《一》
寝耳には心地のいいリズミカルなまな板を叩く音。食欲を掻きたてる味噌の香りが漂い、月島渡は目を覚ます。どうやら兄の月島涼が朝食を作っているらしい。
渡の寝室はリビングと廊下を挟んだところに位置しており、毎朝朝食の準備をする音と芳ばしく漂う香りで目を覚ます。枕元の時計は五時五十分を示しており、彼は決まってこの時間に目を覚ます。ベッドから降りて、洗面所へ向かい、顔を洗う。先日金色に染め上げた髪の毛を入念にチェックしてからリビングに入る。
今度は卵を焼き上げる香りがしてきた。
「今日は卵焼き?」
キッチンで卵を焼き上げる涼に尋ねる。涼は夏休みだというのに、白のカッターシャツとスラックスという出で立ちだ。どうやら今日は学校に行かなければならないらしい。
「だし巻き玉子。もしかして、他のがよかった?」
涼は横目で渡を見る。渡は未だに寝間着姿。夏休みでなければすぐに着替えてくるよう催促するのだが、休日くらいは寝間着でいいかな、と大目に見ることにした。
「ベーコンエッグが食べたかった」
渡は子供のような素直さで即答した。そんな彼を半ば小馬鹿にしたように涼は鼻で笑う。
「おいおい、高校生なんだからもう少し遠慮しろよ」
彼は端正な顔を崩さず、微笑みながら肩を竦ませた。
「じゃあ、だし巻き玉子は俺の弁当のおかずにするよ。すぐにベーコンエッグを作るから待ってて」
言いながら卵を巻き上げると皿に乗せる。こんがりと焼き色の付いた綺麗なだし巻き玉子だ。先程ベーコンエッグが食べたいとは言ったものの、香ばしい香りを放つだし巻き玉子を見てしまうと、こちらも食べたくなる。
涼は冷蔵庫からベーコンと卵を取り出す。憎まれ口を叩きながらも弟の要望に応えるいい兄だ。
「やった、ありがとう兄貴!」
渡は年甲斐もなく無邪気に喜ぶ。弟の渡はこんなにも世話好きな気立てのいい兄貴を心から愛している。
しばらくするとベーコンエッグが焼き上がり、食卓に料理が並ぶ。両面焼きでパリッと焼き上がった卵白と、適度に半熟になった卵黄が組み合わさったベーコンエッグとキャベツときゅうりの盛り合わせ、茶碗一杯の白米、そして妙に茶色い味噌汁。
「なにこれ。もしかして赤味噌?」
白味噌主流の月島家では滅多に見ない赤味噌の味噌汁。物珍しさから渡は興奮気味だ。
「昨日、隣のおばさんがくれたんだよ。名古屋に行ってたからそのお土産で買ってきたんだってさ」
涼は台所で調理器具を洗いながらそう言った。
渡はテーブルに着き、早速味噌汁をすする。赤々とした濃い見た目の割に薄味で、彼は驚きから大きく目を見開いた。
「結構美味しいね」
「お気に召したようで、兄ちゃんは嬉しいよ」
涼は微笑む。
「まだまだ残ってるから当分赤味噌使ってくからね」
「白味噌は当分味わえないのかぁ、まあ赤味噌もおいしいからどっちでもいいや」
あっけらかんにそう言うと、味噌汁を飲み干す。
「名古屋ではトンカツとかおでんにも味噌を使うらしいから、これからは夕飯にも使うかもね」
「名古屋の人って不思議な食べ方をするんだな。トンカツに味噌とか聞いたことないや」
渡は半熟の卵黄にこんがり焼きあがったベーコンをつけて、白米と一緒に頬張る。
「もしかして、目玉焼きにも味噌つけたりしてな」
冗談めかしてそう言って、口を開けて笑う。
洗い物を済ませると、リモコンを取ってテレビをつける。そしてそのままテーブルにつき食事に手をつける。涼の手元にはベーコンエッグではなく、先程焼き上げただし巻き玉子がある。
「そういえば兄貴って今日補習でもあるの? 休み中だってのに制服なんて着ちゃって」
「違うよ、学校祭の準備だよ。生徒会って夏休みも学校行って準備手伝わなきゃいけないからさ」
文武両道で性格にも定評のある涼は人望も厚く、現在二年生にして生徒会の会長に抜擢されている。絵に描いたような優等生だ。
「じゃあ、バイクで学校まで送ってやるよ」
対して渡は高校一年生にして暴走族である。律儀なことにバイクの免許を取得しており、送っていくというのは兄貴をサイドカーに乗せて送っていくという意味だ。
「いいよ、わざわざバイクに乗せてもらうなんて」
優等生である割に、校則違反をする弟になんの注意もしないあたり、この兄貴は若干弟に甘いきらいがある。
「遠慮するなよ兄貴。一応俺だって今日は外に出る用事があるんだ」
「そっか……、それじゃあついでということで乗せてもらおうかな」
涼が頷くと、渡は満足そうに微笑む。なんだかんだ兄弟仲のいい二人だ。
朝食を食べ終えると、渡は自室に戻り着替え始める。白地で真ん中に英字があしらってあるノースリーブのシャツに七分丈のパンツという夏らしい装いだ。着替えを終えると、リビングに戻る。涼はちょうど洗い物を済ませたようで、ハンドタオルで手を拭っている。
「準備終わったら早く来いよ。俺は先にバイク出しとくから」
そう言って渡は車庫の方へ行きバイクを道路まで出す。
しばらくすると涼はトートバッグを肩にかけて出てくる。男子にしては少々肌の白い方で、日差しを浴びた彼はほのかに輝いて見えた。
「じゃあ、学校までよろしく頼むよ」
「オッケー」
サイドカーに涼を乗せるとグリップをひねり、バイクを走らせた。
涼の在籍する公立の長徳高校へ向かう道中、渡は何か大ことなことでも思い出したかのように声を上げる。
「なあ兄貴、今週の土曜か日曜って空いてる?」
渡は涼を一瞥する。涼はサイドカーで心地よさそうに風を感じながら菓子パンをつまんでいる。
「……多分空いてる。なにかあるの?」
少し考えてからそう答える。
「週末に夏祭りがあるんだ。それで兄貴と一緒に行きたいなって思ったんだ」
少し照れた様子で頬を指先で掻きながら言った。
「いいよ、土曜に行こうか」
即答で承諾を得られた。
渡は礼を言って、口元に笑みを浮かべて喜ぶ。そんな彼の様子を見て涼もまた静かに微笑む。




