一 春到来 (1)
その頃ぼくは、生まれてはじめての、大きな人生の挫折を味わったばかりだった。ちょっと大袈裟な気もするが、その頃のぼくにとってはそのくらい、大きなショックだったんだ。
生まれてはじめての、大きな人生の挫折。
…それは、地元では有名な音大の、付属高校ピアノ科の入学試験に落ちてしまった、ってこと。そして、音楽…ピアノとは全く関係のない、近所の普通の高校に、進学が決まってしまった、ということ。
物心つかない頃からピアノをはじめたぼくは、近所ではちょっとした天才ピアニストだった。
聴いた曲はその場ですぐ弾くこともできたし、なによりピアノを弾くことが好きで。一日中ピアノを弾いていても、全く飽きることはなかった。
ぼくより先にピアノを習い始めた四つ年上の兄のレベルをあっという間に追い越したせいで、兄はピアノを辞めてしまった。今では音楽とは一切関わっていない。本人は音楽より楽しいことを見つけたんだ、なんて言ってあっけらかんとしているけど、本当は今でもピアノを弾きたいんじゃないかってぼくは思う。
昔から一番ピアノで好きなのは、即興だ。美しいとか、気持ちよいとか、素敵だなぁ、綺麗だなぁ…と感じるとすぐ音が聞こえてきて、簡単にそれを奏でることができた。…楽譜がなくても、自分の思うとおり、好きなように指を動かすだけで、旋律に、音楽になっていくのが、ぼくはすごく好きだった。
小学校でも中学校でも、入学式とか卒業式とか、イベント時のピアノ演奏はぼくが必ず演奏していたから、近所でぼくのピアノを知らない人はいないんじゃないかなぁ。
そんなぼくに、親も、ピアノの先生も、迷わずその音大付属高校ピアノ科受験を勧めた。ぼくもだんだん将来のことを考えたりして、ピアノを一生やっていけたらなぁ…なんて思っていたから、その意見には乗り気だった。ピアノ科に入って、音大に行って、ピアニストになる…そんなキラキラした夢が、目の前にあった。
誰もが受かると思っていただろう。事実、僕自身も、そう思っていた。
…だがそこには、大きな落とし穴が、待っていた。
もともと即興演奏が得意なぼくは、きちんと正確に楽譜どおりに弾く、ということが苦手で…実際好きではなかった。ノリ…っていうか、その時の気分がかなり反映されてしまう。
それが、受験の時の試験官には受けなかったんだろう。
信じられないことに、音大付属高校ピアノ科、不合格の通知を受け取る。
…目の前が、真っ暗になった。
ピアニストの夢は、霧のように消えてなくなった。
自分はピアノが上手いと思っていた。周りもみんな、認めてくれていた。はっきり言って、それが自慢だった。
でもそれは…間違いだったのか?
井の中の蛙…ちょっとピアノが得意だからって、いい気になんなよ。そのくらいのレベルのヤツは、世の中にゴマンといるんだ。そう言われた気がした…。
周りの目、自分への失望…。角を曲がったら、いきなり高い高い壁に行く手を阻まれたような…引き返そうにも、もと来た道も崩れてしまっているみたいな…どうすることもできない、絶望感。
…ぼくはピアノに鍵をかけた。もう二度と、弾けないように。もうぼくには、美しい旋律を奏でることはできない…。
そんなぼくを見て、兄は優しく言った。
ピアノだけが、人生じゃないだろ。他にも夢中になれるもの、いくらでもあるぞ、と。
幸いぼくは成績がそれほど悪かったわけでもなく、そのあとなんとか家から一番近い、公立高校の普通科に合格することができたわけだけど…。
あれ以来、ピアノは触っていない。