこで途切れ、気まずい沈黙が流れた。
以前なら彼はもっと私の仕事に興味を示してくれた。新しい企画の話をすると目を輝かせて聞いてくれた。でも今日は心ここにあらずといった感じで、スマートフォンを何度も確認していた。
デザートも頼まずに早々に店を出た。駅まで歩く間も会話は続かない。別れ際のキスも形だけのものだった。
そんな気分のせいか、今日は久しぶりにちゃんとした格好をした。
SNIDELの花柄のロングワンピース。髪はゆるく巻いてハーフアップに。メイクはJILLSTUARTのアイシャドウパレットで春らしいピンク系のグラデーション。
誰に見せるわけでもないけれど。
自分のためにお洒落をする。その気持ちが大切だと思うから。
夕方、ベランダに出ると隣のベランダに彼女がいた。
初めてちゃんと姿を見た。
仕切り板の隙間から見えたのだ。
私より少し年上だろうか。三十代半ばくらい。
長い黒髪を無造作に束ねて、白いシンプルなシャツワンピースを着ていた。
夕陽を浴びて煙草を吸っているその横顔が驚くほど美しかった。
儚げで、どこかミステリアスな雰囲気。
目が合ってしまった。
私は慌てて会釈をした。
彼女は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐにふわりと微笑んで小さく会釈を返してくれた。
心臓がドキドキした。
理由の分からない高鳴りだった。
### 2022年5月25日(水)
円安が進んでいる。一ドル百二十八円台。二十年ぶりの水準だという。
ニュースでは専門家が「悪い円安」と呼んでいた。資源価格の高騰と相まって、輸入品の値上がりが止まらない。
今日、スーパーで買い物をしていると、レジで前に並んでいた高齢の女性が小銭を数えながら「昔はこんなに高くなかった」と呟いているのが聞こえた。店員さんも「申し訳ございません」と頭を下げていた。
私も家計簿をつけているが、食費が確実に上がっている。三月は三万円程度だったのが、今月は四万円を超えそうだ。特に冷凍食品や調味料の値上がりが家計を圧迫している。
会社でも影響が出始めている。撮影で使う小道具や衣装のレンタル料が上がり、予算の調整に四苦八苦している。海外ブランドの商品は為替の影響で仕入れ値が上昇し、雑誌に掲載しても読者には手の届かない価格になってしまう。
編集長の佐藤さんは「読者目線でリアルな価格帯の商品を紹介しよう」と方針転換を決めた。高級ブランドよりもプチプラアイテム、輸入品よりも国産品。雑誌の方向性も時代に合わせて変わらざるを得ない。
夜、実家から段ボール箱が届いた。中には母の手作りの野菜の煮物、父が釣ってきた魚の干物、弟が選んでくれたという地元の銘菓が入っていた。
母からの手紙には「物価が上がって大変でしょう。少しでも足しになれば」と書かれていた。家族の温かさが身に染みる。一人暮らしを始めて七年、今ほど家族のありがたさを感じたことはない。