移動
体の奥から湧き出る声がおさまり
簡易トイレのプラスチックのドアを開けて外に出ると
フリーマーケットの風景が飛び込んできた。
オオカミのひと吹きで吹っ飛んでしまいそうな小さな土産物屋が
祭りの屋台のように集まっている。
そこで売っているものは様々で、ラグや布民芸品いろんなものが並んでいる。
「なぁんか、いっぱいあるね」
彼女は私が幼稚園児のように
勝手に何処かに行ってしまわないか、目を光らせていた。
「ちゃんと手を洗ったの?
手洗いがありそうに見えなかったけど……」
「中に手洗いジェルが置いてあったよ」
彼女はヨシともダメとも言わず、屋台の間を進んでいった。
置いてある土産物の色と形に引き込まれる。
その物珍しさとトイレを済ませた安心感から、ゆっくりとみていた。
「ここからウチまでに、こういうところいっぱいあるわ。
欲しいものがあるんだったらタオスに入ってからでも買えば?」
タオスって云う英文字で地名は
彼女の住まいに郵便物を出すときに認識していた。
人の声で聞くとそれとは印象が違う。
ああ、そうか
タオスって云うんだと
頭の中の文字と声のイメージが結びつくのに
時間がかかった。
「いやぁ、今からお土産買っても
帰るまで持って回らなきゃならないしねぇ」
ここに並んでいる土産物の大半は
貼ってある製造国名で
地元で作られたものではないとすぐにわかる。
安価な値付けなものは見なくても当然の事だ。
「それにしても
こっちのって殆どないんだな」
「あら、ちゃんと書いてあるだけマシよ。
ひどいのは地元産って騙ってるのよ
。値段も高く付けてね」
お土産は
オリジナルの彩色形状そっくりに作られ
偽物と判っていても魅力的なオーラを放っていた。
結局土産物は買わず
店の外れの小さなドラッグストアで水を買った。
今出したのにまた入れる。
入れると出さなければならなくなるのに
また買う。
出したり入れたり忙しいことだ。
生きるというのは不便なものだ。
車に乗り込み
再びUS285Nに戻る。
道は相変わらず変化がない。
それでも多少は曲がっていて
走っていれば緩いカーブに差し掛ってくる。
曲がり出してから抜け出るまでに
30秒くらい走る緩さで
目をつぶって乗っていたら多分わからない。
カーブを越えると
道は山の向こうへ再びまっすぐに伸びている。
道の果てしなさは
土地の果てしなさなのだ。
ひたすら走っていく時間が
この広さと何も無いことを教えている。
どこまでも続く道は
地平の向こうに消えて見えなくなる。
しかしその先に行きついてもやはり何もなく
また先へと続いている。
地平線の向こうへ続く道は
いつまでも先があり
車はそれを追いかけて走り続ける。
ゆっくりと揺られながら
しかしかなりの速度で走っている。
ガラスの篭の中から見える風景は
止まっているように動かない。
時々に上下に揺れ
ラジオの音楽が変わりニュースが終わっても
窓の外は変化のない同じ絵のままだった。
45と書いた標識が向こうからやってきて
道の脇を過ぎ去る。
その数字と同じ色の標識が35になって
それが25の看板に変わっていく。
看板の数字が減って来ると
車の周りの風景が緑色に変化してくる。
緑は
集落に差し掛かってきた事を教えてくれている。
道路標識の数字が小さくなるに従って
道の両脇に木々が多くなってくる。
人が住んでいるところには木々が立っているのだ。
過ぎ去る標識の数字が少なくなると
道の周りが集落になってくる。
そしてそのまま進んでいくと町になってくる。
町と言っても店もなく
何件かの家が道の周りを通り過ぎて行くだけだ。
そういう風景を見ながら走っていると
再び標識の数字が大きくなってくる。
45という数字を見る頃には
いつのまにか緑の木々も消え
再び周りは何もない荒野になっている。
あまりにも暇で
いろんな事に目が向いてしまう。
じっと見つめているでもなく
ただ何となく眺めていると
気づかないことや気づいても
それに意味があるのかどうか
解らないようなことにまで
目が行ってしまう。
「前に来た時」
窓の外を見ながら何を考えるでもなく
口が動いた。
しかし、言葉はそれで止まり
またシートに身を任せ
沈黙の毛布に包まれていた。
シートとシートの間に
ソフトドリンクのカップが立ててあり
走る振動で中に何かが居るかのように
ガサゴソと音を立てる。
大きなプラスチックのカップの中身を覗いてみると
中にはレシートだ飲み物のキャップだのが
要るのか要らないのかも分からないまま突っ込まれていた。
「ほら、君がお世話になってたご夫婦さぁ」
今度はしっかり返答が来た。
「ハリーとベリンダね」
「そそ」
もう何年にも前に
彼女と一緒にアメリカに来ていたのだけれど
ちょうど私が日本に戻らなきゃならない時に
彼女の周りで色んな事が起き
一緒に日本に戻られなかった。
それでも我々は関係をあきらめたわけじゃないから
私も時間を見つけてこっちに来ているし
彼女も日本に戻ってくる。
5年前、私が日本に戻るときに
一緒に帰らなかった原因のひとつが
その夫婦だった。
「私もこっちに来て
しばらくお世話になってたしね。
それに最近は
いろいろお手伝いもしてたし…
前にあなたが来て…
あれからしばらくして
彼らデンヴァーに行ったのよ。
ハリー、ホントに末期になって
こんな田舎じゃ色々大変で。
苦しくないようにしてあげるだけなのにね…」
人はいずれ消えて行くものだ。
しかし
それまでの人生の垢を引き剥がすには苦痛が伴う。
生きて行くのが大変になってくると
生き続けるのに多くの人の手を煩わすことになる。
人の少ない場所では、手助けに来てもらうのも大変なことだ。
「ハリーは、その時……もう戻って来れないって
分かってたのね。
デンヴァーに行く時
自分たちの生ざまを知ってる住んでた風景を覚えてる人に使って欲しいって。
それで、あれを貰ってくれっていうことになったのよ」
「あのトレーラー?」
今回彼女に呼ばれたのはその『住まい』のことだった。
人には住む場所が必要で
それは誰にでも同じなのだけれど
彼女には土地への執着と云うものがない。
同じところに住み続けることに興味がない。
住まいの周りの人たちと繋がりもするし
いる場所、家への愛もある。
ただ、固執しない。
それに引っ張られないのだ。
窓の外は町らしい風景になって来て
道の脇にはガススタンドやモーテルが見えてくる。
それを横に見ながら走っていると
左の車線を大型トラックが横に並走してかぶさってくる。
この車も乗り込む時には大きいトラックだと思っていたのに
周りになじんでくると小型車のように
見下ろされ小さくなって走っているように思えてくる。
町の中に入る。
信号が見えてきた。
それがすごく珍しく、懐かしく感じる。
クオータマイルほど先にある信号に向かって
彼女はゆっくりと車の速度を落とした。
隣のトラックの前にはセメントミキサー車がいる。
ミキサー車は日本で見かけるものとは違い
コルネのようなクロワッサンのような
巻貝の形のドラムの前後が逆になっている。
見慣れていないので
こっちが逆に走っているような
妙な感じがする。
信号で止まる。
彼女はハンドルの上に両手をかけ少し下を向いた。
「もう半年になるわ」
「亡くなったら
埋葬はここが良いって
彼も言ってて……
ここに眠ってることだし
ベリンダにも私と住みましょうって言ったんだけど
彼女迷惑掛けられないって。
それで、娘さんのいるシカゴに戻って行ったの。
その時にね
もう……あれも必要ないから
あなたの好きにしなさいって」
「いろいろあったんだねぇ」
「だからあなたに来て貰ったのよ。
あの人たちの思い出
全部背負ってたら私が生きて行けなくなる。
だから
要らないものは
全部捨てるつもりでいたんだけど
でもね……
やっぱり自分じゃどうしても出来なくて。
いままで冷酷になんでも捨てて来た
『あなた』が居ないとダメなのよ」
「おいおい
それもなんだか…巡ってくるというか
ちょっとなぁ」
「気にしないで。
あなたはそうなんだから。
長所で短所、いまさらどうなる訳でもないでしょ?
イイように思えばいいのよ。
それにね……
ホントに大事なものは
捨てられない人だから大丈夫」
別れたわけではない
でも一緒にいるわけでもない。
5年前
私と一緒に日本に帰るのはつまらないと言い出して
そのまま残ってしまった。
あのときは愛想をつかされたのかと思ったけど
その後、どちらからも別れようって話にならなかったし
彼女も年に1度は日本に帰ってきて
数週間一緒に暮らしたりする。
別れるでもなく
くっつくでもなく
そのままの状態が
いつしか居心地良くなってしまっていた。
「そういえば……あの人。どうしてるの?」
「あの人?」
ああ、その話か。
離れているから気楽で
離れているから気遣いがあって
大丈夫なんだけれど
反対に離れているから気になることも出てくる。
彼女が気にかけているのは私の以前の話だった。
「あの子……ねぇ。どうしてんだろね」
「……相変わらず
冷たい奴気取ってるわね……」
「いや、ほんとは気にはなるんだよ?
でもやっぱり嫌でしょ?
普通、女性としちゃあ
前の男の気配を周りに感じるってのはさぁ。
だよね?
それに、キミだって
そんな話は聞きたくないだろ?」
「あら、そんなことは無くってよ。
それとも何かやましい事でもあって?」
気になる顔して聞いといて
聞いたあとで不機嫌になるのが判ってるのに
わざわざこっちからそんな話を持ち出すこたぁない。
ここで引っかかってしまうと
ご機嫌を損じて色々面倒なだけだ。