1-1.茶トラの子猫
みやぁ。みゃぁ。みゃぁ……。
怯えたような子猫の鳴き声が、夏もそろそろ終わろうという空の中に吸い込まれていく。
「大丈夫。大丈夫、だから……じっと、じいっと……してるのよ……」
あたしは幹に捕まりながら、そろそろと、枝の先端へと手を伸ばしていく。
なんとかがんばって、ここまで登ることはできた。
だけど、あたしの体力は限界にきていた。
このところ身体の調子がよくなったから……といって、無理をしすぎたみたいだ。
「き、木登り……って、こんなに疲れるんだ」
子猫が登れたから、自分も簡単に登れると思ったのが間違い……。
いいや、あたしがやろうとしていることは、少しもまちがっていない。
逃げたくなる自分を勇気づける。
茶トラの子猫が怯えたように、枝の先へと移動していく。
(だめ! それ以上、動いちゃだめ! 落ちちゃうから!)
この木は、池のそばに生えている。
子猫が枝から落ちた場合、地面ではなく、池の中に真っ逆さまだ。
(落ちたら、溺れちゃう!)
「なんとしても……ぜったいに、ねこちゃんは、助けるんだから!」
あたしは怯える子猫に向かって、懸命に手を伸ばす。
あとちょっとのところで手が届かない。
「お、お嬢様……危険すぎます! 降りてください」
「しずかに! さっきからウルサイわよ! たすける気がないのなら、だまってなさい!」
木の根元でオロオロしているお祖母様の従者……今は、あたしの世話係兼監視役の少年を一喝する。
従者のくせに、主人に命令するなんて、生意気なやつだ。
あたしを見上げる従者の焦げ茶色の瞳には、涙がじんわりと浮かんでいた。
今にもその涙が零れ落ちそうだ。
木の下でオロオロしている少年は、上流貴族に仕える従者らしく、立ち振舞もきちんとしており、身なりも整っている。
肌艶はよく、赤錆色の髪は丁寧にくしけずられ、幅の細い赤いリボンを使って後ろで一つにまとめられている。
屋敷から支給されている、子ども用のお仕着せをきっちりきこなしており、それなりに似合っている。
見た目はまあまあ……いや、そこそこ整っており、合格点といってもいいだろう。
でも、あたしより二つ年上なのに、ちっとも度胸がない。
自信がないのか、いつもウジウジして、下ばかりを見ている従者だ。
村の同年の男の子と比べて、小柄だということも関係しているのかもしれないけど、この従者はあたしの行く先々にぴったりついてくる。
ニコリとも笑わないし、とにかく陰気で鬱陶しい。
側にいるだけでイライラするのだ。
この従者、もともと我が家で雇っていた使用人夫婦の息子だった。
気の毒なことに、数年前の流行り病で両親がふたりとも死亡したのだ。身よりもなく途方に暮れていたところを、領地の別荘で静養中のお祖母様が、周囲の反対を押し切って拾ったのだ。
なので、お祖母様だけには、とても忠実な従者だ。
孫であるあたしに対する接し方と、お祖母様に対する接し方が全然ちがうのだ!
そして、お祖母様のウケもいい。
それも面白くない。
全然、楽しくない!
真面目で働き者なんだけど、真面目すぎるので、あたしはこの従者が嫌いだ。
こいつといても、これっぽっちも、面白くないのだ。
色々と「あれはだめだ」「それは禁止されている」「これをしなければならない」「こんなことは許されない」「もっとおしとやかに」「侯爵家の令嬢なのにこんなこともできないのか」とか、色々と干渉してくるし、口うるさい。
あたしの監視役だから、そうなのかもしれないけど……。
二つしか年齢が違わないのに、こいつは、わたしにはとても偉そうだ。
なのに、周囲の顔色を伺ってばかり。
いつもオドオドしているので、あたしは、こいつは嫌いだ。
勉強もできるし、従者としての仕事もしくじることはない。
まだ八歳の子どもなので、そんな難しい仕事はしていないだろうけど、失敗して爺や――この別荘の管理を任されている、お祖母様専属の執事――に怒られているところはあまりみかけない。
屋敷内の武術訓練でも優秀らしいが、常になにかに怯えるようで、下ばっかり見ていて……。
今だってそうだ。
従者は「危険だ、危険だ」と言うだけでなにもしない。
子猫を助ける手伝いをするどころか、あたしを止めようともしないのだ。
木の根元でオロオロ、ウロウロするだけである。
木の下にいる役立たずは放置でいいだろう。まずは、目の前の子猫に集中する。
「みゃぉぅ……」
早く助けてあげたい。
あたしは意を決すると、幹からそっと手を離した。
震える太ももに力をいれ、枝からずれおちないようにする。
「お嬢様! 手を離してはなりません! 木に……木の幹に捕まっていてくださいっ!」
従者の甲高い悲鳴が聞こえたが、今は集中しよう。
あたしは、ゆっくりと、慎重に幹から枝へと重心を移動させていく。
こういうとき、女の子のドレスって不便だ。木登りするためにデザインされていないのが、残念だ。
子猫がいる枝は、下から見ていた以上に細く、ゆらゆらとしなっていた。
つまり、今にも折れそうで、安定感がないというわけだ。
「…………だ、大丈夫」
あたしは、自分自身に言い聞かせる。
夏だから、いや、緊張のために、全身にびっしょりと汗をかいている。
大人なら折れてしまいそうだが、子どもの体重ならば、なんとか耐えてくれそうだ。
耐えてもらなわないと困る
(あたし、がんばるから! だから、猫ちゃんもがんばって!)
あたしが動くたびに、しなやかな枝が怖いくらいにギシギシと揺れる。
すごく怖い。
それでも、あたしは、子猫を助けたくて、そろり、そろり、と子猫の方に近づいていく。
「いいこだから……。いいこだから……。あばれずに、そのまま、じっとしているのよ……」
手が届くギリギリのところまで近づくと、あたしはゆっくりと片手……ではなく、両手を伸ばした。
身体のバランスが崩れる?
そんなことに迷っている場合ではない。あたしは、子猫を素早く抱き上げた。
抱かれることになれていない子猫は、少しだけ抵抗したが、あたしの胸の中におさまると、静かになった。
「やった!」
「おっ、お嬢様――っ!」
あたしの叫び声と、侍従の悲鳴が重なる。
メリメリと音がして、視界がゆっくりと下がっていく。
(ああ……やばい!)
やばいけど、六歳のあたしにはどうすることもできない。
枝が折れはじめたのだ。
あたしは反射的に目を閉じ、子猫をギュッと抱きしめる。
なんだが、時間がゆっくりと動いているような錯覚にとらわれる。
「おじょうさま――っ!」
「レーシア!」
侍従の他に、別の声が聞こえた。
名前を呼ばれて、閉じていた目を開く。
世界が止まって見えた。
いや、世界はちゃんと動いている。
だけど……。
まるで、あたしをとりまく周囲の時間だけが切り離され、ゆっくりと、緩慢に流れているような錯覚に陥る。
猫を抱いたあたしがゆっくりと、池に向って落下していくなか……全速力でこちらに駆け寄ってくる黒髪の青年の姿が見えた。
黒髪の青年は、邪魔な低木を軽々と飛び越え、ものすごいスピードで走りながら、池の方へと一直線に向かってくる。
走っている途中で、青年は肩から下げていたカバンを勢いよく投げ捨てる。
さらには、旅人がまとう日よけの外套を脱ぎ捨て、腰の剣をベルトから外す。ポーチがついているベルトも外して、まとめて地面に投げ捨てる。
首元を飾っているスカーフもしゅるりと外し、上着を脱ぎ、鍛えられた上半身が見えそうになったとき……。
あたしが見ていた景色がくるりと反転し、青い夏の空が見えた。
バシャン。
ドボン。
あたしは、折れた枝と一緒に、子猫もろとも水中に落ちていた。
はじめまして。数ある作品の中から、お読みいただきありがとうございました。
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