一 春到来 (2)
…他にも夢中になれるもの、…か。
ぼくは兄の言葉を思い浮かべ、今日から三年間、高校生活を送ることになった校舎を、正門の前でつっ立って眺めながら、短く溜息をつく。
登校時間にはまだ少し早かったようで、正門をくぐる人はほとんどいない。時折グランドのほうから、運動部の朝練らしき掛け声とかが聞こえる程度。
四月とはいえ、まだ朝は肌寒い。首をすくめる。と、真新しい制服の襟が硬くてちょっと痛かった。
入学式の時は、なんかバタバタしてて、こうしてゆっくりと正門から校舎を見上げる、なんてできなかったけど…。こうして眺めてみると、なんだろう、これからはじまる新しい生活に、不安と…ほんの少しの期待が混ざったような、複雑で、落ち着かない心。
前なら、こういう時にも音が聞こえた。ぼくの感情を的確に表現してくれる旋律が、ぼくの体中を流れていた。
けど今は。
もう、なにも聞こえない。
鼻の奥がつんとした。…カッコ悪い。まだ女々しく泣く気かよ。
奥歯を噛み締めて、ふるふる、と軽く頭を振る。そしてまた、正門越しに校舎を見つめて、いざ、動き出す。
正門を、くぐり抜ける。
新しい自分の、スタートだ。気持ちを切り換えて…しゃきっとしろ。
正門をくぐった途端、さっきは見えなかった風景が、僕の目に飛び込んできた。校舎の陰になって見えなかった…体育館まで続く、桜並木。
入学式の時はまだ桜が咲いていなくて、気づかなかった。今も、満開とまではいかないけど…それでもどの木も、何年も何年もここで生徒を見守ってきたんだろう、立派な枝を、のびのびと伸ばしている。
…五分咲き、くらいかな。
そう思いながら無意識にぼくは桜並木に近づいていく。
…綺麗、だなぁ。
ほぅ、とさっき正門の前でついていた溜息とは全く異なる気持ちの溜息をつく。
その時、ぼくは桜並木の下に、誰かいるのに気がついた。
…さらさら、髪の長い、セーラー服姿。制服でわかる、新入生ではないから…二年生か三年生の先輩だ。彼女はぼくの存在に気づかずに、ただ桜の木を見上げて、今にも咲きそうな蕾に、手をかざそうとしている。
遠目ではっきりとはわからないけど、その表情は、心から桜を愛しているかのように、柔らかく、幸せそうで…でもそれでいてどこか淋しげな…哀しい微笑。
彼女の姿は…朝のきりりとした空気と、桜の淡いピンク色に染まって…まるで、桜の花を咲かせに来た春の妖精のようで…制服を着ているのに妖精って、って思うかもしれないけど、ぼくには本当に、妖精のように儚く、美しく見えた。
桜の精…もしくは、春の精。桜の開花を手助けする、春の妖精。
なんて綺麗な人なんだろう…。
ただただ、見惚れてしまって、ぼくはその場で立ち尽くす。彼女に、彼女を取り巻くこの風景に、魅了されて…指一本、動けない。ただ、見つめているだけ。
その時、…聞こえないはずの音が、聞こえたような気がした。
そんなはずはない。ぼくにはもう、聞こえないんだから。気のせいだ。すぐに打ち消して、彼女を見つめなおす。
すると彼女はぼくじゃない何かに気がついて、桜から手を離し、誰かに小さく手を振りながら、優しい笑顔でぼくとは反対側…校舎のほうに、駆けていった。
彼女が去ったあとも、ぼくはそこにしばらく立っていた。彼女をみている時間はきっと一瞬だったんだろうけど…永遠のような、気さえしていた。
…他にも夢中になれるもの。
また、兄の言葉を思い出す。




