1-7.黒い瞳の青年
怯えたようなカルティの視線が、あたしから寝室への入り口へと移動する。
「おい! さっきの音はなんだ!」
新たな男性の声が入り口付近で聞こえた。口調はしっかりしているが、声はまだ若い。
中高生くらいの声だろうか。
声の主がわかるのか、カルティの身体が緊張で硬くなる。
あたしにもその緊張がびんびん伝わってくる。
ふたりして仲良く息を潜め、その声に耳をすます。
「これは……どうした! 扉が開いたままじゃないか? カルティはいるのか? なにか起こったのか?」
寝室に入ろうとして、ジャリ、パキッっという、ガラス片を踏みしめる音に、声の主は、「なんだこの惨状は?」と、驚いたような反応を示している。
「誰か! 誰かいないか?」
遠くにいる人を呼び寄せようと、声がさらに高く、大きくなる。
「坊ちゃま、お呼びでございますか?」
すぐに年配のメイドの声が加わった。
床に散らばっているガラス片に気づいたのか、女性の「あら、あら、まあ、まあ……」というような声が聞こえた。
「マイヤ、床のガラス片を片付けるように手配してくれ。破片の扱いには注意しろ。怪我をするなよ。うーんこの破片の量は……。シミも残りそうだし、絨毯ごととり替えた方がいいのか?」
「そうでございますねぇ……」
女性の方があきらかに年上なのに、青年の方が偉そうだ。こういうときは、命令するのに慣れた声という、便利な表現がある。
っていうか、絨毯ごととり替えるって……やっぱり、この家は金持ちじゃん。
マイヤと呼ばれた年配の女性は「承知いたしました」と答えると、手を叩きながら他の使用人の名を呼びはじめる。
あたしの場所からだと、寝台の天蓋が邪魔で、よく見えなかったが、入り口に複数の人が集まる気配がし、なにやら騒がしくなりはじめる。
カルティが怯えている。
想像していたよりも大事になってしまって、焦っているのだろう。
声の主がずかずかと室内へと入ってくる。
「カルティ! カルティはいないのか? ん? なんで、トレイがこんなところに落ちているんだ?」
部屋の隅に転がっているトレイの存在に気づいて、一瞬だけ歩みが止まったが、声の主はさほど気にする風でもなく、寝台へと近づいてくる。
「カルティ!」
(めっちゃいい声! カルティだけじゃなくて、あたしの名前も呼んでほしい)
堂々とした、腰のあたりから背中にじんと響く……甘い……イケボだ。
高性能のヘッドホンで聞きたい。
あと、十年くらいすれば、さらに重みと落ち着きもでてきて、ものすごくエロい声になりそうだ。
いや、絶対になる!
耳元で囁かれたら、腐女子は確実に、間違いなく秒で昇天する声だ。
「ライース様! わたしはここに!」
慌ててカルティが返事をする。
(ライース……?)
カルティの返事に、あたしの眉がぴくりと動く。
その名に聞き覚えがあった。
「ライース様! お嬢様が、意識を取り戻されました!」
「なにっ!」
カルティの言葉に、寝台を囲うカーテンが、勢いよく跳ね上がる。
「レーシア!」
夜の闇のような艷やかな黒髪に、深く吸い込まれそうな黒い瞳の青年が、あたしの顔をのぞきこんでくる。
歳は……前世でいうところの、高校生くらいだろう。
あまり眠っていないのか、目が充血しており、目の下にはクマができていた。
日焼けした肌に、すらりと引き締まった体躯。背が高く、姿勢がよい。獣のようなしなやかさをもちつつ、理知的な黒い瞳が、ベッドで寝ているあたしを真正面からのぞきこむ。
(あああああっっ!)
驚きと、興奮に、あたしはベッドから飛び起きていた。
(ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと! なにやってんのよ! あたし! のんびりぐーすか寝ている場合じゃないわよ!)
「お嬢様! いきなり起き上がってはいけません!」
カルティが慌てて、暴れるあたしを押さえつけようとする。
(ライース・アドルミデーラ!)
タペストリーに描かれている青年と比べて、十歳ほど若いが、間違いない。タペストリーの男である。
(あ……あたしの……推しがああああっっ!)
心の中で叫ぶ!
叫びまくる。
(腐女子の神様ありがとう! 生きてて、いや、実際には死んじゃったけど、よかった!)
と、同時に『ライース・アドルミデーラ』の情報が、脳内でビックバン状態になり、カルティのときと同じように、あたしの記憶として、津波のようになだれこんでくる。
頭がグラグラして、吐きそうになるが、ライース・アドルミデーラの前でリバースはよくない。
そんなことしたら、マジで生きていけなくなる。
なので、あたしは必死に我慢する。
あたしの葛藤を知らないライース・アドルミデーラは、寝台にいるあたしを見つめると、大きく息を吸い込んだ。
(な、なんてこと! ライースがあたしを見てる! あたしだけを見てる! もう、思い残すことはない! もう一回、いや、何度でも、何回でも死んでも大丈夫! これだけで生きていける! ゾンビのように蘇ってみせる!)
あたしがおとなしくなったので、空気を読んだカルティが、そろそろとあたしから離れていく。
「レーシア!」
次の瞬間……。
「はひぃつ!」
あたしは、ライースにおもいっきり抱きしめられていた。
「レーシア! レーシア!」
(なに、なに? なにが起こっているの? なんか、すごいことが起こってるよ!)
「このバカ! なぜ、あんなことをしたんだ!」
あたしを強く抱きしめたまま、ライース・アドルミデーラは早口で言葉をつづける。
「まだ、体調も万全とはいえないのに、なぜ、木登りなんかしたんだ!」
(ああ、そうだ。あたし、子猫を助けようとして、木に登って……枝が折れて……池に落ちたんだった……)
木から落ちるイベント。
池に溺れるイベント。
頭を強く打つイベント。
高熱でうなされるイベント。
これでもかっていうくらい、前世を思い出すテンプレイベントが一度に発生したわけだ。
そのどれが要因になったのか、それとも、全ての条件が揃ったからなのか、あたしは、こうして(不完全だけど)前世を思い出し、今はめでたくも(年齢的にはまだ成熟していないが)推しキャラに「がしっと」抱きしめられている。
「レーシア! みながどれだけ……どれだけ……心配したことか! 何日も目を覚まさず、熱にうなされ……」
あたしを抱きしめるライースの両腕に、さらに力が込められる。
温かな日向の匂いが鼻孔をくすぐる。
柔らかな肌のぬくもりと、穏やかな息づかい。
そして、力強いドクドクという鼓動が、あたしに伝わってくる。
「心配したんだぞ。もう、このまま……目を覚まさないのかと……」
少し震えているイケボが……あたしの耳元で囁かれる。
(うおおおおおっつ! ライース・アドルミデーラの生ボイスうっ! 人気声優――菊山礼一郎――の滅多に聞けない若づくり声!)
胸が……。
心臓が……。
嗚呼……バクバクします!
ライースは泣いてはいないが、今にも泣き出しそうな声だった。
あたしも許されるのなら、泣いて悦びの舞を披露したいです。
「本当に……よかった……。レーシアが生きててくれて……。目を覚ましてくれて……本当によかった」
「ライース様、落ち着いてください。お嬢様はまだ安静に……」
カルティの声が遠くで聞こえた。
なんだろう……。
この、夢のような時間は……。
あたしは、幸せ……いや、興奮のあまり鼻血をだして、そのままライースに抱きしめられたまま気を失ってしまった。
お読みいただきありがとうございました。
お気に召しましたら、
ブックマーク及び、↓下部の☆☆☆☆☆を押していただけるとやる気がみなぎります。