1-8.ライースの妹
――あ……ここって、『キミツバ』の世界なんだ――
ライースに抱きしめられた感激で、気を失うその瞬間、あたしはこの世界――舞台――がなんなのかを悟った。
あたしが転生したこの世界は、前世でやり込んでいた乙女ゲーム『君に翼があるならば、この愛を捧げよう』の世界だ。
タイトルが長いので、略して『キミツバ』のゲーム世界……。
不意に、あたしの脳裏に美しい映像が紙芝居のように蘇る。
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黒髪、黒い瞳の美しい青年が、水中へと迷うことなく飛び込み、水底を目指して泳いでいく。
青年が見つめる先には、水底に沈んでいる亜麻色の髪の少女がいる。
足が石の隙間に挟まってしまったのか、少女は水底に留まったままだ。
青年は一度、水面から顔をだすと、大きく息を吸い込み、再び水中へと潜る。
水中には幾筋もの夏の光が、キラキラと差し込み、底の方まで照らしていた。
黒い髪は水中でゆらゆらと揺れ、黒い瞳が深い色をたたえている。
水のなかで、青年は夏の日差しを背後に浴びて、燦然と輝いていた。
とても幻想的で、とても綺麗な……天使が降臨したかのような光景だった。
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……これは、『キミツバ』のスチル画像だ。
かつて『キミツバ』の第一部が完結したときに、その記念として、各キャラの過去を知る期間限定の特別イベントが開催された。
事前に登場キャラの人気投票が行われ、上位五名のショートストーリーイベントが作成され、公開されたのである。
人気順位が上位のキャラほど、閲覧するための難易度は高く、また、キャラがしゃべる時間も多く設定されているという、ファン殺しのゲームイベントだった。
あたしがデジャブを感じたシーンは、そのイベントに参加し、ゲーム得点上位にランクインした者のみに限定公開された『ライース・アドルミデーラ 真夏の静養地編』のシークレットスチル画像だ。
(ああ……また、あの光景を目にすることができるなんて……しかも、今回は音声だけじゃなくて、キャラがめっちゃくっちゃたくさん動いてた!)
意識が遠のいていくなか、『ライース・アドルミデーラ 真夏の静養地編』が発生したんだ、とひとり納得する。
なかなかの順調な滑り出しじゃないだろうか。
この調子でどんどん、他のイベントのスチル画像に遭遇していきたい。
ライースとカルティの声が遠くで聞こえたが、あたしの意識は幸福感に震えながら、ゆっくりと沈んでいく。
ゆっくりと、沈んでいく……。
ゆっくりと……沈みながら、なにかが、ひっかかった。
(ちょっと、まって……『ライース・アドルミデーラ編』の内容って……)
あたしは、必死に、たった今、思い出したばかりの『キミツバ』情報をかき集める。
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ライースの幼い妹は、身体が弱く、双子の弟が亡くなったのをきっかけに、領地の別荘で静養することとなった。
だが、なにもない田舎の単調な日常に飽きたライースの妹は、口うるさい従者の目を盗んで、こっそり部屋をぬけだすこと考え、成功する。
もうじき見舞いにやって来るという、旅好きな兄に、お守りとして、四つ葉のクローバーの押し葉を渡そうと……ライースの妹は考えたのだ。
屋敷を抜け出したライースの妹は、池の周囲で四つ葉のクローバーを探しているうちに、足をすべらせて池に落ちてしまう。
ライースの妹が部屋にいないと、従者が気づいたのは、少女が池に落ちてから数時間後のことだ。
従者は他の使用人たちと一緒に、必死になって屋敷の中を捜すが、少女を見つけることはできなかった。
別荘に到着したライースも、部屋から消えた妹の行方を一緒に探しはじめる。
ライースは池に浮かんでいる女の子のくつを発見し、池に飛び込んだ……という話だ。
その後、ライースは池の底で冷たくなっている妹を発見して助けだすが、時すでに遅しで、妹は帰らぬひととなっていた。
冷たくなっていた妹の手には四つ葉のクローバーがしっかりと握られており、妹を救うことができなかったライースは、心に深い傷を負ったのである。
そして、少女の世話を任されていた『従者』は、激怒した少女の父親に、激しく鞭打たれた。さらに罪人の烙印を押され、領地から追い出されたのである……。
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再びあたしが目を覚ましたとき……。
あたしは推しのグッズ――ライース・アドルミデーラ――で埋めつくされたアパートの狭い一室……ではなく、中世ヨーロッパ風の天蓋付きベッドが似合う立派な寝室にいた。
まあ、なんとなくそんな予感はしてたけど、夢オチではなかったようである。
ここまできたら、自分が『キミツバ』の世界に転生したことを、潔く受け入れるしかないだろう。
あたしが寝ていた寝台に変化はなかったが、静かだった寝室は、大勢の人の気配がして、とても賑やかだった。
あたしが目を開けたとこに気づいたのか、室内が一気にざわつきはじめる。
「ふむ。気がつかれたようですな……」
穏やかな老人の声に続いて、さきほど聞いた声、記憶にある声が次々に重なる。
「おお! 気がついたか?」
「お嬢様!」
「レーシア! 大丈夫か?」
「どこか痛いところはないか?」
「身体の具合はどうだ?」
騒々しい世界にあたしは呆然となる。
「あなたたち……少し、落ち着きなさい。みっともないですよ」
老婆の凜とした声が、口々に発言する男性たちを問答無用で黙らせた。
これはまちがいなく、お祖母様の声だろう。
「あなたたち、診察の邪魔になるでしょう……寝台からさっさと離れなさい」
寝台にわらわらと近寄ってきた男性陣を、お祖母様はたった一言で下がらせる。
お祖母様はこの頃、体調が急激に悪化したとかで、伏せっていることが多くなっていた。起きたとしても自力で歩くことができず、車椅子での移動がほとんどだった。
顔色も悪く、食欲もなくて、日に日にやせ衰えていた。
弱っているにもかかわらず、声には威厳がある。
さすが、アドルミデーラ家の女傑と云われたお祖母様だ。
「フレーシアお嬢様、まずは、これをお飲みください」
上体を起こされ、吸い飲みの呑み口を口にあてられる。
(なにを飲まされるの?)
ガラス製の吸い飲みは、液体の色が見える。
液体は茶色っぽい色をしている。
なにか、苦いクスリなんだろう。
「薬は後で飲んでください。まずは、喉の乾きを癒やし、空っぽの胃をいたわる飲み物ですよ」
老人の説明に励まされるように、あたしは吸い飲みに口をつける。
ゆっくりと口の中にはいってくる液体は、ほんのりと甘く、後味もとても爽やかだった。
赤いブランドカラーと白の横文字ロゴで世界的に有名な茶色い炭酸飲料の炭酸がないタイプ……みたいな味だ。
ポテトとかハンバーガーが食べたくなる味である。
「一気に飲むと、空っぽの胃がびっくりしますよ。あわてないで、ゆっくりと、飲んでください。そう、その調子で……」
飲んでも大丈夫なものだとわかると、あたしは老人の言うとおり、ゆっくりと甘い液体を飲み込んでいく。
七日間寝込んでいたというだけあって、たしかに喉が乾いていた。
今はよくわからないけど、お腹も空いているにちがいない。
キャラを殺さないとやっていけない『キミツバ』の世界観に、魔法の回復薬というものは存在しない。回復魔法も存在しない。
選択肢の結果は、大怪我を負って死ぬか、怪我をしてもかすり傷程度で死なないという、どちらかだ。
ヒロインが『癒しや浄化の力を授かった聖女様ではない』というのが、普通の乙女ゲームとは違うところ、と、運営はドヤ顔で宣言していたが、それで他のゲームと差別化をしたつもりでいるのなら、なんともお粗末なものだ。
この液体は、前世でいうところの重湯か、栄養剤のようなものだろう。
今世で病気になって食欲がないときに、これに似たようなものをメイドに飲まされた記憶が蘇る。
あたしは、時間をかけて、吸い飲みの中を空っぽにした。
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