二 同好会 (1)
そのあとの授業に、全く集中できなかったのは、言うまでもない。
三年一組、緑川由奈穂さん…。
そのクラスと名前、そしてぼくの膝にバンドエイドを貼ってくれた時の、あの天使の微笑みだけが、繰り返し、繰り返し、頭の中で飛び跳ねている。
…緑川、由奈穂、さん。
あの時何も言葉を交わせなかった。あまりの驚きとどぎまぎする心に、声を出すことすらできなかった。
だんだん心が落ち着いてくると、もったいないことをした…と思えてきた。あんなチャンス、二度とないんじゃないだろうか。こっちは一年、向こうは三年…ほとんど接点なんてないのに…。あんな偶然、今度あるとは思えない。
彼女の微笑みが脳裏に浮かぶ。そのたびに、大きくなっていく、欲求。
また、会いたい。
話が、したい。
…でもどうやって? 何か、何か方法はないかな…?
三年一組、緑川由奈穂さん。
三年一組、緑川由奈穂さん。
三年一組…!!!
繰り返し頭の中を廻っていた彼女のクラスと名前が、一瞬、弾け飛んだ。
…そうだ! 三年!!
ぼくは授業が全て終わり、ホームルームも終わるとすぐ、音楽室へ…吹奏楽部の活動場所へ、ダッシュしていた。
「明日香先輩!!!」
特別棟、つまり各学年の教室がある本館棟と並列して、渡り廊下で繋がっている、理科室など特殊な教室が入っている校舎の四階、音楽室手前の廊下には、個人練習をしている吹奏楽部の部員があちこちでそれぞれいろんな楽器を吹いている。ぼくはその中に明日香先輩を見つけて、大声で名前を呼ぶ。
トロンボーンを構えていた手を下ろし、明日香先輩はビックリして振り返る。ぼくに気づいて、嬉しそうに笑う。
「浩央くん! …入部しに来てくれたの?!」
ぼくは走って乱れた息を整えながら、首を左右に振って明日香先輩の傍に行く。
「じゃなくて…ちょっと!」
明日香先輩の二の腕を引っ張って、階段の方へ連れて行く。
「なっ? …え? 何???」
トロンボーンを手にしたまま、明日香先輩はぼくに引っ張られるがまま。
「明日香ぁ〜、どこ行くの? もうすぐ合奏〜。」
「うん、わかってる。すぐ戻るから〜!」
フルートの三年生に声を掛けられ、焦りつつ返答する明日香先輩。そんな明日香先輩に構わずぼくは、明日香先輩の腕を掴んだまま二階の図書室前の廊下まで連れて行く。本当は三階の視聴覚室前くらいでよかったんだけど、三階廊下も吹奏楽部員がたくさん練習していたので、やむなく二階まで降りてきたのだ。
さすがに図書館前には人が少ない…ていうかいない。ちょうどいい。
「ごめん先輩、すぐ済むから…。」
ぼくがようやく手を離してそう言うと、明日香先輩は少し怒ったような顔をした。
「入部しに来たわけじゃないのね。」
「うん、ごめん。」
謝ると、明日香先輩はふぅ、と短くため息をつく。
「…やっぱり音楽は辞めちゃうんだ。」
「うん、ごめん。」
また同じことを言ってしまった。…明日香先輩は苦笑。
「わたしに謝られても…ね。で、何? 何か話…誰かに聞かれたくないようなこと?」
さっぱりと話を切り返して、明日香先輩はぼくに尋ねる。明日香先輩のそういうサバサバしたとこ、昔からけっこう好きだ。
ぼくは本題に入るため、ちょっと姿勢を正す。第一楽章から第二楽章に移る時みたいだ。
「あのさ、明日香先輩って…三年何組?」
「へ? …三組だけど?」
…なんだ、一組じゃないのか…。ちょっとがっかり。でもまだまだ。
「三年一組の、緑川由奈穂さんて人、知ってる?」
昼以降、頭の中で何百回、何千回と繰り返してきたクラスと名前。…初めて口にすると、体中の血液が逆流したみたい。心臓がどくんどくんと波打っている。かーっっっ、と全身が熱くなる。
そんなぼくを見て、最初きょとんとしていた明日香先輩が、次第ににやりと意味ありげな不敵な笑みを浮かべる。
「ははぁん。そゆこと、かぁ。」
ますますぼくの体は熱くなる。体温、急上昇。まさか四十度越え?
明日香先輩はくすくす笑う。
「さっそく音楽より夢中になれるモノを見つけたってわけね。いいんじゃな〜い? …でもごめん、緑川さんて、名前は知ってるんだけど、顔と名前一致してなくて…。同じクラスになったことないからなぁ。」
そっかぁ…。一気に体温が元に戻っていく。
「あーもう、そんな目に見えてがっかりした表情しないでよ。わかった。いろいろ調べて報告してあげる。」
「本当ですか?!」
ぱぁぁぁっ、と霧が晴れて太陽の光が燦々と差し込んできたみたいに明るくなる心。我ながら単純でわかりやすいなぁ…。
「…浩央くんてけっこうすぐ顔に出るタイプだよね…おもしろい。」
自分で思ったことと同じことを明日香先輩が指摘して笑う。笑ってから、きらりーん、と妙な目の輝かせ方をする。瞳と共に、持っていたトロンボーンも、金色の光を放ったように見えた。
「そのかわり、」
…こ、交換条件? 何…? 吹奏楽部入部とかは勘弁してよ…?
明日香先輩はトロンボーンを持っていないほうの手で、ぼくの手をぎゅうううっと握る。
「一弥先輩、わたしの家庭教師になってくれないかなぁ? ね、浩央くんからお願いしてよ。」
「へ?」
一弥、というのはぼくの兄の名前。…ってまさか、明日香先輩…。
まじまじとぼくは明日香先輩を見つめる。…心なしか、明日香先輩の頬はほんのりピンクに染まっている。
「一弥先輩ってK大の理工学部じゃない。わたしも同じとこ、目指してるのよね〜。だ・か・ら、数学とか見てほしいなぁって。ほ、他に特に意味はないのよ? ホラ、近所だし…」
「ははぁん、そゆことかぁ。」
さっきの明日香先輩のセリフ、そっくりそのままお返しします。そんなんじゃないんだってば! と大急ぎで全否定するけど、その赤い顔だとまるで説得力ナシ。明日香先輩もすぐ顔に出るタイプ、人のコト言えないじゃん。
「いいよ、兄貴に頼んでみる。そのかわり、」
「わかってるって。任しといてよ。リサーチとか好きだし、この前言ったよね? “わたしに何か手伝えることがあったら言ってね”って。」
明日香先輩は力強くそう言って、握ったままのぼくの手にも力を込める。ちょうどその時、四階から吹奏楽部の合奏前のチューニング音が響く。
「あ、ヤバイ! 合奏始まってる!」
明日香先輩は大慌てでぼくに手を振って、階段を駆け昇っていった。お願いねっっ、と念を押して。