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1-16.あたしの名前は

 時刻はそろそろ真夜中になるだろう。


 いつもは、お祖母様とあたし、そして、お祖母様に昔から仕えていた使用人と護衛が数名しかこの別荘にはいなかったが、今日は、ライース兄様、お父様、デイラル先生が泊まっているので、遅くまで別荘は賑やかだった。


 さきほど、ホールにある時計の鐘の音が聞こえた。

 その鐘の音を合図に、別荘内が急に静かになる。


 この世界に時刻を知る『時計』はあるが、とても高価なもので、お屋敷にひとつあればいいほうだった。


 街には時計塔があり、人々はそれで時刻を知る。

 小さな村になると、太陽の位置で、だいたいの時刻の検討をつけているくらいだ。


 ゲーム内が、朝、昼、夕方、夜……といった、おおまかな描写しかなかったから、こういう世界なんだろう。


 あたしはベッドの中で「はぅ……」とため息を漏らした。


 今日の出来事がいまだに信じられない。

 夢のようなめまぐるしい一日だった。


 ライース兄様の必殺「あ――ん」で、あたしが夕食を食べ終えると、デイラル先生がお父様と部屋にやってきた。


 再びデイラル先生の診察が始まり、そのときに、あたしは「あたしの名前はフレーシア・アドルミデーラ。ジェルバ・アドルミデーラ侯爵の二番目の娘です」って言ったら、お父様は「よかった、よかった」と号泣してしまった。


 大泣きするお父様を見つめるライース兄様の目があまりにも冷ややかすぎて、あたしは心臓が止まるかと思ったくらいである。


 あたしの診察を終えたデイラル先生からは、ふぉっ、ふぉっという笑い声とともに、不気味な色の煎じ薬を渡された。


 苦い匂いが漂う不気味な薬に恐怖を覚えたあたしは「飲みたくない」と、涙ながらに訴えた。


 だが、お父様やライース兄様の無言の圧力に負けて、あたしは泣きながら、苦い、苦い薬を飲み干した。


 病み上がりにあの味はきつい。


 それこそ、空っぽの胃がびっくりするだろう。


 というか、どうして、アレを薬だと認識できるのか……。最初に調合したヒトは、どういう神経をしていたのだろう。この世界の設定が怖い。


 寝室の中にはあたし以外、誰もいない。

 さっきまでカルティが側にいたので、眠ったフリをしていたが、あたしの体調に変化がないのを見届けると、カルティも部屋からでていった。


 ライース兄様もカルティも、あたしが高熱にうなされていた間、あたしの看病でろくに眠らなかったと聞いた。


 王都にいたお父様も、あたしが池で溺れて生命が危ないという連絡を受けると、馬を乗り継ぎ、休憩もそこそこにここまでかけつけたという。


 疲れているみんなには、安心して、ゆっくりと眠ってほしい。

 ちょっとやそっとのことでは起きることなく、ぐっすりと寝ていてほしい。


 ……ということで、ようやく、ひとりきりになり、あたしはゆっくりと考える時間ができたのだ。


 あたしはそろそろと天蓋つきのベッドから抜け出すと、目覚めたときに目にしたあの大きな鏡の前に向かう。


 みんなが心配していただけあって、数歩歩いただけで、足ががくがく震えて、足取りがおぼつかない。

 寝室からはでない方がよいだろう。

 屋敷内をウロウロすると、息切れして倒れてしまいそうだ。


 池に落ちた時に頭を打った傷みも、そして、この疲れもとてもリアルだった。


 この世界の月はずっと満月で、しかも月が三つもある。

 明かりがなくても夜はそこそこ明るい。


 窓のカーテンは開けたままになっているので、明かりがなくても、安心して室内を歩き回れる。


 夜にヒロインが攻略キャラとイチャイチャするために、夜の闇は少し明るめな設定になっている……というわけだ。


 あたしは大きな鏡の前で腕を組むと、鏡に映った亜麻色の髪の少女を見つめた。


「さて……」


 少女のあどけない声が、小さな口から漏れる。


「あたしは……誰なんだろう?」


 鏡の中のあたしは、不思議そうに首をかしげている。


**********


 前世のあたし。


 辛うじて、二十代。


 女性。


 地方の田舎から、大学進学のために上京。

 そのまま就活をして、現在は、都内のアパートに一人暮らし。


 仕事は……う――ん、広告代理店の企画営業……だったかなぁ?

 会社名は思い出せない。


 後輩と新任の上司には足を引っ張られていたけど、クライアントとの関係は良好で、仕事が普通にできる女子だった。


 趣味は……あれ。


 あれだ!


 イケメン二次元をこよなく愛し、イケボキャラにもろもろの金を注ぎ込み、アニメを見て、ゲームをプレイして……BがLoveするお話が大好物で、BがLoveしてなくても、イケメンがたくさんでてくるお話が超絶大好きで、それにどっぷりと浸っている……泣く子も黙る慎ましい腐女子だ。


 学生時代は陸上部で、走るのが好きだったんだけど、働きだして、なんかお金とストレスが溜まったら、変な方向に走っちゃった……ってパターンだね。


 思い出せないのは会社名や、あたしを困らす後輩や上司の名前だけではない。

 あたし自身の名前もよく思い出せないでいた。


 若干、趣味への振り幅が極端だったかもしれないけれど、ごくごく普通な……警察の前では背筋がぴしっと伸びる善良な一般市民だったと記憶している。


 鏡の中のあたしは、現在、眉間にしわを寄せて考え込んでいる。


(……前世の名前を忘れてしまっていても、今世で生きていくにはなんら問題ないから……ま、いっか)


 効率重視。

 無駄で無意味なものはざっぱりと切り捨てる。


 名前が思い出せないのなら、がんばって前世での最後の記憶とやらを探ってみる。


**********


 あたしは、明日の企画会議に使うプレゼン資料を、終電間際まで作業していて、なんとか完成させた。


(うん、なんか、ぼんやりとだけど、思い出してきた。上司とか、後輩の顔はうっすら……へのへのもへじでしかないけど)


 プリントアウトするのは忘れたけど、帰宅するために、駅の構内に駆けこんで……なんとか電車に乗ることができた。


 そして、乗り換えのためにホームの階段を登ってたら、目の前にいた酔っ払いが、バランスを崩して、あたしの方に倒れてきたのだ。


 あたしは反射的に酔っ払いを支えようとしたんだけど、支えきれずにあたしもそれに巻き込まれて……さらに、後ろにいたひとと一緒に、ひとまとめで階段から転落した……ところで、記憶は途絶えていた。


(あちゃ――。ひどい目にあったな――)


 他人事のような響きの独り言が漏れる。

 三人でもつれ合うようにして、階段から落ちたのだろう。

 仰向けでひっくり返って、後頭部を階段にぶつけた……と思う。


 あの高さから転がり落ちたのなら……打ちどころが悪ければ、死んだとしてもおかしくはない。

 生きていたとしても……かすり傷とかそういうレベルではないだろう。


 で、あたしは、電車の中でプレイしていた『キミツバ』の世界に転生した……という流れだ。


 夜の駅構内での三人がからんだ事故。

 ネットニュースくらいにはなっただろうか。

 近頃は驚くような事件が立て続けに起こっているから、酔っぱらいサラリーマンと疲れたOLと……もうひとりの巻き込まれてしまった不運なヒトが階段から転落した……なんて、ちっぽけな出来事だろう。


 田舎の母親は何度かあたしのアパートにやって来ていたので、部屋の状態は知っているが、あのタペストリーは知らない。


 しかも、価値などわかるはずもないから……燃えるゴミとして処分されてそうだ。

お読みいただきありがとうございました。

お気に召しましたら、

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