序 前奏曲
今年も、この季節が巡ってきた。
窓越しに淡く煌めく薄紅のその花の色が、廊下を歩くぼくの視界を遮る。
思わず涙が滲む。心躍るような、それでいて、悲しいような、不思議な感覚は、何年経っても変わらない。
…変わったのは。
ぼくは右手をぐっと握り締める。本当は左手にも力を入れたかった。けど、手にしていた一枚の葉書がくしゃくしゃになってしまわないよう、無意識に気を遣っていた。
廊下のつきあたりのドアを開ける。予想通り、誰もいなかった。ぼくはほっと短く溜息をついて、まず窓を開ける。本当はピアノ室の窓は開けてはいけないのだが、こんな日に、どうして開けずにいられるというのだ。
…やっぱり、綺麗だ。
窓一面に広がる桜色。おそらく学内で一番古い、立派な桜の木だ。枝々、競うように花をつけている。ひとつひとつの花びらは、ごくごく淡い色…白に近いくらいなのに、全体でみると、どうしてこんなに上品なピンク色になるんだろう。
しばらく窓から桜を眺めて、ぼくはピアノに近付く。
ピアノと桜。
ぼくの、大好きな、大切な、もの。
この二つがあるここは、ぼくの一番落ち着ける場所。ピアノ室なんて学校にはいくらでもあるし、この部屋のピアノはそんなにいいピアノではないけれど、この部屋はぼくにとっては特別。
…一番綺麗に、桜を観ることができるから。
『あんまり桜を見ていると、桜の魔力にとり憑かれてしまうわよ。』
ピアノ越しに窓を眺めていると、あの声が、まるで今この場で聞こえたみたいに、ぼくの耳に入ってきた。
目を閉じると、すぐにあの人の、消えそうな柔らかい笑顔が、浮かんでくる。
…あの日。
ぼくは持っていた葉書を、譜面台にあえて宛名面を上にして置いて、椅子に座る。ピアノの蓋を開けて、そっと鍵盤に手を添える。
と、不意に風が吹き、桜の花びらが一枚、鍵盤の上にふわりと舞い降りた。
…桜の精、みたいだな。
そう思ってから、ぼくはくすっと静かに笑う。
そう、あの日。
ぼくは、本当に桜の精に、出会ったのだ。きっと本当に、…桜の魔力に、とり憑かれてしまったのだ。
鍵盤の上の桜の花びらを、そっと譜面台の、葉書の上に乗せて、ぼくはあの曲を…あの人の為の曲を、奏で始める…。
あの人と…桜の精と出逢った、あの日を、あの頃を、思い出しながら。