一 春到来 (3)
その時。
「浩央くん?」
後ろからぼくを呼ぶ声がした。ビックリして振り返ると、幼い頃から見慣れた真っ黒なショートボブのセーラー服姿が、ぼくを見つけて立ち止まっていた。あの人に目を奪われていて気づかなかったけど、正門からはさっきよりたくさんの生徒が登校してきている。
「何してるの? そんなとこで。」
「明日香先輩。」
…実はあんまり会いたくなかった。同じ高校なんだから、遅かれ早かれいつかは会うことになるだろうと思っていたけど…初日の朝に出くわそうとは。
曖昧に笑ってぼくは明日香先輩のところまで歩いていく。明日香先輩は、ぼくのピアノの先生の娘さんで、この高校の三年生。一週間前に先生の家に、ここの高校に受かったことと、ピアノを辞めることを告げに言った時、一瞬だけ顔を合わせて以来だ。
「靴箱、こっちだよ。まさか迷っちゃった?」
はにかんで笑って、明日香先輩が言う。ぼくはまた曖昧な微笑。
「あんまり桜が綺麗なんで…見惚れてました。」
本当は桜に見惚れてたというより、あの人に見惚れていたんだけど。
ぼくは明日香先輩と並んで昇降口まで歩き出す。しばらく二人、無言で歩いていた。きっと明日香先輩も気まずいんだろう。なんてったって、ぼくも明日香先輩も、ついこの前までは、まさか今ここにぼくがいるとは思ってもみなかったのだから。
靴箱の近くまできて、明日香先輩がようやく口を開いた。
「…ほんとにピアノ、辞めちゃうの?」
…それを聞かれるだろうから、会いたくなかったんだ。
ピアノの先生の娘だから、当然明日香先輩もピアノはぼくや兄と一緒に習っていたんだ。でも明日香先輩も、ぼくが追い抜いてしまったせいだろう、ピアノは辞めてしまっている。兄と違って一切弾かないってわけではないし、確か高校から吹奏楽部に入部したって聞いてるから、音楽は辞めたわけではないんだけど…。やはりぼくのどこかに、兄に対するものと同じ、罪悪感、みたいなものはある。それはぼくがピアノを弾き続け、賞賛され続けることで、誤魔化せてるはずだった。
…今となっては、罪悪感の上にのしかかる、後ろめたさ。
そんな気持ちのまま、ピアノを弾くわけにはいかない。続けることのほうが、今のぼくには、さらに苦痛なんだ。
ぼくは明日香先輩の目を真っ直ぐに見て、答える。
「決めたんです。もう、ピアノには触らない。」
…あまりにもきっぱりとそう言うぼくに、明日香先輩は短く溜息をついた。
「…そっか。そうなんだ。」
そしてちょっと気持ちを切り換えるように微笑んで、明日香先輩はぼくに言う。
「じゃさ、よかったら吹奏楽部、見においでよ。浩央くん音感あるから、初めての楽器でも問題ないよ。」
「ありがとうございます。でも、」
ぼくも真似して微笑んでみせる。同じく、気持ちを切り換えるように。
「音楽以外で、探してみます。…他に、夢中になれるもの。」
兄の言葉を、そっくりそのまま、言ってみる。自分自身に、言い聞かせるためにも。
「そう…。わたしに何か手伝えることがあったら言ってね。…じゃ、わたしこっちだから…。」
明日香先輩はちょっと淋しげにそう言って、ぼくに手を振って階段を昇っていく。明日香先輩の後姿に、ぼくは声に出さずにありがとうとつぶやく。
兄も、明日香先輩も、二人とも…目標を失ったぼくに、何故か優しい。でもそれが、嬉しいよりもむしろ、少し悲しい。
ふいにさっき見た、桜の下のあの人を思い出す。なんとなく、真っ暗だったぼくの心に、光が射した…ような気がした。
…そうだ。ぼくはこの高校で、他に夢中になれるものを、探してみよう。
もう一度そう決意して、ぼくは教室へと向かう。