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『ご配慮王子』の本当の心を知りたくて

「よく来たね、エルナ・クリューガー嬢」


週に一度の婚約者同士のお茶の時間は、王宮で行われる『王子の婚約者教育』の後にセッティングされている。

今日は、奥の庭にあるガゼボに案内された。

フリッツ第三王子殿下は、笑みを浮かべて私を歓迎してくださった。

いつも殿下は私のことを、クリューガー嬢と家名で呼ぶ。

今のように、最初の挨拶の時だけはエルナと名前もつけてくれるけれど。

殿下の優しいその瞳は、国王陛下の天頂のような青(ゼニスブルー)をそのまま写し取ったように似ていらっしゃる。

柔らかな風が、殿下の濃紺の髪を揺らしていた。

星の無い夜空のような髪色は、瞳の色と違い陛下の金色の髪を受け継いでいなかった。


「殿下、肩に御髪が落ちております。……失礼いたします」


私はハンカチを取り出して、殿下の肩の御髪を取った。


「手を煩わせてすまない」

「いえ、触れてしまうご無礼を失礼いたしました」


下げた頭を戻すと、穏やかな微笑みを湛えた殿下が優し気に私をみつめてくださっていた。


「今日の君は青いリボンが素敵だね。僕の瞳の色を理由にそのリボンを選んでくれたのなら、こんなに嬉しいことはないな。ベージュのドレスもとても似合っているよ。僕の好きなミルクティーを思わせるベージュはとても穏やかで、ほらごらんよ、この庭の白い花ととても合っている。本当にクリューガー嬢は可憐だ。それだけではなく、見る者を優しい気持ちにさせる力を持っているんだ。今日は君の大好きな、葡萄のタルトを用意してもらったんだ。緑と紫の大粒の葡萄だそうだよ」

「……葡萄のタルト、楽しみですわ」


殿下は、いつものように滑らかな口調で一息に私のことを褒めた。

でも、それが殿下の心からの言葉でないことに、私はとっくに気づいている。

とは言っても、私を嫌っているとかこの婚約を無かったものにしたいとか、そんなお考えではないことも、また分かっていた。

分かっているからこそ、そうした殿下のお姿が痛々しく見えてしまう。


二色の葡萄のタルトは、瑞々しい葡萄の甘さとあっさりしたクリームがとても美味しく、殿下は今日もたくさんお話をしてくださった。

私の服装や髪型を褒めてくださる言葉が尽きると、私の最近の様子を尋ねられる。

伯爵家の従者棟で飼われている犬のテゾーロが子犬を産んだこと、従姉妹への誕生日の贈り物を母と一緒に選んだこと、そんな他愛もない話を穏やかに聞いてくださった。

その後にはご自身の昔話をなさっていた。

教会で作業をしたときの思い出話をなさり、そこには私とのエピソードもあった。

そうした作業の場には、王族の方々ばかりではなく貴族の子女も参加することがあったのだ。

こんなささやかなお茶の席でも、話が途切れないように慮ってくださる殿下の優しさと寂しさに、私は密かにとある決意を固めた。



***



私の婚約者であるフリッツ第三王子殿下は、ここバイルシュミット王国の三番目の王子としてお生まれになった。

国王陛下には、正室であるオティーリエ王妃殿下と側室であるヘレーネ妃殿下、二人のお妃様がいらっしゃる。

ご成婚後二年が過ぎてもオティーリエ王妃殿下はご懐妊とならず、王妃殿下自らが陛下に側室をお薦めになったと言われている。

そのお方が、王妃殿下の従姉妹にあたるヘレーネ妃殿下だ。

穏やかで優しく、オティーリエ王妃殿下とは違った美しさを持つヘレーネ妃殿下を、国王陛下は傍におかれた。

オティーリエ王妃殿下とヘレーネ妃殿下はとてもご親密で、王妃殿下は国王陛下よりヘレーネ妃殿下と一緒に過ごしていらっしゃるほうが多いと言われているという。


そして、輿入れから一年を待たずにヘレーネ妃殿下がご懐妊となった。

その朗報に王宮が沸いたものの、常に王妃殿下にお心を配られるヘレーネ妃殿下は、自分に注目が集まってしまうことを避けたいとお考えになったという。

そして、妊娠期間を静かに過ごしたいと離宮にお下がりになった。

それからひと月が過ぎた頃、ついにオティーリエ王妃殿下が待望のご懐妊となった。

こちらは国を上げての歓迎ムードとなり、誰もが王子の誕生を心待ちにしていた。


問題は、側室ヘレーネ妃殿下のほうがおそらく先にご出産となることだった。

もしもヘレーネ妃殿下が王子をお産みになれば、後継問題となるかもしれない。

そんな緊張感の中、なんと後からご懐妊が判明したオティーリエ王妃殿下が、ヘレーネ妃殿下よりも先に双子の王子をお産みになったのだ。

双子だったのでご予定の日よりもずいぶん早くのご誕生だった。


アンドレアス第一王子殿下とベルンハルト第二王子殿下、小さいながらもお健やかで、国王陛下ご夫妻はもちろんのこと、国中が安堵した。

そして側室ヘレーネ妃殿下も、王妃殿下の無事のご出産に涙ぐんでお喜びになったという。

双子の王子殿下のご誕生からほぼひと月後に、離宮にてヘレーネ妃殿下が王子殿下をお産みになった。

その王子殿下が、私の婚約者である第三王子フリッツ殿下だ。


ヘレーネ妃殿下は、先にご懐妊となりながらも、正妃であるオティーリエ王妃殿下より後から出産したということで、素晴らしいご配慮だと言われることになった。

もちろん、そのような『配慮』で生まれてこようとしている子をお腹の中に留めておくことなど、できるものではないと誰もが分かっている。

王妃殿下のご出産が、双子だったために早まっただけなのだ。

それでも誰もが口々に、『ヘレーネ妃殿下の素晴らしいご配慮』と言い、生まれたばかりのフリッツ第三王子殿下は『ご配慮王子』などと言われるようになってしまった。


ヘレーネ妃殿下は産後のお身体が回復なさると、国王陛下と王妃殿下たっての願いにより離宮からお戻りになった。

フリッツ第三王子は、双子の王子殿下たちと同様に王宮にて育てられることになったのだ。

『正しい順番』で生まれてきた三つ子のような王子たちのおかげで、王宮は賑やかで平穏な空気に包まれたという。


フリッツ第三王子殿下は、『ご配慮王子』のイメージどおりにご成長なさった。

常に同じ歳の二人の兄王子を立て、控えめでありながら朗らかな王子となっていかれた。

いつもオティーリエ王妃殿下から二歩も三歩も下がっている、母であるヘレーネ妃殿下と実によく似ていらっしゃったという。



双子の王子殿下の婚約者が決められたのは、お二人が十三歳になられた頃だ。

第一王子アンドレアス殿下の婚約者は、ユーディット・デーゼナー公爵令嬢。

筆頭公爵家であるデーゼナー家のユーディット様は、キリリとした美貌と優秀さを併せ持つ、第一王子の婚約者として申し分のないご令嬢だ。

第二王子ベルンハルト殿下の婚約者は、イルメーラ・グラーツ公爵令嬢。

グラーツ公爵家はデーゼナー公爵家に次ぐ由緒ある家門で、イルメーラ様はたおやかな美しさを持ち、優秀さにおいてもユーディット様に引けを取らない。


フリッツ殿下は、『三大公爵家』と謳われているうちのもう一つ、ケートマン公爵家のリラローゼ様と婚約するのだと思われていた。

三人の王子がそれぞれ三大公爵家の令嬢と縁を結ぶものだと、誰も疑わなかった。


リラローゼ様は、光を放っているような金色の髪を持ち華奢でとても可憐なご令嬢だが、フリッツ殿下と婚約とはならなかった。

双子の王子殿下の婚約者が決まった一年後、フリッツ殿下が十四歳の時にクリューガー伯爵家の一人娘である私との婚約が決まったのだ。

殿下と同じ歳の私は、一人娘が故に婿を取らなくてはならない立場で、フリッツ殿下は第三王子ということもあって、婿入りも可能なお立場だ。

第三王子とはいえ、王子が婿入りするには伯爵家ではやや爵位が低い。

それなのに私との婚約の話が浮上し、どうなるものかと思っているうちに正式に決まった。


人々はこの時も『ご配慮王子』と噂したという。

それは、当時十四歳になって間もない私の耳にも届いた。

第三王子フリッツ殿下の婚約者は、双子の兄王子たちの婚約者のお二人より、その美しさも優秀さも家柄もすべてにおいて格下だと。

ありきたりな薄茶色の髪に目立たぬ容姿の私との婚約は、側室を生母に持つ第三王子殿下として『ご配慮』が行き届いた縁だと囁かれた。



大きい声で言えることではないが、ベルンハルト第二王子殿下の婚約者であるイルメーラ様は、そのたおやかな外見イメージと内実がやや異なっている。

ご自分こそが未来の王妃、第一王子妃になるものだと思っていらしたようだ。

それなのに第二王子の婚約者となり、イルメーラ様が憤っているという噂が囁かれていた。

それが、フリッツ第三王子の婚約者が数段も格下である私に決まり、イルメーラ様も落ち着きを取り戻したというのだ。


今では第一王子の婚約者ユーディット様と、仲良く双子のようにデザインが同じで色違いのドレスを身に着けるなど、『我が国の双璧美貌令嬢』としての立場を気に入っていらっしゃるらしい。

第二王子妃であれば、背負う責務や公務もそれほど重くはないと、むしろこれで良かったと思われるようになったと言われている。

そんなこともあって、フリッツ殿下は引き続き『ご配慮王子』と呼ばれていた。


金髪の双子の王子殿下たちばかりが美しいと言われているけれど、ヘレーネ妃殿下と同じしっとりとした濃紺の髪と、陛下によく似ていらっしゃる秋の空のような青い瞳を持つフリッツ殿下も、双子の殿下たちに引けを取らない美しさだと思っていた。

小さな声でも口にはしないが、単に容姿だけで比較するならフリッツ殿下こそが一番だと不敬にも思っている。


フリッツ殿下はヘレーネ妃殿下のお腹の中を独り占めしていたからか、私と婚約が決まった十四歳の頃にすでに双子の王子殿下たちより頭ひとつ分ほども背が高かった。

フリッツ殿下はそれをお気になさっているのか関係ないのかは分からないが、ひどく猫背だった。

『王子たるもの、いつも姿勢を正しく』と周囲から言われる時だけ、面目なさそうに背筋を伸ばす。


カップに目を落とす、美しさと男性らしさが絶妙に混ざったフリッツ殿下をひっそり見ては、私は胸をときめかせた。

あまりに美しいその瞳は、目線をやや下げていらっしゃるときだけそっとみつめることができた。

博識で話題も豊富、そして第三王子として剣の道に進むこともあろうと幼少の頃から稽古も熱心に受け、いつでも騎士団で受け入れると言われているという。

そして何よりも殿下の素敵なところは、誰に対しても慈愛をもって接していらっしゃるというところだ。

王子だからと、下の者に不遜な態度で接したりなさらない。

私にはもったいなく畏れ多いご縁なのだ。

でも、ときめきはすぐに消えて、私の胸は溜息で満ちてしまう。


かつて、殿下と婚約するのではないかと噂があったケートマン公爵家のリラローゼ様はまだ婚約者が決められていない。

世間も私も、リラローゼ様の婚約者が未定なのは、フリッツ殿下が格下の伯爵令嬢との婚約を白紙にすることを待っているのだと思っている。

そして、その噂を裏付けるような場面に遭遇してしまった。



週に一度、主にこのバイルシュミット王国の成り立ちやその歴史、周辺諸国との関係、そして語学教育などを受けるために王宮に上がる。

第三王子の婚約者なのと、フリッツ殿下は我がクリューガー伯爵家に婿入りするということもあって、教育の内容はそれほど難しくも厳しくもない。

第三王子殿下という立場は、いわば『スペアのスペア』であり、今のバイルシュミット王国は安定しており、よほどのことが無い限りフリッツ殿下が王太子となり王となる未来はないだろう。

それでも王子の婚約者として最低限の教育を受けるのだ。

そして、私の学びが終われば、次は殿下がクリューガー伯爵家の領主としての仕事を父から学ぶことになっている。

クリューガー伯爵家の領地は、古い家柄であることから王都からそれほど離れていない。

殿下はクリューガー家の婿となるが、私が女伯爵になるわけではない。

いずれ伯爵となるのは殿下で、私は伯爵夫人ということになるのがこの王国の決まりだった。

後継ぎが生まれて無事に七歳になり父から爵位を譲られるまでは、領地にて過ごすのだ。


いつものように学びの時間が終わり、侍従がその後の予定を伝えてくれた。

その日の朝に、フリッツ殿下の母君でいらっしゃるヘレーネ妃殿下がお手入れをなさっている稀少なバラが咲いたという。

フリッツ殿下とのお茶のセッティングをそのバラ園にしてくださったということで、バラ園に繋がる外廊下を案内の従者に続いて歩いていた。

しばらく歩いていると、こちらに背を向けてバラを見ているフリッツ殿下と、リラローゼ様の姿が見えた。

従者が立ち止まることなく歩みを進めているので、私も遅れることなくついて行く。


「……この淡い紫色のバラの名前はリーラ・ローゼというそうだ。リラローゼ嬢、あなたと同じ名前だね」


フリッツ殿下のお声だけが聞こえた。

その言葉に、リラローゼ様が何と応えたかは聞き取れなかったが、リラローゼ様の輝くような金色の髪が揺れたのが見えた。

笑っていらしたのだろうか。

リーラ・ローゼ……紫色のバラ。


(……ああ、やはりそうだったのね……。殿下のお心に居るのはリラローゼ様……私のことを、エルナと名前で呼んでくださることなどないもの)


私は自分の歩みを止めないように、そして間違ってもしゃがみ込んだりしないように、前を行く従者の後頭部をじっと見て気を逸らさないように努めた。


その後のフリッツ殿下とのお茶会で、殿下が見せてくださったヘレーネ妃殿下の稀少なバラは、紫色のあのバラではなかった。


「母が、君にこのバラを贈ってよいと言ってくださったんだ。外国産の稀少種で『シャルリーヌ』という名がついている。バラの産地国の王女の名前だそうだ。この透明にも見える花びらが儚げで美しく、君に雰囲気が似ていると思った」


フリッツ殿下は、小さなバラのブーケをくださった。

棘がきれいに処理されている美しいバラを受け取りながら、私の胸はチクチク痛んだ。


「貴重なバラをありがとうございます。どうぞヘレーネ妃殿下に、感謝を申し上げていたとお伝えください」

「ああ、そうしよう。母もそれを聞けば喜んでくれるだろう」


フリッツ殿下とのお茶会がお開きになった後、双子の王子殿下とそれぞれの婚約者であるユーディット様とイルメーラ様、そしてリラローゼ様がご一緒にいらっしゃるところに出くわしてしまった。

アンドレアス第一王子殿下がフリッツ殿下にお声を掛けた。


「フリッツ、いいところで会った。王妃殿下と三大公爵家が共同で行うバザーに出す物をこれからまとめるのだ。僕たちも読み終えた本や使わなくなったカフスなどを出すが、ユーディットたちもリボンやハンカチや小さなアクセサリーを持ち寄ってくれた。用事が済んだのなら、おまえも今から来るように」


「フリッツ殿下、ぜひご一緒に参りましょう」


駆け寄ってきたイルメーラ様が、フリッツ殿下の腕を引いた。

はしたないふるまいと感じてしまったが、婚約者であるベルンハルト第二王子殿下が微笑んでいらっしゃるのだから、どうということではないのかもしれない。

事前に私にお声掛けがなく、何も持っていない私はお呼びではないということ。

王妃殿下が三大公爵家と共同で開催するバザー企画であれば、それも当然のことだった。


フリッツ殿下が私を振り返った。

その瞳にどんな感情が映し出されているのかを見るのが怖くて、さりげなく目を伏せる。

バラのブーケを持っていてよかった。

これを両手で持っていたから、このいたたまれない時間が過ぎるのを落ち着いて待つことができる。


「これからクリューガー嬢を馬車まで送るところですので、私は後ほど伺います」


そのフリッツ殿下の言葉に、初めて皆様方が私に目を向けた。


「馬車までくらい、従者に任せればよろしいではありませんの? 王妃殿下がお待ちですわ、さあ参りましょう」

「フリッツ、イルメーラの言うとおりだ。令嬢との用事は済んだのだろう? あとは従者に任せてこのまま我々と一緒に行こう」


ベルンハルト第二王子殿下の言葉に、フリッツ殿下は少し小さな声で『はい』と応えた。


「クリューガー嬢、馬車まで送ることができなくてすまない。次の茶会については追って手紙を届ける」

「本日はありがとうございました」


私は深々と頭を下げて、しばらくそのままでいた。

顔を上げると、皆様方の背中が遠ざかっていくところだった。

イルメーラ様はフリッツ殿下の腕をお離しになっていて、フリッツ殿下の少し後ろをリラローゼ様が歩いている。

その時、イルメーラ様がお一人で戻っていらした。


「フリッツ殿下はあなたにお優しいのかもしれないけれど、それはご配慮からであって、あなたが身を引けばすべてが丸く収まることを忘れないで」


そう小声で囁くと、戻っていかれた。

わざわざ言われなくても解っている。

でも、解っているだけではダメだということなのかもしれない。


リラローゼ様が王宮にいらしたのは、王妃殿下から招かれたこのご用事のためだったのだ。

三人の王子殿下と三人の公爵令嬢の方々、その和気藹々とした後ろ姿をこうして見ると、三組の婚約者同士にしか見えないと思ってしまい、その卑屈な考えを頭から追い出したかった。


もしも私が、殿下に『行かないでください』と言ったなら、どうなさっただろうか。

私の手を取ってくださったか……。

これからどうしたらいいか分からずに立ち尽くしていると、『馬車までご案内いたします』とフリッツ殿下の従者の一人が駆け寄ってくれ、私はほっとして歩き出した。



馬車の中で、フリッツ殿下から戴いた、花びらが透けているように美しい淡いピンク色のバラをみつめる。

どこかの国の王女の名がつけられたという、このバラの名前をたしかに聞いたはずなのに思い出せない。

『リーラ・ローゼ』という紫色のバラの名前が、頭の中を占領してしまっていた。

どの感情に押されたのか分からない涙が浮かび、こぼれる前に指で拭った。


『ご配慮王子』でなければ、フリッツ殿下は私と婚約は結ばなかった。

二人の兄王子へのご配慮のために、三大公爵家の一角であるケートマン公爵家のリラローゼ様ではなく、格下の伯爵家の娘である私を選ばなければならなかった。

兄王子たちよりも背が高くなり、お二人が受け継がなかった陛下の瞳の色を持つフリッツ殿下。

対して、第一王子殿下は生まれつきお胸が弱く、特に寒く乾いた季節になると咳が止まらなくなって、床に臥せることも多いという。

第二王子殿下はお目が悪く、今は丸眼鏡を掛けていらっしゃる。舞踏会など公式の場ではその眼鏡を外すので難儀な思いをされているそうだ。


そんな双子の兄王子と違い、フリッツ殿下はご壮健でご立派な体躯をお持ちだ。

この国の王子がそうであるなら喜ばしいことなのに、フリッツ殿下は肩身の狭い思いをなさっている。

兄王子たちよりも優れていてはならないという思いからか、兄王子たちの婚約者と並ぶリラローゼ嬢へのお心を封じ、すべてが格下の私をお選びになったのだ。


私は殿下との婚約を平和に白紙に戻したかった。

フリッツ殿下には、配慮も遠慮もなさらずに、王子として望めば得られるはずのものをきちんと手にしてほしいと心から願っている。

それだけが、私が殿下にして差し上げられるただ一つのことだった。


ただ、自分から身を引くためにも、フリッツ殿下のその『お心の内』を知りたかった。

自分の家や親族までも巻き込むことにもなる重要な選択を、想像や曖昧の中で決めることはできない。

でも、たとえご本人に直接尋ねたとしても、フリッツ殿下が本当のお気持を話してくださるとは思えなかった。

『ご配慮王子』は名ばかりのものではなく、フリッツ殿下は本当に双子の殿下から一歩も二歩も引いており、私のような者にもきちんと対応してくださる。

そんな殿下に私が正攻法でお尋ねしても、その本心を打ち明けてくださることはないだろう。

それを知るために手に入れようとしているのは、『心読みの薬』だった。



***



その店は、王都の住宅街の端に近い場所にある。

老夫婦が経営するその紅茶館は、表向きは普通のティーハウスで、懇意になると特別処方の薬が買えると密かに……本当に密かに言われている。

『ラネーラ・ティーハウス』、というその紅茶館は、平屋建てで裏に庭があるだけ。

その庭には小さな家に相応しく、見逃してしまいそうな小さな花や多くの草が植えられていた。紅茶の葉は海の向こうの国に嫁いでいった娘から送られてくるという。

特別処方の薬を売るのは、常連の中でも特別に信のおける者だけだという。

私はそのラネーラ・ティーハウスに行った記憶があった。


私の母の生家は、ティーハウスに紅茶の茶葉を送っている娘さんが住むというフロイベルク国にある。

海の向こうの国といっても狭い海峡を国境としているだけで、それほど大きくもない船がフロイベルク国とを行き来している。

母は、そのティーハウスの特別な顧客の一人のようだ。


『相手の髪を薬瓶に入れて蓋をし、ゆっくりと混ぜるとその髪は溶ける。薬は一度ですべて飲み干す。しばらくして薬が身体に巡ってから半日ほどの間、溶かした髪の持ち主の声が届く範囲に居ると、心の声も同時に聞こえる』


そういう薬だという。

フリッツ殿下の本当のお心が知りたいと思ってからずっと、母が手に入れることができるその薬が欲しくてたまらなかった。

こっそりと母の私室に入り、見つけたらその薬瓶を持ち出してしまおうかと思った。

だが、その薬は作られてから三日以内でなければ効果が得られないそうで、黙って持ち出そうと母の私室に入り込んでも、いつもその薬があるとは限らないのだ。

見つけたとしても、いつ作られたものかも分からない。

私は覚悟を決めて、母に打ち明けた。


「私はどうしても、フリッツ殿下がお隠しになっている本当のお心が知りたいのです。フリッツ殿下に他に愛するかたがいらっしゃるのなら、結婚しても殿下を本当の意味でお幸せにして差し上げることができません。ですから、お母様に心の声を聞けるお薬を譲っていただきたいのです」

「エルナ、いつ薬のことを知ったのかしら?」

「小さい頃、お母様は私を連れてティーハウスを訪れになったことがございました。その時、私はティーハウスのテラス席でお菓子をいただきながら、お母様のご用事が済むのを待っておりました。その時、白い蝶がひらひらと私の前に現れ、私は席を立ってその蝶を追いかけたのです。お庭に降りて、小さな花の間を飛ぶ蝶を追いかけていると、ティーハウスの夫人とお母様の話す声が聞こえました」


母は、目を見開いた。


「まあ、小さかったとはいえレディなのに立ち聞きをするなんていけない子ね。エルナはその時の話をずっと覚えていたの?」

「覚えていたというより、殿下の婚約者となりそのお心を知りたいと思うようになって、思い出したのです」

「殿下の本当のお心を知ることになったら、エルナはどうするのかしら」

「……お父様にお願いをして、殿下の婚約者であることを辞退したいと思っています」


不敬にもなりかねない、そのような申し入れがこちらからできるかどうかは分からなかった。

でも父ならば、何か方策を考えてくれるのではないかという期待を持っている。


「エルナ、他者の心の内を知るということは、それを知りたいと思ってしまう自分の醜さと向き合うことでもあるの。人が言葉にしないのなら、それは外に出すものではないとその人自身が決めたこと。相手の為を思って言わない言葉がたくさんあるわ。どの気持ちを表に出してどれを心の中にしまっておくかは、その人だけのものなの。それでもエルナは薬を欲しいと思うのかしら」

「……フリッツ殿下のお心の内を知りたいと思っているのは、私の醜さと向き合うこと……」


母は私の呟きのような言葉に、そのとおりだと言うように頷いた。

私はフリッツ殿下から、たくさんの嬉しい言葉を戴いていた。

でもいつも、殿下が本当のお気持を隠すための言葉だと感じていた。

私が思う私自身の姿と、殿下のお言葉の中の私があまりにも違う気がしているから。

殿下の本当のお気持が知りたいと心から願っているけれど、それを望むのは私の醜さ……。


急にフリッツ殿下のお優しい瞳を思い出す。

春の日差しというよりも、秋の穏やかですぐに消えてしまいそうな温かさを湛えた瞳を。

その一瞬がずっと続くことを祈るように、儚くも感じる温かさの中に少しでも長く居たいと……。


「エルナ?」

「お母様……私……」

「フリッツ第三王子殿下に、あなたは恋をしているのね」


母は柔らかいハンカチで、私の頬をそっと押さえた。

そうされるまで自分が涙を落としていたことに気づかずにいた。


「心読みの薬で得られるものは、素敵なことばかりではないわ。相手も自分も傷つくことになるかもしれない。自分が傷つくことには耐えられても、相手が傷つくことにエルナは耐えられるかしら。それでもどうしてもと言うのなら、薬を手に入れてエルナに譲りましょう」

「お母様、ありがとうございます! ……あの、お母様はどうして心読みのお薬を手に入れているのですか? あ、いいえ、不躾なことを尋ねまして申し訳ございません。忘れてください」

「そうね、エルナがもっと大人になって、世の中のことがくっきり見えるようになったら教えてあげるわ」


私はなんだか分からないまま、お辞儀をして母の部屋を出た。

そして次に父の居る執務室に向かう。


「お父様にお話があってまいりました。お時間を少しいただけませんか」


従者が茶の手配をしてくれている。

父は執務の手を止めて、私の向かいに着座した。


「話とはなんだね、珍しいことだ」

「はい。私がフリッツ第三王子殿下の婚約者になった経緯をお聞かせいただきたく、お願いに参りました」

「今さらそのようなことを、どうしたというのだ」


父はそう前置いてから、ゆったりと話し始めた。

陛下がフリッツ殿下に意中の令嬢の有無を尋ねたところ、エルナの名前を挙げたとのこと。

それを一旦受け入れながらも陛下は、婿に入る立場の殿下の為に伯爵家より爵位が高く男子の居ない貴族の名前をいくつか提示なさったという。

それでもフリッツ殿下の意志は揺るがず、クリューガー伯爵家の伝統は古く歴代の当主は質実剛健で、領地運営も順調であることから、この婚約が結ばれたとのことだった。


「フリッツ殿下ご本人が光栄にもエルナをとご希望され、また陛下が我がクリューガー伯爵家に御信頼を寄せてくださっていることで結ばれたありがたい婚約だ。何か問題でもあるのか? まさかフリッツ殿下と上手くいっていないなんてことがあるのなら、こちらから調べられる範囲で調査を入れるが……」

「いいえお父様、フリッツ殿下にはとても大切にされていると感じております。ただ……」

「ただ、どうした?」

「……爵位の高い家の令嬢をご希望なさることを殿下のご配慮によりお避けになった結果、私に白羽の矢が立ったのではないかと……」


恐る恐る顔を上げると、父は眉を下げて困ったような微笑を浮かべていた。

小さい頃、もっとお菓子を食べたいとせがんだ時や、具合の悪い母のベッドで一緒に眠りたいと言った時に見た父の顏だった。


「……エルナ、他者の心の内など、どれだけ近しい者でも正しく理解できることなどできないものだ。それを疑い始めればすべてが怪しく思えてしまう。私はエルナの父として、クリューガー伯爵家の当主として、陛下のお申し出に濁ったものなど感じなかったと胸を張って言える。陛下は、フリッツ第三王子殿下の御身にも、双子の兄王子殿下と変わらない思いをかけていらっしゃる。クリューガー伯爵家一門も、殿下を婿として迎えることを光栄に思えども反対などない。婚約中は何かと不安を覚えるものだが、それは己の弱気になった心が幻を映し出しているに過ぎない。エルナは何も案ずることはない」

「……はい。つまらぬことを言い、申し訳ございません」

「いや、いいんだ。こうしてエルナと茶を飲む機会もこの頃はなかったからな。そろそろ婚儀の支度も忙しくなる頃合いだ、身体を大切にして過ごしなさい」

「はい、ありがとうございました」


執務室のドアを閉めると、自分の心も閉塞感でいっぱいになった。

父の言葉に反論したいわけではない。

殿下が私との婚約を希望したこともそれを陛下が大切になさったことも、疑っていないし理解できていないわけではない。

そうではなく、フリッツ殿下が本当のお気持を隠したまま周囲すべてに配慮をした結果、私をお選びになったのではないかと思い、できることなら殿下の本当のお気持に沿うようになればと思っているに過ぎない。


父と話しをしても、やはり殿下のご配慮からの婚約ということが拭えなかった。

やはり母から戴く薬を飲むしかないのだと、その思いがより強固になった気がした。




それから二日後の眠る前の時間に、母が小瓶を持って私の部屋に来てくださった。

緑色の蓋が挿し込んである小瓶を手にすると、その大きさよりずっと重たく感じた。

翌日の殿下とのお茶会の前に、私はその薬を飲んでいくつもりだった。



***



王宮に向かう為の身支度を整え終わると、侍女たちに下がるように伝えた。

夕べ母から手渡された小瓶を取り出す。

そして、いつかのお茶会の時にフリッツ殿下の肩に落ちていた藍色の髪を包んだハンカチをそっと開いた。

水差しからゴブレットになみなみと水を注ぎ、薬瓶の緑色の蓋を外して殿下の髪を入れた。

薬を一息に飲んだ後は、ゴブレット一杯の水を飲むのだと母に言われた。


光に薬瓶をかざすと、濃紺の髪が液体の中で揺れている。

瓶の首を持って、慎重にゆっくりと底を混ぜるように回す。

ゆっくりゆっくり、溢さぬように慎重に。

もう一度、薬瓶を光にかざすと、もう髪は溶けたのか見えなくなった。

口元に薬瓶を持っていくと、仄かに草の匂いがした。

それは熱を出した時に飲む薬の匂いと似ていることに安堵して、一息で小瓶の中身を飲んだ。

そしてゴブレットの水もすべて飲み、お腹にそっと手を当てる。

冷たい水を飲んだのに、気のせいとは思いながらもお腹が温かいように感じた。

私の中にフリッツ殿下の髪が溶けていっている。

それが身体に巡って残っている間は、髪の持ち主である殿下の声と心の声が同時に聞こえるという。

同時に二つの声が聞こえるというのが、どういう状態になるのか分からず少し怖い気もしている。


そして私はいつものように、王宮に向かうための馬車に乗り込んだ。

フリッツ殿下の心の声とは、どんな風に私の耳に届くのか。

私はきちんとそれを聞き分けることができるのか。

不安な気持ちで窓の外の景色を眺めていると、少し気分が悪くなって自分の膝に目を落とした。



今日のお茶会の場所は王宮内の部屋だった。

お庭だと思っていたけれど、少し風があったので変更になったのかもしれない。

初めて入る建物だった。

いつも教育を受ける中央の建物ではなく、右側にある建物へ従者に連れて行かれた。

普段より護衛騎士が多く配置され、廊下はとても豪華な設えなのにどこか物々しい感じを受ける。


案内された部屋は三間続きの、とても広い部屋だった。

ソファは直線的なデザインで、黒く見える木にチャコールグレーの無地のファブリックで、このようなデザインの家具を初めて見た。

我がクリューガー伯爵家の家具は、優美な曲線のマホガニーに花柄のファブリックばかりだ。

続きの隣室との間の小窓の前に置かれた、コンソールチェストに惹きつけられた。

これも、黒い家具で角張ったデザインの中、貝を埋め込むことで作られた直線模様が入っていて存在感がある。

奥のメインの部屋は、窓が天井から床まであってとても明るく開放的だ。

窓の向こうは庭が見下ろせるようになっている。

三階のここからだと、庭の小径が左右対称のクローバーのようになっていることが判る。

そして、窓の向こうにも姿を半分隠した護衛の者たちが立っていた。


一番奥の応接セットに案内されて腰を下ろすと、三間続きだと思っていた奥の部屋の横に扉があり、まだ部屋があることに気づいた。

この部屋の豪華さに、私が婚約しているのは王族なのだと、改めて身が引き締まる思いがする。



「待たせたね、エルナ・クリューガー嬢」

《待っていたのは俺のほうだが》


え?

フリッツ殿下の言葉の後に、少しくぐもった感じの声が私の耳の奥に直接届くような形で聞こえた。

まさか、これが殿下のお心の言葉……?

いつもご自身のことは『僕』とおっしゃるのに、『俺』と聞こえた……。


「……はい、あの、本日はお招きいただき、はい、ありがとうございます」

「……どうしたのかな……何かあった?」

 《いつも優美なエルナの挨拶が、どこかたどたどしいくないか? 具合でも悪いのか、顔色は悪くないようだが医師を呼ぶか? 医師に見てもらうのは俺のほうか? いや、少し様子を見よう。焦るな俺、落ち着け》


……これが……殿下のお心の声……?

私のことを、エルナとお呼びになった……。

混乱の中に放り込まれたような気がしつつも、しっかり受け答えをしなければ殿下に不審に思われてしまう。


「こちら、我が家のシェフと一緒に作りましたマフィンです。従者の方々の分もございますので、よろしかったらお召し上がりくださいませ」


マフィンの入ったカゴを傍に控えている従者に渡した。

オレンジの皮のシロップ漬けを刻んで混ぜ込んだマフィンは、フリッツ殿下がお好きで何度か差し上げている。

従者の方々の分というのは、いわゆる『毒見』用だ。

別の従者が、静かにお茶を淹れ始める。

持ち手がスワンの首に見立てて作られている白磁のポットから、良い香りのする紅茶が注がれた。


「ありがとう。後でゆっくりいただくとしよう。今からとても楽しみだ。今日の茶会には、栗のケーキを用意した。クリームにも刻んだ栗が入っているそうだよ」

 《毒見なんて必要ない。だが、あの者たちもエルナのマフィンを前回とても喜んでいたから、仕方ない、一つずつは分け与えよう。エルナの手作りなのだから本当はすべて俺が食べ尽したいところだが》


……殿下の言葉の後に続く、耳の奥に流し込まれる『声』に驚きしかない。

やはり殿下のお心の声では、エルナと呼ばれている。

それに、なんだかまるで……。

いいえ、考えている暇はないわ、会話を続けなければ怪しまれてしまう。


「こちら、とても素敵なお部屋ですね。存在感のある直線的なデザインの家具が私には新鮮で、目を惹きつけられました」

「そうか! 陛下に婚約者であるクリューガー嬢を自室に招いても良いか尋ねたら、構わないとおっしゃったので今日は僕の部屋でセッティングしたんだ。気に入って貰えて嬉しいよ」

 《エルナが刺繍してくれたハンカチを入れた額は片付けたが、俺の部屋にエルナが居ると思うと……それに、先ほどからなんだか……ソワソワしてしまうな》


……私が刺繍したハンカチを入れた額。


考えるのは後にするとしたのに、殿下のお心の声にいちいち過剰反応してしまうのを止められなかった。

あまりにも、あまりにも普段の殿下から想像できない言葉ばかりだ。


「殿下の私室なのですね、とても緊張してしまいますわ……」

「はは、緊張することもないだろう」

 《エルナ可愛い、可愛いなぁ。あー、なんという至福の時間だろう。可愛すぎるエルナ、先ほどから俺は何を試されているのだろうか》


……試されている。


「今日も婚約者教育があったのだよね。難しくはないか?」

 《教育係から毎回話を聞いているが、エルナはとても優秀で質問も的を射ているという。そうだろうそうだろう、この素晴らしい女性が俺の婚約者だと、王都の中央ストリートを自慢しながら歩きたいくらいだ。いやまて、エルナは見世物ではない》


……。


「……こ、婚約者教育の内容はとても興味深く、特に王国の歴史についてはもっと深く知りたいと思うことばかりです。教育係の先生方には、親切かつ丁寧に指導いただきとてもありがたく思っております」


「そうか、それは良かった」

 《選りすぐりの者をエルナに付けてもらった。知識量だけではなく人格も素晴らしい者たちばかりだ。陛下に王太子妃にでもするつもりかと笑われたが、俺の愛しいエルナを兄上などに譲るものか。陛下にしては面白くない冗談だったな?》


……俺の愛しいエルナ。


カチャンと、手を滑らせ紅茶を溢してしまった。


「大丈夫か! 水桶とタオルを!」

 《エルナの手に熱い紅茶がっ!!》


フリッツ殿下がローテーブルを跨いで隣にやってきて、私の手を取った。

ご自身のチーフを抜いて、紅茶の掛かった私の手を拭ってくださる。


「大丈夫です。少し冷めておりましたし……殿下のチーフを汚してしまって申し訳ございません」

「チーフなど構わない、それよりもエルナの白い美しい手に……」

 《エルナの白い美しい手に何かあったら、責任を取って今すぐ結婚しよう。ドレスはどうする、いや、そんなことより一体どうしたというのだ、落ち着け俺、落ち着くのだ……》


……今すぐ結婚しよう。


かあぁと頬が熱くなるのが分かった。

先程から、少し後からダイレクトに耳の奥に届く殿下のお心の言葉に、もしかして、私は殿下に大切にされているのではないかという疑いが生じてしまっている。

しかも今は、声に出しているほうでも『エルナ』とおっしゃった気がする。

いつも朗らかながら控えめで、『ご配慮王子』と呼ばれているフリッツ殿下らしくない言葉ばかりだった。

その時、先ほど部屋を出て行った従者が戻ってきた。


「冷たい水とタオルをお持ちいたしました!」

「あ、ああ、ありがとう、手を冷たいタオルで包もう」

 《痕が残らなければ良いが……》


「あ、あの、殿下……」


「痛むか? エルナ、大丈夫か」

 《ああ、エルナエルナ……》


エルナ……。殿下が私を、エルナと……。

考えなければならないことが波のように押し寄せて、流されてしまいそうだ。

殿下が発する声も、後から届くお心の言葉も、小さくなっていく。

視界も、お腹のあたりも、ぐるぐるとしてきて、急に目の前に灰色の緞帳が下ろされた。







気がついたら、見知らぬ天井が見えた。

ゆっくりと瞬きをして、目を動かす。


「エルナ、気がついたか!」

 《あああああああ、エルナが目覚めた! よかった!》

「……殿下……」

「急に気を失ったから、驚いた。僕のベッドに運んでしまったが許してくれ」

 《……俺のベッドに……》


殿下の喉がゴクリと動いた気がした。

運んでくださったというのは、その……殿下に、抱き上げられてしまったのだろうか……。

殿下のあの逞しい腕で……。

恥ずかしさに身震いしそうになる身体を何とか起こそうとすると、殿下が背中を支えてくださる。

ゆっくりと、大きなクッションにもたれかかるような姿勢にしてくださった。


「……たっ?……ええっと、急に、た、立ち上がろうとするのは危ない」

 《……とりあえず、良かった……顔色が戻ってきたようだ。俺の顔色は今、どんなことになっているのだろうか……しかし、ちょっと待ってくれ……》


殿下のお心の言葉が、とても優しい。

そして、その隠れた言葉を裏付けるように、私を心配してくださっているお顔だ。

少し翳りの見えたゼニスブルーの瞳に釘付けになってしまう。

ああ、だめだわ……。

こんな予想外のことばかりが次々起きて、考えが少しも追いつかない。

母から、エルナは殿下に恋をしているのねと言われたことが、急に思い出されて胸が苦しくなった。


「ん? 恋? エルナ?」

 《エルナは今、『殿下に恋をしている』と言ったか?》


「え……?」

「は……?」


今の殿下のお言葉は、まるで私の心の声が、聞こえているような……。

そんな、まさか。

でも、いったいこれは……? 

母はあの薬をくださる時に、何て言っていただろうか……。


『心読みの薬で得られるものは、素敵なことばかりではないわ。相手も自分も傷つくことになるかもしれない』


自分だけではなく、相手も傷つく……。どういうことだろう……。

相手も、自分も……?

まさか……。

心読みの薬を飲むと、飲んだ者が髪の持ち主の心の声が聞こえるだけではなく、相手にもこちらの心の声が聞こえる……?

嘘よ、そんなことは……。

でも、先程の殿下の言葉からは、そうとしか思えなかった。


「あっ……」


思わず両手で口を塞いだ。

もしもそうだとしたら、今思ったことも殿下に聞こえてしまったかもしれない……。


「……かもしれないではなく、はっきり聞こえたよ。心読みの薬とは何のことなのか、話してくれるよね、エルナ」

 《心読みの薬とは……》


微笑みの消えた殿下の美しいゼニスブルーの瞳が、初めて恐ろしいものに感じた。



***



殿下は私の手を取って、ベッドからそっと降ろしてくださった。

私はドレスの裾を直すのもぞんざいに、呆然としながら先ほどのソファまで殿下について行く。

人払いをなさったのか、部屋の入口の扉は開いていたものの従者たちは誰もいなかった。

ただ、大きな窓の向こうの護衛の者たちは、私がこの部屋に入って来たときのままだ。

殿下が手ずからカップにお茶を注いでくださる。

白磁のティーセットではなく、バラが描かれた優美なティーセットに変わっていた。

速く打ち過ぎている私の胸の音が殿下に聞こえるのではないかと思ったが、そう思ったことが聞こえているのだと直後に気づく。

私は紅茶をひと口飲み、覚悟を決めて『心読みの薬』について話すことにした。





「……なるほど、心読みの薬か。どうやって僕の髪を手に入れたのか分からないが、それもいずれ話してもらえると思っている。それよりもまず確認したいのは、どうしてそんなことをしたのかということだ」

 《そ……う、理由……を……聞き……》


お心の声が途切れ途切れになってよく聞き取れなかったが、殿下は真っ直ぐに私の目を見ている。

まるで、逃がさないとでも言うように。

この部屋に入ってから、私が声を出した言葉を追いかけるように、私の思ったことがすべて殿下に聞こえていたのなら、逃げられるはずもなかった。

もはや、きちんと声にして伝えるしか私に選択肢はない。


「……私は、この婚約が殿下のお心に反したものなのだと思っておりました。殿下が『ご配慮王子』と揶揄を含んだ呼ばれ方をされていらっしゃるように、殿下のご配慮により本当にお好きなご令嬢を諦めて……そのご令嬢より何もかもが格下の私を婚約者になさったのだと思い、浅ましくも、殿下のお心を知りたくなったのです。本当のお心を知った上で、殿下にとってこの不本意な婚約を解消してもらえたらと、そう思ってのことでした」


それが本当なら、婚約を解消し殿下が真にお好きなかた……リラローゼ・ケートマン公爵令嬢と……婚約を結び直すことができるようにと……。


「……リラ、という部分しか君の心の声が聞き取れなかったが、もし、君の言うところの本当にお好きなかたというのがケートマン公爵令嬢のことなら、それはまったくの誤解だ。そんな誤解をしていたのか……。いや、僕がはっきり言葉にしてこなかったせいだな……すべては僕が悪かった」

《……じぶ……きもち……う……まく……》


私のほうも、ほとんど殿下のお心の言葉が聞き取れなくなっていた。

母は、半日はこの状態が続くと言っていたのに、どういうことだろう。


「先ほどまで、追いかけるようにはっきり聞こえていた君の心の声が、もう聞こえなくなってしまった。僕の心の声はどうだろうか」


殿下の言葉の後に少し待ってみても、もう何も聞こえなかった。


「私にも、殿下のお心の声は聞こえなくなりました」

「そうか。それならちょうどいいな。煩わしいこともなく、しっかり話し合えるというものだ」

「……本当に、このようなことを……申し訳ございませんでした。お詫びをして、許されることではないと思っております」

「いいんだ。このような機会があったおかげで、僕の気持ちを何も伝えてこなかったことに気づいたのだから」

「殿下……」




「どこから話せばよいのか迷うが……」


そう殿下はおっしゃってゆっくりと話し始めた声に、私はじっと聞き入った。


「まず、父である陛下からケートマン公爵令嬢との婚約を打診されたことは一度もなく、僕が希望したこともない。十四歳の誕生日を迎えた日、陛下からずいぶん背も高くなり大人びてきたなと言われ、誰かこれといった令嬢が心に居るのかと問われて、エルナ・クリューガー嬢、迷うことなく君の名を答えた。十二歳になってから兄上たちや僕には、教会の日曜礼拝の裏方の仕事が与えられるようになった。礼拝の裏方と言えば、様々な雑務があった。君も、手伝いに来ていたね」

「はい。ですが、双子の王子殿下がいらしていた記憶がありませんが……」

「そうなのだ。上の兄は、教会の控室や倉庫は空気が悪く咳が止まらないと言って、いつも隣接の公園にいた。下の兄は、最初から馬車を降りると公園に駆け出して行った。そのうち、兄たちは教会の裏方の仕事には向かないと、別の案件を与えられて教会には行かなくてもよいとされたのだ。僕にはそれも好都合だった。兄たちがいないほうが作業は捗る上、君と話す機会も増えたから」


十二歳になると、貴族の子どもたちは教会や孤児院、救護院などで手伝いをするようになる。王族のかたがたも例外ではなかった。王族や貴族は、平民に手を差し伸べるものだということを子どもの頃から教えられる。

教会では、フリッツ殿下が活躍なさっていたが、話す機会はあまりなかった。


礼拝で歌う歌集を席に着いた人たちに配り、礼拝が終わると集める仕事をしていた時、フリッツ殿下と組んだことがあった。

殿下が歌集の入った箱を持ってくださり、私がそこから歌集を取り出し一人一人に手渡していく。

ただ『どうぞ』と言って渡すだけだが、中には声をかけてくる人もいる。

それにほんの少し応じても、フリッツ殿下は黙って大きな箱を抱えたまま待っていてくださった。しかも、歌集を取り出す私に合わせて箱を低くしてくださるのだ。

私はそんな小さなできごとで、密かに胸をときめかせていた。

先程、殿下の双子の兄王子の方々がいらした記憶が無いと言ったけれど、一度だけアンドレアス第一王子殿下と組んだことを思い出した。

その時、私が薄着のおじいさんに『ストーブの近くのお席に移りますか』というようなことを言ったら、アンドレアス殿下が『余計な話をせずに早く歌集を配れ』と声を上げるほど不機嫌にさせてしまってお詫びをした。


「殿下は、いつも働き者でいらっしゃったことを覚えています。何度も助けていただきました」

「君はいつでも丁寧で、どのような人にも親切だった。僕はそんな君を見ていて、好感を持った。中には僕が何かしようとすると『そんなことは私がやります』と取り上げておきながら、後で誰かにやらせる令嬢もいたのだ。君は僕が高い棚を拭いている時『ここから下は私がいたしますので、隣の棚の高いところをお願いいたします』と言って、床に膝をついて低いほうを拭き始めた」

「そのようなこともございました」

「あれは、背の高い僕が高いところを拭いて埃が落ちた後、君が低い所を拭いて行けば効率がいい、適材適所ということなのだと気づいた。僕は感心もしたし、僕に阿らない君への興味も生まれたんだ。僕に棚を拭くように言う者など誰もいないからな。そうして二週に一度やってくる、教会の裏方の作業がとても楽しみになった。神には、動機が不純だとお叱りを受けそうだと思ったものだ。そうして一年ほどが過ぎ、陛下から誰かこれといった令嬢はいるのかと問われた時に、君の名前を挙げたんだ。話が長くなってきたから、お茶を入れ替えよう」


殿下は席を立ち、外にいた従者に指示を出した。

そして今度はティーカップではなく、ミルクティーをたっぷり注いだマグカップが私の前に置かれ、隣にマフィンの載った皿もあった。


「先ほど君がくれたマフィンを温め直してもらった。君もどうだろう。バターの香りがいいね」


殿下はマフィンを食べながら、教会で一緒に作業をしたときのエピソードをいくつかお話しくださった。

はっきり覚えていることもあれば、記憶にないこともあった。

先日のお茶会でも少しお話しをされたけれど、単に私と接点のあったことを、お茶会の話の材料に引き出した程度のことだと感じていた。

こんなに殿下が大切に思ってくださっていたとは、思いもしなかった。

殿下は本当に、私との婚約を望んでくださっていたと少しずつ思えてきた……。

そして、お話はリラローゼ様のことに移った。


「二つ年上の彼女のことは、幼馴染というほど親しかったわけではないが小さい頃からよく知っている。三大公爵家のどの家とも、それなりの付き合いがあった。今も、会うことがあれば普通に話をするよ。彼女は僕だけでなく兄上たちのことも、弟のように思っているらしいから。そしてリラローゼ嬢に未だ婚約者が決められていないのは、僕とはまったく関係がない。そろそろ公にしても良いとのことらしいから言うが、彼女は自身の護衛騎士と密かに想い合っている。だが、彼の父親は騎士爵であるものの、本人はいずれ自身で身を立てなければ貴族でいることもできない立場の護衛騎士との結婚が許されるはずもなかった。リラローゼ嬢は、公爵に内密に親戚筋に手紙を書いては、護衛騎士カール・アウラーを養子にとってもらえないかと頼んでいたそうだ。そして、母方の親族であるユンカース伯爵家の養子にすることを受け入れてもらえたという。公爵に内密にといっても、リラローゼ嬢の行動を公爵はすべて把握しており、最終的にはユンカース伯爵に公爵自らが裏で願い出て話をまとめた。ようやくリラローゼ嬢は、カール・ユンカースとなった護衛騎士との婚約が決まったんだ」


リラローゼ様は護衛騎士と恋仲だったとの話は、私の耳に入るようなことはなかった。

ケートマン公爵は、そのような噂が立たないように抑えていたのだろう。

それなのに、私も『ご配慮王子』という噂に踊らされていた愚か者の一人だった。


「そうだったのですね……。それなのに私は勘違いをしてしまい、お恥ずかしい限りで申し訳ない気持ちでいっぱいです」

「いや、それは仕方がないのだ。兄上の婚約者の令嬢たちも、僕の婚約者がリラローゼ嬢ならいいのにと口にしていたし、リラローゼ嬢が自分にはそんなつもりは全くないと言っても、その言葉さえリラローゼ嬢の『配慮』だなどと受け取られるだけだった。僕は配慮という言葉を嫌いになっていた」

「私は、そんな殿下の思いに至ることもできず、殿下のお心を覗くようなことを……」

「僕が伝えなかったのが、ただただ悪かった。僕は十二の頃からずっと君が好きだ」


あまりに真っ直ぐなその言葉に、返すべき言葉が見つからない。

常に冷静であれという婚約者教育が、少しも役に立たない。


「エルナ、君は僕の本当の心を知ったらこの婚約を解消してもらえるようにすると言ったね。それが誤解だと、エルナとの結婚を心から望んでいる僕の本当の心を知った今、どうしたいと思っている?」


殿下の青い瞳がまっすぐに私を見ている。

その澄んだ湖のような瞳は、どこにも迷いも嘘もないと感じた。

配慮などない、殿下のお心が私を望んでくださっていることを受け止められる眼差しだ。


「私も、フリッツ殿下のことを……お慕いしております。殿下と伯爵家の執務を行いながら、穏やかな日々を共に過ごせたらというものが、今の私の夢と希望です」


「エルナ、よかった……。君の別の声が聞こえ始めたとき、君を想うあまりついに僕は頭がおかしくなり、神から何かを試されているのかと思った……よかった……エルナ」


殿下はソファの背もたれに身体を沈めて、天井を仰ぐような姿勢になった。

すぐに体勢を戻し、


「そうか、エルナはそんなにも僕の本当の心が知りたかったのか……。なんだか嬉しいな。そのような薬を飲むのは勇気が要ったろうに」


殿下は花がほころぶように、心から嬉しそうに微笑まれた。

そんな殿下の素敵な笑顔をまっすぐ見ていられなくて、自分の膝あたりに目を落とす。


「心の声が聞こえなくても、エルナの表情を見ていると何となく判るものだね」


殿下のその言葉に、ハッとする。

私は殿下のお心が知りたいばかりにいつも上の空で、まっすぐ殿下のお顔を見ることもなかったかもしれない。

目の前にいらっしゃる、婚約者であるフリッツ殿下のお顔をしっかり見ていれば、殿下のおっしゃるように心の声が聞こえなくても、そのお心が分かったのかもしれないのに……。

私は自分の短慮に、恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになった。




殿下が馬車停まりまで送ってくださった。

別れ際、

「僕はこれからご配慮王子という二つ名を返上できるように、堂々としていようと思う。そんなふうに言われていることは、僕にも原因があった。やはりどうしても、兄上たちには遠慮してしまう気持ちが拭えないでいた。でも、そのせいで大切なエルナを悲しませていた僕の罪を忘れないでいく。これから少しずつでも変わっていく僕を、エルナは見ていてほしい」

「フリッツ様……。私も何か思うところがあれば、すぐにフリッツ様にお話しするようにいたします」

「うん。本当に良かった。お母上に感謝したい気分だ。また次の茶会について連絡する」

「はい。今日はありがとうございました」


帰りの馬車も行きと同じくらいに揺れていたはずなのに、私は雲の上にいるようなふわふわした気持ちでいた。

心読みの薬を飲んだら、思いもしなかった殿下の本当のお心を知ることになった。

殿下のお心を覗くようなはしたない自分に恥ずかしくなった一方で、殿下から嬉しいお言葉をたくさんいただき、夢を見ているかのようだった。


それから伯爵家の家に戻ると、着替えも後回しにして母の部屋に向かった。

薬を飲んでから半日は心の声が聞こえるはずなのに、途中で聞こえなくなった理由を尋ねると、薬を飲んだらゴブレット一杯の水を飲むと言ったのは、効果が早く消えるようにするためだったと母は言った。

『エルナのことだから、変なことを思い浮かべる前に早めに効果が切れるようにした方が良いと思ってのこと』と満足そうに言う母に、少し意地悪を返したくなった。


母が何故、心読みの薬を使ったのかを尋ねた。

すると、従者棟に預けている、庭に迷い込んでいるのを母が保護した犬の心の声を聞こうしたというのだ。

すでに愛情が芽生えて手放したくはなかったけれど、テゾーロ(宝物)と名付けた犬が可愛いが故に、戻るべき場所を探してやりたかったという。

私が恐る恐る、テゾーロの心の声はどのようなものだったのかと聞くと、

『バウバウという鳴き声のバリエーションが聞こえただけで、何と言っているのかは全く分からなかった』と母は笑った。

私も驚きながらも笑った。

心読みの薬を使った理由に、どのような母の闇があるのかと考えていたのに力が抜けた。

本当はそれ以前にも使ったことがあったのだろう。

でもそれは、母が前に言っていたように、私がもう少し大人になれば教えてもらえるのかもしれない。

犬の心の声は、鳴き声のままに聞こえる。

あまり使い道のない知識が一つ増えて、母の友人のテゾーロに私も触れたくなった。



***



今日は、リラローゼ様の内輪の婚約披露パーティにお招きいただいている。

フリッツ殿下が私の希望を聞いてくださり、色を殿下とお揃いにしたドレスを作っていただいた。

殿下はオレンジ色がお好きだと伺ったので、オレンジ色のドレスをとお願いした。

互いの髪色とも瞳の色とも違う、殿下がお好きだと言う色を纏って参加したかった。

迎えにいらしてくださったフリッツ様は淡いグレーにオレンジ色をアクセントに使ったコートが濃紺の髪にとても映えていた。

いつも厚めに下ろしていた前髪を後ろへ流して、美しい瞳がよく見えて頬が熱くなった。


パーティ会場で、アンドレアス第一王子殿下と婚約者のユーディット様、ベルンハルト第二王子殿下とイルメーラ様がいらっしゃり、フリッツ殿下にベルンハルト殿下が声をお掛けになった。


「リラローゼ嬢に婚約者が決まって残念だろう、フリッツ」

「わたくしたちも、フリッツ殿下とのほうがお似合いだと思っておりましたのに」


すると、ユーディット嬢がお二人を諫めるようにおっしゃった。


「まあ、イルメーラ様、お声が大きいですわ。リラローゼ様があんなに晴れやかなお顔をなさっているのを初めて見た気がします。わたくしたちは申し訳ないほどの勘違いをしていたのですわ」

「勘違いなのですか? フリッツ殿下はリラローゼ様と婚約なさりたかったのでしょう?」

「僕にはエルナという、心から愛する婚約者がいますので。イルメーラ嬢、今後はそういう言葉を控えてもらえるとありがたい。でも誤解をさせてしまっていたのは僕のせいです。これからは遠慮なく、エルナへの想いを表に出していきますから」


フリッツ殿下が間髪入れずに言い返したので、四人の方々は目を見開いた。


「そうか。フリッツは何だかいつもと雰囲気が違うな。それに、エルナ嬢も」

「……そうだな。俺たちが間違っていたの……だな。イルメーラが言う事が正しいのだと思い込んで、フリッツの気持ちを尋ねることさえしなかった」


双子の王子殿下は、バツが悪そうな曖昧な微笑みを浮かべた。

イルメーラ様はまだ何が言い足りないようすではあったけれど、ベルンハルト殿下に促されてフリッツ殿下に謝罪をした。


フリッツ殿下がいつもと違い前髪を上げて、三人の王子殿下の中でたった一人、陛下のお色を受け継いだ瞳をはっきり見せている。

ヘレーネ妃殿下譲りの濃紺の髪で、陛下譲りのゼニスブルーの瞳をもう隠すこともないのだ。

もちろん背筋も伸ばされて、今日は本当に堂々となさっていて……素敵だった。


ホールの中央でゆったりとしたワルツを踊る、リラローゼ様と婚約者のかたが眩しく見えた。リラローゼ様の微笑みが心からのものだと、この距離からでも分かる。

くるりと回るたびに、ドレスの裾から幸せが舞いあがっているかのようだ。

お二人のためのワルツが終わり、楽団が別の曲を奏で始める。


「エルナ、僕らも踊ろうか」

「はい」


私はフリッツ殿下に手を預け、ホールのやや端で殿下と向かい合う。

ドレスの裾を持って微笑むと、いきなり殿下が私を抱き上げ、くるりと回って下ろされた。

周りがワッと沸いて、恥ずかしさでいたたまれなくなる。


「エルナと踊るのは初めてではないのに、今夜が初めてのような気がしているんだ。朝までだって踊れそうなくらいに、身体が軽い」

「……朝までは……少し無理そうですわ」

「そうだよね、僕はどうかしているな」


それから殿下は最初に驚かされた時とは別人のように、優しく紳士的なホールドで私を楽に踊らせてくださっている。


心の声を聞いてから、私に向ける言葉も接し方もそれまで感じていた距離感のようなものも無くなっている気がする。

私自身とてもラクに感じていた。

これまで殿下がご配慮で私に対応してくださっていると思っていたので、こちらも最大限の配慮の下に言葉や態度を選んでいた。

今は心で思ったことを装飾せずに伝えても、しっかりと殿下が受け止めてくださると思えるからか、すぐに返すことができている。

心に乗せられていた重石が消えたような感じだ。


「エルナ、何を考えている? 僕とのダンスから心を離されては困ってしまうよ」

「フリッツ様のことですわ。もうずっと、フリッツ様のことばかりで頭も心もいっぱいです」

「嫉妬の相手は僕なのか! 今は目の前の僕だけを見ていてほしい」


ホールの灯りが映る眩い瞳が、私を捉える。

触れ合う手もみつめられる頬も熱い。

フリッツ殿下とのダンスが描く軌跡はきっと、くるくると回りながら明るい未来へと続いている。




    おわり


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