ベリーショート
私は今、髪を切ろうか悩んでいる。
理由は失恋だ。
片想いしていた一年上の部活の先輩に、彼女ができたのである。ちなみに彼女も同じバドミントン部。普通につらい。
少し前から、なんかあの二人の雰囲気が怪しいぞ、とは思っていた。最近とうとう付き合いだして、部活の後も二人で帰るようになった。特に公言はしていないけれども、周りが察するあれだ。バド部内ではもう公認カップルである。
それを知ったとき、私は当然ショックを受けた。そして、失恋そのものよりも、彼女の髪型がベリーショートであるという事実に一番ショックを受けている自分にショックを受けた。
どういうことか。順を追って説明する。
あるとき部活の休憩中、男子たちが集まって女子の好きな髪型について話していた。そこで、ショート派かロング派か、という問いに、先輩は即答していたのだ。
「ロング。断然ロング!」と。
当時まだ一年生で先輩への片想いも自覚したてだったピュアな私は、その発言を非常に重く受け止めた。それまで肩につくくらいの長さをうろうろしていたが、その瞬間から髪を伸ばし始めたのだ。
それから約一年。決して多くはないお小遣いをやりくりして、ヘアケア用品やら美容院やらかなり気を遣って綺麗に伸ばした髪は、背中の中ほどくらい。我ながら素晴らしいロングヘアを手に入れた。
私がそうして迂遠な努力を重ねて、とうの先輩に対してはもじもじしていたうちに、断然ロング派であったはずの先輩は小顔なベリショ美人と付き合い始めてしまったというわけである。
悲しいのと同じくらい、私の努力を返せ! と悔しさを抱いてしまった自分に呆れてしまって、散々落ち込んで立ち直るという失恋のプロセスすら中途半端になった私に残された悩みは、この髪である。
ここまで綺麗に伸ばしたのだから、切ってしまうのはもったいない。というかできれば切りたくない。でも、切ってしまいたい気持ちも少なからずある。どうしたものか。これをぐるぐる悩み続けている。
ところでこんなことを考えている現在は、絶賛日直の居残り中だ。
居残りと言ってもたいしたことはなく、部活もない日なので焦る必要もない。学級日誌を書いて、黒板を綺麗にして、明日の日付と日直の名前を書けば終わりだ。
この高校は、一クラス三十人。男女十五人ずつで、日直は出席番号順の男女ペアで行う。ちなみに三年間クラス替えもなく、必然的に日直ペアは三年間ずっと一緒だ。
そういうわけで、日直ペアの男子とは、それなりにそこそこ仲良く会話ができる。
私が日誌を前にして髪について悩んでいたからか、黒板を綺麗にしていたペアの男子――渡邊くんが、こちらを向いて首を傾げた。
「渡辺さん、どうしたの? どっか思い出せないとか?」
紛らわしいことに、私たちは渡辺と渡邊だ。渡辺未央と渡邊正樹。出席番号はそれぞれ男女の最後。字は違うがどちらもわたなべである。普通同じ苗字を同じクラスにはしないだろうが、これに関しては私のせいだ。ずっとシングルだった母が入学直前に再婚して、苗字が変わったのである。入学してから変わるよりはと配慮したつもりだったが、直前すぎて同じクラスに二人わたなべが存在する事態は回避できなかった。
クラスの皆さんも呼び分けに気を遣ってくださっている。気にしない人はわたなべ! と呼ぶので、たいてい二人してびくっとなる。
「大丈夫、全然違うことで悩んでて……ごめんね、すぐ日誌書いちゃうから」
「いや、いつもめんどくさい方やってくれてるから別に……」
私は別に日誌を書くのは面倒と思わないけれど、渡邊くんは面倒らしい。字を丁寧に書くのがそもそも面倒なんだそうだ。別に日誌の字が多少汚くても、誰もそんなに気にしないと思うのだけど。
そういう理由で、私たちは役割を交代することなくいつも分担している。私が日誌を書いて、渡邊くんが黒板を綺麗にし、日付と次の日直の名前を書く。
渡邊くんが、明日の日付を書くためのチョークを選びながら、再び口を開いた。
「何悩んでるの?」
「え? うーん……髪、切ろうかなあって」
「へー……」
どうでもよさそうだ。まあそうだろう。それなりに話す程度のクラスの女子が髪を切ろうがどうしようが、興味ないだろう。
ただ渡邊くんは結構律儀なので、話を振った手前続けようとしてか、私の方を振り返った。きっと髪の長さを確認したんだと思う。
今現在季節は初夏。私は髪を伸ばし始めてから、運動するときや暑いときは基本的にポニーテールにしている。邪魔だし暑いから。今日もポニーテールだ。シュシュ程度なら校則的にも問題はなく、可愛いシュシュをつける楽しみもあるけれど、ロングヘアとは難儀なものだ。
「綺麗に伸ばすのって、大変なんじゃなかったっけ」
「うん。よく知ってるね」
「俺ねーちゃんいるから」
「そうなんだ!」
初耳だったので少し驚いたが、そこまで驚愕でもなかった。なんとなく、渡邊くんにきょうだいがいるとしたら、姉か妹だろうなとは思っていたから。
女きょうだいがいる男子って、なんとなく雰囲気がのんびりしている気がするのは私だけだろうか。渡邊くんはちょっとぼーっとしているとも言えるけれども。
「なんで切るの? 渡辺さんって、ずっと長くなかったっけ」
「そうだよー……ベタだけど、失恋? っていうか」
「あー」
渡邊くんは、申し訳なさそうに眉を下げた。のんびりした素朴な顔立ちでその表情をされると、なんだかこっちが申し訳ない。
「ごめん」
「いいのいいの」
片手をひらひら振って、気にしていないことを伝える。もう片方の手はペンを動かしているので振れなかった。
ちょっとだけ考えて、聞いてみようと思い立つ。
「あのさ、渡邊くんて、女子の髪型はロング派? ショート派?」
「へ? 急になに」
「いや、あのね、あのー……好きだった先輩が、ロング派って言ってたんだよね」
「なるほど?」
「でも最近付き合い始めた彼女、ベリーショートなの」
「うわ……」
「うわって」
渡邊くんの素直な反応に、私はちょっと笑ってしまった。
「うーん……俺は特にどっちでもないけど……ねえ、ボブ? ってショートに入る? の?」
疑問だらけだけど答えが返ってきて、なんだか楽しくなる。
「ボブ派なんだ! ボブはショートかな、やっぱり」
「そうなんだ」
「ボブ、ボブかー……でもボブもいろいろあるよね、あごくらいのとか肩につくくらいのとか」
「……渡辺さん、日誌書きながらよくそんなしゃべれるね……」
話ながらも手を止めない私に、渡邊くんは呆れたように言った。彼の手はすっかり止まっていて、まだ六月までしか書かれていない。
「ごめん、うるさくて」
「いやうるさくはないけど」
そうは言われたけれど、私はちょっと黙った。渡邊くんも黒板に向き直る。
でも元来おしゃべりな私は、すぐにまた話し出した。
「ボブって言ったら、うちのクラスのあかりちゃんとか、すっごく綺麗な内巻きボブだよね!」
新島あかりちゃん。綺麗な内巻きボブが宇宙一似合っている可愛い子だ。と、私は思っている。
ぱっと浮かんだから名前をだしたのだけど、黒板の方からガッと何かが折れるような音がして、私は顔を上げた。
何かっていうか、普通にチョークが折れた音だ。
渡邊くんが、折れて落ちた方のチョークを拾っている。後ろ姿しか見えないけれど、短い髪から出ている耳が、見事に真っ赤っかだった。
「えっ! あ、あかりちゃん? さっきのボブってあかりちゃんのこと?」
「うるさいよ……」
「ごめん」
後ろを向いて適当に投げたボールがゴールに吸い込まれたくらいのミラクルを起こしてしまった。
そうか、渡邊くんはあかりちゃんが好きなんだ……。
失恋仲間じゃないか。あかりちゃんは、つい先週このクラスの相田くんというちょっとチャラめな男子と付き合い始めたらしい。相田くんといつも一緒にいる河西くんが大声で話していて、相田くんが恥ずかしそうにしていたから多分本当だ。あかりちゃんは可愛いけど、男の趣味は合わないなと何様な感想を抱いた。
「そっかー……じゃあ、渡邊くんも悲しいね」
同情と共感をこめてそう言うと、渡邊くんは不思議そうに振り返った。
「え?」
「え?」
オウム返ししてしまった私をまじまじと見て、渡邊くんはさーっと青ざめていく。
「新島さんって、彼氏いんの……?」
「えっ、あっ、ごめん、知らなかったんだ、えっと」
「誰」
渡邊くんの、こんなに不機嫌な声は、いまだかつて聞いたことがなかった。
思わずごくりと唾を飲み込む。
「……相田くん、らしい、よ」
「うちのクラスの?」
「うん」
「……マジか……」
ものすごく落ち込んでいる渡邊くんを前に、私は慌ててしまう。まさか知らなかったとは思わなかった。
「ごめん、ほんとごめんね」
「渡辺さんは悪くない……マジか……」
相当ショックみたいだ。よりによって相田かよ、という心の声が聞こえてきそうである。
「あの、えっと、……元気出して」
言うに事欠いてそれか、と自分でも思ったけれど、言わずにはいられなかった。
渡邊くんは悲壮感あふれる顔でこちらをちらりと見て、またうなだれる。
「……別に好きっていうか、いいなって思ってた程度だったんだけど……ショックだ……俺かっこ悪……」
「かっこ悪くはないよ」
「そうかな……」
だめだ、何を言っても無駄だ。まあ私に慰められたところでって感じなんだろうけど。
それからはしばし無言でそれぞれの作業に戻った。私はすぐに日誌を書き終えて、渡邊くんが黒板を書き終えるのを待つ。
いつも律儀な渡邊くんは、結構時間をかけて丁寧に書いているのだけど、今日はそうでもなかった。日付はまあそんなに乱れようがないけど、明日の日直の名前はちょっと雑だ。相田くんと内山さん。内山の字はそこそこちゃんとしてたけど、相田の字は斜めっている。さっき折れたチョークを使って書いたからか、線が割れてさえいた。
わかりやすいな、渡邊くんは。
チョークを置いて、渡邊くんはパッパッと手を払った。はあ、と大きくため息をついて、リュックを取りに自分の席へ向かう。がっくりと肩が下がったその姿には、哀愁が漂っていた。
「渡邊くん、今日部活ないんだよね」
「ん? うん……」
すごい生返事だ。めげずに私は話を続ける。
「失恋記念に、どっかで暴飲暴食して帰ろう」
妙な連帯感を抱いていた私は、そう誘った。渡邊くんは失恋記念という言葉に顔をしかめたけれど、やけ食いには魅力を感じたらしい。
「よし、行こう」
戦いに赴く戦士のような顔で、渡邊くんは頷いた。