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●2022年1月

2022年1月5日(水)


新しい年が明けてもう五日。でも世界は去年と何も変わらない。

私の名前は水野葵、二十六歳。都内の中堅出版社でファッション雑誌の編集者として働いている。……というのは建前で、実際はほとんど自宅リビングの小さなデスクでノートパソコンと睨めっこするだけの毎日だ。


今朝のニュースアプリのトップ記事は沖縄で新規感染者が一千四百四十四人になったという知らせ。米軍基地から漏れ出したオミクロン株が猛威を振るい始めている。東京も今日は三百九十人を超えたらしい。

第六波。専門家はそう呼んでいるらしい。

もう何番目の波なのか正直どうでもよくなってきている。寄せては返す終わりの見えない波。私たちはもう二年間もこの奇妙な海を漂流している。


在宅勤務にもすっかり慣れてしまった。最初は新鮮だったけれど、今はただの孤独な作業だ。会社に行けば同僚たちとの他愛のないお喋りがあった。仕事帰りに気の合う先輩と一杯飲みに行く楽しみもあった。

今は全てが画面の向こう側。


恋人の拓也との関係もなんだかぎくしゃくしている。彼はIT系の企業に勤めていて、パンデミックが始まってすぐに完全なリモートワークに切り替わった。会う頻度が減ったせいか、それともこの息苦しい社会の空気のせいか、以前のような心の繋がりが感じられない。LINEのメッセージもどこか無機質だ。


今日の私のファッション。といっても家から一歩も出ないのだけれど。ジェラートピケのもこもこのルームウェアに髪は適当にお団子。メイクはもちろんしていない。肌を休ませる貴重な機会だ。最近気に入っているのはSABONのフェイスポリッシャー。ミントのすっきりした香りで気分転換になる。


ああ、なんだか気分が滅入る。

こんな日はベランダに出るのが一番だ。

私の住むマンションは都心から少し離れた住宅街にある。七階の角部屋。小さなベランダからは遠くに新宿の高層ビル群が蜃気楼のように見える。

冷たい冬の空気を胸いっぱいに吸い込む。

隣のベランダとの仕切りはすりガラスの一枚板。プライバシーは守られている。でも時々隣の住人の気配を感じることがある。

どんな人が住んでいるのだろう。

一度も顔を合わせたことはない。


### 2022年1月8日(土)


八時半起床。外はどんよりとした曇り空。気温は三度だそうだ。

まん延防止等重点措置が沖縄、山口、広島の三県に適用された。岸田首相になって初めてだという。米軍由来のオミクロン株。そんな言葉がニュースに踊っている。


今日は編集部のオンライン会議。画面越しに見る同僚たちはみんなどこか疲れた表情をしていた。春号の特集について話し合ったが、コロナ禍で取材制限が多く思うような企画が立てられない。フリーランスのカメラマンからは「撮影現場でのPCR検査が必須になって経費が膨らんでいる」という愚痴が聞こえてきた。


午後はひとりで散歩に出た。近所のカフェはテイクアウトのみの営業。公園のベンチに座って缶コーヒーを飲みながら空を見上げる。雲間から差し込む薄い陽光が頬に当たって少しだけ暖かい。

マスクをしていない人はほとんどいない。二年前には想像もできなかった光景だ。


帰り道、スーパーで食材を買った。卵の値段が少し上がっている。店員さんに聞くと「鳥インフルエンザの影響で」と教えてくれた。レジ袋も有料化されてからもう一年半。小さな変化が積み重なって、世界は少しずつ違う形になっている。


夜、拓也からメッセージが来た。

『今度の三連休、実家に帰るから会えない』

『そっか。気をつけてね』

会えない理由がまた一つ増えた。


### 2022年1月15日(土)


東京の感染者数が初めて五千人を超えた。五千二百四十三人。記録を更新し続けている。

でも不思議なことに、最初の頃のような恐怖感はない。慣れてしまったのか、それとも諦めてしまったのか。


今日は久しぶりに原宿まで出かけた。取材でスタイリストさんと打ち合わせをするためだ。電車の中はいつもより人が少ない気がする。みんなマスクをして無言で画面を見つめている。車両全体が静寂に包まれていた。


原宿の街も以前とは様子が違う。観光客の姿はまばらで、いくつかの店舗がシャッターを下ろしている。それでも若い人たちは変わらずお洒落をして歩いていて、彼らの存在に少しほっとした。


打ち合わせは竹下通りの小さなカフェで。スタイリストの田中さんは四十代の女性で、業界歴二十年のベテランだ。彼女もリモートワークの影響で仕事が激減したと話していた。


「最近はオンライン撮影ばかりでね。モデルさんは自宅から、スタイリストは衣装を宅配便で送って。私たちの仕事も随分変わったわ」

彼女の言葉に重みがあった。


「でも」と田中さんは続けた。「人と人が直接会って作る仕事の価値を、改めて感じているの。画面越しじゃ伝わらないものがあるでしょう?」


帰りの電車で彼女の言葉を反芻していた。確かにリモートワークは効率的だけれど、何か大切なものが失われている気がする。雑談から生まれるアイデア、偶然の出会い、その場の空気感。そういうものが私たちの仕事には必要だったのだ。


### 2022年1月20日(木)


芸能界で感染が再び広がっているらしい。女優の西野七瀬さん、ニューヨークの嶋佐さん、オードリーの春日さんも。

彼らはスタジオで頻繁に検査をしているからすぐに分かるだけで、本当はもう市中にかなりウイルスが蔓延しているのだろう。

東京の今日の感染者数は七千三百七十七人。過去最多。

もう数字が大きすぎて現実味がない。


夕方、拓也からLINEが来た。

『今週末、会うのやめておこうか。ちょっと怖いし』

分かっている。分かっているけれど、寂しい。

『うん、分かった。気をつけてね』

それだけの返信を打つのに十分もかかってしまった。


本当は「私も怖い」と言いたかった。「でも会いたい」とも。

でもそんなわがままを言ったら、彼を困らせてしまう。だから優等生な彼女を演じ続ける。それがとても疲れる。


やるせない気持ちでベランダに出ると、隣のベランダにも人がいる気配がした。

すりガラスの向こうにぼんやりと見える人影。

女性だろうか。

長い髪をしているように見える。

彼女も私と同じように、ただ静かに外の空気を吸っているようだった。

私たちは何も話さない。

でも同じ息苦しさを共有している誰かがすぐ隣にいる。

その事実だけで少しだけ心が軽くなった気がした。


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