二 同好会 (3)
「あ、明日香ちゃん? 俺、そう、一弥。部活終わった? …あ、帰る準備してる? ちょーどよかった。今浩央から家庭教師の件聞いたよー。うん…うん、オーケィ。いいよ。」
…と和やかに話し始める兄貴。明日香先輩と家庭教師の話を盛り上がらせている。お…おいおい、人のケータイで話弾ませるなよなっ。
家庭教師のバイトの話はすぐに途切れそうにないので、ぼくは短くため息をついて無意識に机の横にある電子ピアノの電源を入れていた。…が、電源ランプが赤く点灯しない。二・三回カチカチとオンオフを繰り返してから我に返った。…そうだ。弾かないように、電源コード抜いて兄貴に預けてたんだった…。カッ、と頭に血が昇る。無意識とはいえ…まだぼくはピアノに頼っている。
そんなぼくをケータイで話しながら見ていた兄貴が自分の部屋の方向を指差す。『コードは俺の部屋にあるぞ』…そう目が言っている。けどぼくは首を左右に振る。
「でも前もってやよい先生に話つけとかなきゃいけないだろ? え? うん、そう。」
…ちなみに“やよい先生”というのは明日香先輩のお母さん…つまりぼくと兄貴が習っていたピアノの先生のことだ。
やよい先生と兄貴近々会うのか…きっと明日香先輩と三人でぼくについて余計なコトを話すんだろうな…。そう思ったら苦しくなってきた。
「うん、じゃ明日の夜お伺いしまーす。あ、先生のレッスン終わる時間、あとでメールしてね。…あぁ、アドレス? こっちからあとで送っとくから。…でさぁ。」
いたたまれなくなって自分の部屋から出ようと兄貴に背を向けた、その時。
「例の浩央の“カノジョ”…うん、緑川さんって言うんだっけ? 桜の精。…や、こっちの話。…緑川さん、彼氏いんの?」
実にさらりと、今までの会話の流れぶった切って、兄貴が明日香先輩に尋ねる。不意打ちをくらってぼくは慌てて振り返る。
「ちょ…っ! 兄貴!」
ケータイを奪い返そうと詰め寄ると、兄貴はあっさりとぼくにケータイを渡してくれた。そうとは知らず受話器の向こうの明日香先輩は兄貴の問いに返答し始める。僕の顔のすぐ横で、兄貴も耳をそばだてる。
明日香先輩が口を開くまで、そのほんの一瞬の間が、ものすごく長く感じられた。ドキドキドキドキ、心臓が体から飛び出しそうだ。
『彼氏、はねぇ、』
ドキドキドキドキっ。し、心臓痛い!
『今のところ、いないみたいな感じ。』
ひゅううう…沸騰したやかんの火を止めた時みたいに、頂点まで達したドキドキが下がっていく。でも心臓はまだ熱湯のまんまだ。
『でもね、』
明日香先輩が間髪入れずに続ける。
「でもっっっ?!!」
思わず力強く鸚鵡返し。また沸騰し始めるやかんの湯。沸点超えてるっつーの!!!
『あ、浩央くんに換わってる? 緑川さんねぇ、彼氏いないみたいだけど、ガードはものすごぉく堅いらしいよ。さっき言ってた御倉さん、彼女が常に隣にいるし…あ、御倉さんちょっと変わり者で有名だから、近寄りがたいって感じ? それからもう一人、“篠宮英人”って、二組の男子。彼が緑川さんに言い寄る男ことごとく排除してるって噂。なんでも中学の時からそんな感じなんだって。』
「そっ、その篠宮って人は彼氏じゃにゃいのっっ?」
…慌てすぎて舌噛んだ。受話器の向こうで明日香先輩がうーん、とうなる。
『緑川さんはその気がないというか、ただのお友達というか…。でもそのわりにはよく一緒にいるみたいだし…あ、二人きりじゃなくて御倉さんも一緒だけどね。よくわかんないんだよねぇ、その辺。』
なんか曖昧な返事。
「…友達以上恋人未満ってコトか…? あ、このフレーズちと死語?」
横で兄貴が呟く。…うーん、確かにちと死語だと思うが。そうじゃなくてぇ。
『…家庭教師のお礼に、もうちょっと調べてあげようか?』
「え?」
『御倉さんと、篠宮くんのこと。気になるでしょ?』
「なります。お願いします!」
即答。…明日香先輩が女神のように思えた。現金だけど。
『了解ぃ。じゃ、またメールするね。あ、一弥先輩によろしくー。』
そこで明日香先輩との通話は終了。…でもまだドックンドックンと、心臓が波打っている。激しいパッセージの曲を弾き続けているみたいだ。
ケータイを握りしめたままつっ立っているぼくの顔を兄貴が覗き込む。
「浩央?」
「…決めた。」
「え?」
ぼくはケータイを握りしめる手に力を込めて、大きく頷く。
「…明日放課後、その胡散臭い同好会に乗り込んでみる。」
大真面目で決意したぼくを見て兄貴はやれやれ、と苦笑。でも彼女に近づく一番の近道は、間違いなくそこしかないと僕は思った。多少胡散臭かろうが何だろうが。