一 春到来 (4)
ぼくが卒業した中学校と同じ市内にあるこの高校には、同じ中学の同級生が何人も入学している。同じクラスにも、見知った顔がいくつかあった。
けど、入学してから、ぼくに声を掛けてきた同級生は一人もいない。誰も声にしないけれど、なんで崎谷浩央がこの高校にいるんだ、音高へ行くんじゃなかったのか、音高どうやら落ちたらしいよ…なんて噂が広がっているのは目に見えてわかる。気を遣っているのか、ざまぁみろと思っているのか…まぁ、どちらかなんだろう。
入学式の日はそんな周囲の目がすごく気になって気になって、でもピアノにはもう頼れない…気が重くて仕方なかったんだけど。
あの瞬間以来、そんなことはどうだってよくなった。
ただ、あの朝の、あの桜の下の光景が、目に焼きついて離れない。
家に帰ってから兄にこの話をしたら、夢でも見てたんじゃないか、それか幽霊でも見たんじゃないか、なんて茶化したけど…。
時間が経ってもなお、鮮明に覚えている。
桜の下にいた、桜の精のような、綺麗な人。桜の花のように、柔らかく、儚く、微笑んでいた…。
夢じゃない。多分幽霊でもない。幻…にしてははっきりしすぎている。
あの人を見つけて以来、僕はもう一度彼女を見たくて、会いたくて、仕方がない。
その日から毎日、ぼくは学校に着くと、その人を探している。
学校にいる間、授業中以外のぼくは、きょろきょろしていてかなり挙動不審だと自分でも思う。余計に同級生は声を掛けにくいだろう。
正門のあの桜並木をはじめ、教室の移動のたび、全校集会なんかがあるたび、廊下や階段…すれ違う生徒を見ては、彼女を探している。
…ぼくより上級生で、さらさらの黒髪の、美しい人。
たったそれだけの手掛かりでは、簡単に見つかるわけもなく…。
同級生ならもっとすぐに見つけられそうなものの、上級生は教室の階が違うので、出会う確率も減ってくるし…。
兄の言うとおり、夢か、幻でも見てたんだろうか。幽霊だったんだろうか。
最初のあの日から一週間くらい経っていた。もう高校生活にも慣れ始め、ピアノを弾かないことにも少しずつ慣れてきた、ある日。
その日の四時間目は授業が始まってから初めての体育で、オリエンテーションの後、グランドで50m走のタイムを計ったりしていた。
同じグランドで三年生の女子も体育の授業をしていたので、ぼくはそっちに目がいってしまう。もちろん変な意味ではなく、彼女を探すために。
ちらちらよそ見をしているうちに、50m走のタイムを計る順番が周ってきた。走るのは苦手ではないし、わりと速いほうだと思うので、あんまり気負うこともないかわりに、ストレッチなんかを侮っていたのかもしれない。
「よぉい…スタート!!!」
体育の先生の掛け声で、クラスメイトと五人くらいで走り出す。
走り始めて…五秒か六秒、ゴール直前。
なにかに躓いて、見事に転倒してしまった。
…咄嗟に、いつのも癖で、指を庇う。ズサァッ、と膝をすりむいて、流血。
「大丈夫かぁ?」
体育の先生が寄ってくる。クラスメイトも何人か集まってきた。…恥ずかしい。
「だ、大丈夫…です。」
膝の土を払ってゆっくりと立ち上がる。手…指は、なんともない。…もう指に気を遣うことはないのに、反射的にそう思う自分がまだいる…。
「とりあえず保健室行ってこい。タイムはまた今度だな。」
先生が校舎を指差す。あぁ、あの辺が保健室。
「はい。」
返事してぼくはズキズキ痛む膝を少し引きずりながら、保健室へ向かう。
「失礼しまーす。」
保健室の扉を開けると、そこに保健の先生はいなかった。
…留守? ぼくは保健室を見渡してみる。…カーテンの引かれたベッドがひとつ…その中に誰か寝ているのだろう。そのほかは、人影も見えない。
…誰もいない…? 困ったな…。
ぼくはとりあえず乾きかけている膝の血を流そうと、洗面台に近づく。
その時。
「…怪我…?」
背後から鈴が転がるようなソプラノボイス。ぼくはビックリして振り返る。
「あ…!」
…心臓が、飛び出したかと思った。膝の痛みが、一瞬にしてどこかへ吹っ飛んでいった。
何故なら。
カーテンを開けてベッドから顔を覗かせていたのは、見間違うことなんかない、あの…桜の下で微笑んでいたあの顔…。
桜の、精だ…!
ぼくが絶句しているのをよそに、彼女はベッドから降りてぼくに近寄る。それはそれは優雅な身のこなし…まさに妖精のよう…。
「先生さっき電話だとかで職員室行っちゃって…。あぁ、転んじゃったのね。傷口流して、ここに座って?」
あの時と同じ柔らかな笑顔で、彼女はぼくに言う。ぼくは言われるがままに洗面台で膝を洗う。水が傷口にしみてジィンと痛いのに、胸のドキドキのほうが強くて、膝の痛みが麻痺してくる。
椅子に座ると彼女が向かいに座って、慣れた手つきで脱脂綿に消毒液を浸している。
「ちょっとしみるけど、我慢してね。」
そう言ってぼくの膝の傷に消毒液をつける。…彼女に見惚れてしまって、膝よりも胸が痛い…。
これは、夢なんだろうか。
四時間目の終了を告げるチャイムも、ぼくの耳にはおぼろげにしか届いてこない。
丁寧にバンドエイドを貼ってくれて、彼女はぼくに微笑みかける。
「はい、できあがり。」
…なんて綺麗なんだろう。改めて、思う。
桜の精…今回は、天使?
ぼーっと見惚れていた、その時。
ガラガラッ、と勢いよく扉を開けて、誰かが入ってきた。ぼくの夢のような時間は、その扉の音と同じくガラガラと音を立てて崩れていく。
「ゆーなーほっ! 大丈夫? お弁当食べれるー?」
元気な登場の仕方に相応しい元気な声の女の子。赤茶けた髪がまた活発さを表している。
「御倉さん。迎えにきてくれたの?」
桜の精の彼女がまた柔らかく微笑んで赤毛の彼女の名を呼ぶ。…と、友達なんだ…。対照的すぎて、意外なんだか妙に納得なんだか、よくわからない。
「だって由奈穂、今日カップケーキ作ってきてくれたって言ったじゃん。食べたいんだもーんっ。」
「…カップケーキ目当てかぁ…。」
「そっ、そんなことないけどっ!」
「うそうそ、一時間寝させてもらったからもう大丈夫。お弁当、食べよう。」
二人はぼくが目の前にいないかのように話をしている。ぼくは思わず呆然と二人のやりとりを聞いていた。
赤毛の彼女が早く早くとせかすので、桜の精の彼女も慌てて立ち上がり、保健室を出ようとする。
扉をくぐる瞬間、彼女がくるりと振り返り、呆然としたままのぼくに、にっこりと花のような笑顔を見せて、去っていく…。
…あっと、いう間の、出来事だった。
しばらくぼくは呆然とその椅子に座ったまんま。…次に動くまで、一分くらいあったかも…。
ふと机に目をやると、保健室日誌が置いてある。保健室利用者のクラスと名前とか、書くんだよな、こういうのって。
ぼくは名前を書こうと日誌に手を伸ばす。
…そうだ、さっきの彼女のクラスと名前、コレでわかるじゃん!
自分の名前を書く前に、日誌を見る。あった!
3−1、緑川由奈穂。
三年一組…、みどりかわ、ゆなほ…さん。
…思わずガッツポーズをしてしまっていた…。