5-9 エルフの亡命者
王城にはラッシからの急使がやってきて、にわかに騒がしくなっていた。
リシャールが乗った馬車も手違いで検められ、ハルルが衛兵の一人を捕まえて事情を問いただした。
「エルフの魔術師がパラヴィアから亡命のためやって来るとの知らせがあったそうです。」
馬車から荷物を下ろして、部屋に戻ろうとするリシャール達の後ろから、マントに包まれて衛兵達に守られた人物が小走りにやってきた。
マントの人物は衛兵達に支えられながらも、ふらりとよろめいて床に手をついてしまった。
俯いたマントのフードから美しい金の髪が零れ、床に煌めく模様を描いた。
騒ぎに気が付いた国王も様子を見に執務室から姿を現した。
しかし、先にリシャールに気が付いた国王は大股で彼女に近づいて声をかけた。
「どうした?巻き込まれたのではあるまいな?」
「いいえ陛下、私はたった今戻って来たところでございます。」
ユージーンとの特訓で、リシャールは頭を下げ、国王の顔を見ないようにして、ゆっくりと返事を返すことに成功した。
国王はリシャールがそのように礼儀正しい返答をするとは思っていなかったので、彼女をまじまじと見つめてしまった。
しかし彼女は頭を上げないまま、彼が通り過ぎるのを待っている。
「陛下」
マントの人物が再び立ち上がり、姿勢を正して国王に声をかけた。
震える手でフードを下ろすと、豊かな黄金の髪が美しい細工のようにぱらりと広がり、悲しげな顔のエルフの女性が現れた。
思いがけない美しい横顔に、その場にいた誰もが彼女に釘付けになった。
「この度は亡命を受け入れていただき、感謝に堪えません。」
「話は後でよかろう、この城は守られておる。今は休むと良い。」
女性は国王の方に歩み寄ったが、覚束ない足元が絡まってしまい、国王の方によろけてしまった。
しかし、彼女を受け止めたのはさっと前に出たカイアンであった。
そして後ろに目配せを送ると、メルティナが受け取って彼女をさっと抱き上げた。
「失礼してこのままお部屋まで運ばせていただきます。」
彼女は抱き上げているのが普通の女性とみると慌てて身をすくめて謝った。
「ご、ごめんなさい、私重いでしょうに。」
メルティナはくすりと微笑んで優しくそれに答えた。
「鎧を身に着けていない人物なんて、空の鞄を持つようなものですわ。どうぞ楽になさって?」
それを聞いた彼女は弱々しく微笑み、そのまま気を失ってしまった。
メルティナが足早に広間から出ていくと、亡命者の無事を確認した一同はほっとしてそれぞれの持ち場に戻っていった。
リシャールもハルルを伴って部屋に帰っていく。
国王はその後姿をじっと見ていた。
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ユージーンは騎士寮に戻っていた。
魔法や剣術はいくら訓練しても、彼女より強い者たちがいる限り終わりはないものなのだ。
昼食の時間になり、騎士や見習い達は食堂に移動する。多くの者たちは仲の良いものと同じテーブルで食事をしている。
彼女は今はこれと言った仲良しの者がいないため、窓際の席に一人自分の食事のトレイを置いた。
中庭の様子が見える窓辺で人と離れて座る彼女の横に、黒髪の人物がどこからともなく現れ、物思いにふける彼女の横顔をじっと見た。
ユージーンは視線に気が付くと、何も言わず、その人物を正面から見つめ返した。
根負けしたのはクィリオンの方だった。
「…なるほど、無言で見つめ続けるというのは居心地の悪いものなのだな。反省する。」
「別に反省を促すために凝視したのではありません。」
ユージーンの表情は普段の何でもないときの顔と比べて、ほんの少し唇が尖がっているのがクィリオンにはわかり、彼女の八つ当たりを甘んじて受けることにした。
「クィリオンもイケメンと言えばイケメンですね?何なんですの?頭部の表面組織の造りが良ければ正義とでも思ってるんですの?」
「う?我々は自分をどのように実体化したりするかを選べるから、そうそう変わり者であることを誇る神でもない限り見た目は気を使っているぞ?ユージーンはどういう姿を好むのか?」
「はーん、神々は外見を自由自在にできて人間どもを魅了するというのですか。私の理想など教えてあげません。」
ユージーンは一層唇を尖らせて、我ながら意地悪な物言いだと思いながらも皮肉を返した。
そこで、クィリオンが神に準じる者であることを思い出し、ちらりとその表情を窺った。
彼はいつも通りのニヤニヤ顔で彼女を見つめている。別段怒っているわけではなさそうだ。
「私は貴方が恋愛を司る神様の使いで、リシャールのことを助けてくれたらいいのになと思って拗ねて見せただけなのです。私、不敬でしたか?」
「他の神はどうか知らぬが、私は人間の心の揺らぎを非常に面白いと思う者なので許そう。恋愛な、これが恋だというなら私は何一つ分かっていないと言わざるを得ないであろうな。」
「残念ですわ、では何を司っていらっしゃるのですか?」
クィリオンの顔が真剣になり、ユージーンの顔を正面から見つめなおした。
「君は時間軸の上にある世界がいくつもの可能性で分かれているという概念を理解できるか?」
「平行世界ですね。SFも好きでしたので分かります。」
「即答されたのは初めてだ。ここでは常識か?君が天才なのか?」
ユージーンは非常に小さな声で「前世では」と前置きしてから話し始めた。
ここでは誰が彼女たちの話を耳に入れているかわからないからだ。
「そういった空想科学を面白い物語にする偉人がたくさんいたのです。私は彼らのファンの一人にすぎません。」
「そちらの話か。人の目に見えぬ概念を庶民にまで広げているとは驚きだ。とにかく、そのような分岐が発生するときに生まれる神があるのだ。創造には関わっておらぬがこの世界の安定を司り、多くの眷属神を従える。私もそのうちの一人である。」
「なるほど、これはこの世界で国教として根付かせるにはひと手間必要ですわね。」
「うむ、かみ砕いて庶民に説明するための人や設定の準備が必要となるだろうな。ところで、食事が全く進んでいないようだが時間は良いのかね?」
慌てて食べ始めたユージーンを見つめるのは彼女が嫌がると知っているのでクィリオンは消えた。
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亡命者の健康診断を終えたメルティナはシルヴィールとマルフィンを伴って彼女の私室へとやってきた。
「彼女の名前はベルフィオーネ、幼い頃からパラヴィアで過ごし、魔法も全てそこで学んだということです。」
「初めまして、ベルフィオーネさん。私はマルフィンと言ってこちらでは書記などを務めています。彼女は助手のシルヴィール嬢。これからいくつか簡単な質問をしますので、固くならずに答えてくださいね。」
マルフィンの人懐こそうな笑顔はベルフィオーネの緊張をわずかながらに和らげた。
もう一人の助手の少女もにっこりと笑って力強く頷いて見せ、丁重に接しようとしてくれているのがわかる。
「脈を診ますので片手を。」
白衣姿のシルヴィールと呼ばれる少女が、左腕を取って手首に指をあてた。
「まずは、ご両親のお名前を聞かせていただけますか?エルフでは重要な事なのですよね。」
「ええ、父はベルフィマール、母はレイングレーデ。父はエルフの国を追放されてパラヴィアで保護されたそうです。そこでダークエルフの魔術師である母と出会ったと聞いています。」
マルフィンは綴りを確かめながらカルテに記入していく。
「まあ、お父様は苦労されたのでしょうね。では魔法の手ほどきはお母様から?」
「はい、父は私が幼い時に亡くなったそうです。母はそのとき既に魔術師として高名であったので国が色々助けてくれたそうです。」
マルフィンは眉を寄せて深く頷き、その場にいて話を聞いていた誰もが共感を表した。
「まあ、それでも母子家庭の大変さというものは他者には計り知れないものでしょう。お母様は国に残っていらっしゃるの?」
「いいえ、病で弱った母を戦争のために召集する知らせが来て…まもなく母は天の扉をくぐっていってしまいました。」
天の扉をくぐるというのはエルフ独特の死の言い回しの一つだ。
彼らは地上での生活は、天上の魂が遊びに来ているだけと考える。天の扉はお帰り口で、死は魂の帰宅に過ぎないと言うわけだ。
「なんという残酷な話でしょう。では、今回の亡命は貴女にも召集が来て?」
「ええ、本当は母と二人で出たかったのですが準備が間に合わず、私一人になってしまいました。」
ベルフィオーネの目からほろほろと涙が零れては落ちた。
マルフィンは書き留めていた書類を机に放りだし、彼女の肩を抱き寄せて優しく声をかけた。
「たったお一人でよく脱出して来れましたね。もうここでは貴女をしたくもない戦争に連れ出そうなんて言う者はいませんよ。」
「ありがとうございます。是非、国王陛下にもお礼を申し上げたいです。」
「陛下は貴女のために良いように計らって下さいましたわ。すぐにエルフの国から迎えが来ることになっています。もう安心して良いのですよ。」
両手に顔をうずめてしくしくと泣いていた彼女はかっと顔を上げた。
「え?嫌です、父を追放したエルフの国など行きたくはありません。」
マルフィンは優しく彼女の背中を撫でさすりながら話を続けた。
「それは誤解なのですよ。お父様は苦労されて何か思い違いがあるのではないかしら?エルフの国ではもう何百年も追放者など居ませんし、助けを求める者を拒んだことはかつて一度もないのです。」
「いいえ、思い違いなんかではありません。私はエルフを許さない、ウェルディアで暮らしたいのです。国王陛下とお話をさせてください。」
彼女は再び両手に顔を埋め、肩をすくめる様にマルフィンから身を離した。
「現女王ベルミスチア様がベル家の血筋に連なるものは貴重と、自ら保護を申し出てくださいました。」
マルフィンはベルフィオーネの腕を片方掴み、顔から引きはがした。
涙はすっかり引っ込んで、ベルフィオーネの目はマルフィンを睨みつけている。
「そしてもし仮に名を騙る不届き者であれば、あのきっつい女王様はどうされるかしら。」
ベルフィオーネの目がかっと見開かれ、顔を覆っていた両手は組み合わされて瞬時に魔法を発動させた。
マルフィンとメルティナは彼女を止めようとしたが、部屋の敷物の下に隠された魔法陣が起動した。
魔法陣はすぐに消えてしまって魔法の正体はわからない。
彼女は即座にメルティナや衛兵達に拘束されたが、魔法の正体については口を割らないまま、自らの命を絶った。
メルティナは魔導器で完全に彼女から生命反応が消えてしまったのを確認した。
「申し訳ございません、対処が間に合いませんでした。」
「気にするな、相手が一枚上手だっただけだ。発動した魔法の確認を急げ。」
「シルヴィール様、どこまで記憶を読むことができました?」
「彼女がダークエルフの魔術師レイングレーデ本人で、お前に娘はいないというところまでだ。」
「良かったです。身に覚えのない隠し子など居なかったんですね。」
マルフィンはほっと溜息をついて苦笑してみせた。
「ベルフィマールは、エルフの国では公式に行方不明ということになっているから、娘ぐらいなら成り済ませると考えたのだろうが…」
シルヴィールはそこまで言いかけてちらりとマルフィンを見た。
「まさか人間として暮らしているなんて、どうやったって考えられないでしょうね。」
マルフィンは舌を覗かせてあはっ、と笑って見せた。
その事実を知る者は限られているため、まさか本人の元に仮の裏付けを作ってやってくるとは誰も思いもしなかった。
シルヴィールはいつも通りの無表情に戻り、その場にいる者たちにてきぱきと指示を出し始めた。
「メルティナは国王の様子を確認するように。マルフィンはエルフの王国に報告。私はもう少しこれを調べてみよう。」
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国王は執務室でいつも通り、電気無しで作る精密機械の工夫に明け暮れていた。
今はリシャールが思うような魔導器を作って補佐してくれるので、いくつか諦めかけていた電池を使う程度の小物なら何とかなりそうだと、希望に満ちてやる気も出てきたところだ。
ところが、急に手が動かなくなった。
ちょっとしたフローチャートのような図を描こうとしていたのだが、思うように動かすことができない。
というか、体の全てが停止している。呼吸もままならない。
するとそこに親衛隊長のメルティナが駆け込んできた。
彼女はノックややり取り無しでこの部屋に入る権利を有している数少ない者の一人だ。
「陛下、何かお変わりはございませんか?」
丁度良かった、体が思うように動かないのだ。
「何もない。下がるがいい。」
メルティナはほっとした顔で一礼し、執務室を出て行った。
待て、何もないことはない。助けてくれ。
口はピクリとも動かない。
勝手に顔が振り返り、護衛のカイアンに向かって話し始めた。
「疲れたので部屋で休む。」
カイアンは一礼し、執務室の扉を開けて国王を私室まで連れて行った。
私室に入ると国王はまっすぐ寝台に向かい、そのまま横になった。
「しばし眠る。誰も邪魔することは許さん。」
「承知いたしました。」
カイアンは部屋の明かりを落とし、扉の外にいる衛兵にそう言づけて扉の前で動かなくなった。
国王は全く疲れてなどいなかったし、眠たくもなかったが、急に眼は塞がれて暗闇の中に閉じ込められてしまった。
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暗い部屋の中で一人蹲る子供。
この夢は嫌だ。暗い時間に眠るといつもこうだ。
木製の雨戸が締め切られ、擦り切れたカーテンが重く窓を覆い隠している。
古臭い玄関の扉がわずかに開いて自分を呼ぶ声がする。
走っていくと隙間から人工的な明かりが差し込んで、彼は少しだけ嬉しくなる。
何かがさがさと音がするものが放り込まれ、再び扉は閉ざされてしまった。
嬉しい気持ちはたちまち萎んでしまった。
この夢は嫌だ。あんなことが嬉しい自分に腹が立つ。
投げ込まれたものを確かめて、布団に持っていく。
一つの袋を開けて、少しだけ中身をちぎって口に入れた。
すごくおいしい。きっと特別なものだ。
全部食べてしまってはもったいない。
これでいつまで持たせられるか、次はいつになるかわからないのだ。なるべく小さくなって動かないで過ごさなくてはいけない。
眠ってしまおう。きっとどちらかの迎えが来る。
自分の大切さに気が付いた両親か、時間切れを告げる死神か。
どちらの結果でも自分は喜んでついていくだろう。
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夢の場面は切り替わり、今度は小学校のような建物の中にいた。
様々な年代の子供が教室のように温かみのない部屋の中で、それぞれの居場所を作って暮らしている。
彼も、扉から死角になる場所に自分の場所を拵えて、自分の時間を確保していた。
その施設には常に口をへの字に曲げた少女がいた。
ここにいる者は皆それぞれに事情がある者たちだし、きっと彼女も不満を抱えて生きているのだろうと彼は軽く考えていた。
彼女は常に大人たちに怒られて暮らしている。何か失敗があれば彼女が叱られ、叩かれる。
大人たちには何を言ってもへの字に曲げた口が彼らの助言を聞き入れていないように見えているからだ。
しかし彼は気が付いた。機嫌良さそうに鼻歌を歌っている時でさえ、彼女の口元はへの字をしている。
別に不満があってそうしているわけではなく、素の表情がそうなのだ。
「笑った方がいいよ。」
「え?」
「作り笑顔でいいから、なるべくにっこりしてなよ。そしたらぶたれること少なくなるよ。」
「何それ。そんな事あるわけないじゃん。大人はみんな子どもをぶつんだよ。」
彼女の親は躾や虐待の区別がついておらず、自身の感情がコントロールできない者だった。
彼女が病院からこの施設にやって来た時、体中に痣や火傷を付けて連れてこられた。
そうして育てられた子供は本当に自分が悪いから大人は叩くのだと思うし、むしろ愛情があるから親は叩くのだと考える。
叩かれることは別に非常事態ではないのだ。回避する理由がない。
「じゃあ賭けようぜ。何でもない時、大人に何か頼まれた時、なるべくずっと笑顔でいること。それで変化があったと思ったら大人になった時ご飯奢ってくれよ。無かったと思ったなら俺がご馳走する。」
への字口の彼女は気が強く、賭けに乗らないことは敗北と感じられた。
「そんなんでいいなら乗るわ。値段が書かれてない寿司屋で思いっきり食べるからね。」
寿司と言えばスーパーのパック詰めのものしか知らない彼は怯んだ。
値段が書かれていない店とはどういう事かわからなかったが、ここで引くわけにはいかないと思った。
「一回だけなら頑張って貯めるよ。俺だって凄いステーキ屋探しておくから覚悟しとけよ。」
時が経って、二人が再開したのは、施設で世話になった職員の葬儀の席だった。
「久しぶり。」と言ったへの字口では無い彼女の顔は嘘のように晴れやかに見えた。
葬儀の後で、二人はお茶をしながら少しだけ話をした。
「私、施設を出て保育園の先生してたんだけど、ある日ステーキ屋さんのスゴイお店って、一食で何十万もするって知って。保育園のお給料じゃ無理だと思って看護師になったのよ。」
「そうか、凄いな。でもまあお前って頭は良い方だっ」
「絶対良いやつ食べさせてやろうと思ってさ。」
彼のありきたりな相槌に被せ気味で来られた。
彼女の作ってはいない笑顔は彼の勝利を物語っていた。
「本当に感謝してるんだ。」
やがて二人は凄いステーキ屋に行くことは無いまま同じ部屋で暮らし始め、二人で決めて静かに籍を入れて、男女の子供をもうけた。
頼る者のいない二人ではあったが、周りにいる無数の先輩達にアドバイスを乞い、難しい問題も二人で頑張って乗り越えた。
子供たちの成長は自分たちが持てなかった子供時代の夢や憧れを、全て代わりに体現してくれる追体験の連続になった。
自分が受け取れなかった幸せを、子供たちが受け取ることによって何倍にも大きく膨れ上がって感じるのだ。
彼女の嬉しそうな顔も、またそれに上乗せされていく。
彼女のへの字口は、もう冗談の中でしか見ることは無かった。