ドッグ
〔ドッグ〕2010/12/04
ガルドが犬を連れ、歩いていた。
彼の完全で健康的な体つきは、百九十五の体躯。顔も整いながらも勇ましく、そして男前の顔立ちだ。スラム出の男で、歩いていると気圧される程の熱があり、オーラの備わる男である。彼が犬を連れ歩いていた。
ボクサー、グレートデン、ドーベルマン、ブルドック。そういった、凶暴で大型闘争犬を、太くガシリした鎖で繋ぎ連れている風。だが、そうでは無かった。
彼が連れているのは、とってもとってもちっちゃなちっちゃなパピヨンだった。
黙っていると恐いガルドだが、実際は大半をどうしようもない事ばかり考えている二十三青年なので、恵まれて生まれて来た部分が何割かある。
そんな彼の連れている白黒のパピヨンドッグは、意地悪そうな顔つきをし、いつでも細い四本足で立ち「ンとク」の間の声で唸り尻尾をフリフリ、可愛くて愛らしくて可憐なオスのパピヨンドッグだった。
ガルドはエリッサ通りを歩き、職場の警察署前を素通りし、彼は実は刑事なので、警察署が職場だった。
「………」
目の前から、五匹も巨大なトサドッグを連れた、しかも最高にクールで素敵などっかの旦那様が歩いてきている。
発見したガルドは、その四十ぐらいだろう実業家の旦那様を見ていて、巨大なトサドッグは威厳ある恐い顔をしては顎を上げ練り歩いていた。
パピヨンドッグが「キャンキャン」怒った顔で吠え叫び、「我の通り道を浸蝕するそこのでかい図体の犬が五匹も揃って教育のなっていないトサドックだ!」と吠え立てている。
自分の可愛い可愛い犬が食われるか吠えられるか愛くるしさのあまり旦那様に気に入られ誘拐されるかする前に、ガルドは片腕にパピヨンドッグを抱き上げた。
「可愛い子だ」
限りなく表情は無いがやはり素敵などこかの旦那様が言い、パピヨンドッグ連れの金髪で若々しい肌も健康的に焼け太陽のオーラのあるどこかの御曹司に、眩しそうに目を細めた。その青年の目は素晴らしい程のエメラルドグリーンで、巨大に光っている。どちらにしろ、その青年も恐いほど無表情で、愛らしい犬はその分、とても表情豊かだった。
「ああ」
青年ガルドはそれだけを言い、紳士を見た。トサドッグ達は口を開く事も無く太い鎖に繋がれ整列し立っていて、その鎖の先の紳士は、ゴールドブラウンの髪を片方に流し、上品な黒の釦なし上着を膝下までゆったりさせ、細身のパンツと細いブーツで、上着の下に白のインナーをまるで西洋シャツの様にだが、充分モダンに着こなしている。洗練された顔つきは引き締まる中にも優雅さもあり、やはりクールだ。
パピヨンドッグが降りたがり、トサドッグの所に行くとトサドッグはパピヨンドッグの匂いをかいで挨拶をしていた。
「しっかり躾られてるな」
どこかの旦那様は犬達を見て、相槌を打った。
「ああ。滅多な事には本性を現さない」
そう言い、何某かの空気を一瞬一陣の中に流れさせ、ガルドは視線を流し上目で男を見た。男が街並の風景の中、犬達を見ていた瞼の横顔が、ガルドに微笑した。
引き付けられて、一歩踏み出した時だった。
「ウォンウォンウォン!!」
「ウォン!!」
ガルドはショックを受けトサドッグ達を見回し、自分の犬はいきなりの事に「ギャンギャンギャン」と吠え出し、犬を抱きかかえて旦那様から離れて行った。
犬達が静かになり、剣呑とした目でガルドを見た。ガルドはいじけて自分の犬の頭を撫で、犬はショックを受けているご主人の頬をぺろぺろと嘗めてやった。
「申しわけ無いね。自分より強いと判断した相手には人間相手だろうが吠え立てる事がある。珍しい事なんだが」
「いいや」
「散歩をお供しないか」
そう素敵な旦那様は上品で清涼とした顔つきで微笑み、ガルドは引き寄せられてついて行った。
男が何者なのかも知らずに……。
気絶から目覚めると、ガルドは後頭部を押さえ唸った。
顔を歪めて目を開ける。自分の犬がいない。
あの男の気配も無い。どこかの金持ちで、それで犬を五匹連れていた。大型の闘争犬だ。
ぐったりしていたのを肘をつき足を曲げ起き上がり、金髪の頭を抑える。
辺りは暗い。元々いた明るい昼のジュルッサの丘ではなくなっていた。
どこか、建物の中のようで、荒れ果てたモルタル床と暗く闇の占領する壁。埃を被った箱。地面は一部、泥水で濡れていた。
「犬」
ガルドは痛い体を抑えながら呼び、闇に目をこらすが声がしない。白い光が差し込む窓の無い間口を見る。通路は光が充ちているが、どこもやはり荒んでいた。光がある分、スラム地区より良い場所だ。
「………」
ガルドはこの状況を見回して、ある頭の中にある事件簿が浮かんだ。情報処理を進めている内に出てきた過去の未解決事件だった。
まさか、あの男が関係しているのだろうかと思い、長い脚を立たせて壁伝いに手を掛けた。
その事件は荒れ果てた雑居ビルの個室で、其々場所もバラバラで三件の意識不明の重体で発見され、そして二件の行方不明者が放置されていた事件だった。二名は、一人が五歳の子供。もう一人は二十五歳の女だったがいずれも後頭部に痣があり、気絶させられ運ばれたのだろうという事だったが、事件前の記憶が抜けていて、既にその五歳だった少女も十歳歳になっている。依然、記憶は戻っていない。意識を目覚めさせた者達も、二十代の男女だった。それでも事件前の記憶は無かった。
五名の共通点は、犬を飼っている事だ。いずれも、その犬達は家に戻っていた。
当初、殺人には至らなかったが、殺人未遂事件として取り扱われたもので、目撃者も証言者も一切いなく、未解決になったものだった。
まさか、あの男は自分の犬で他の飼い主達を誘き寄せ、そして自分を手に掛けようとしたのだろうか。あの余りにも魅力的な様で。
ガルドは犬を探そうとした。
「犬」
間口へ歩こうとした。
「?」
足首を見下ろした。鉄枷が嵌っている。ガルドは目を丸く口を閉じていて、それを見た。
実は鉄鎖を引きちぎる事がガルドにはできる。
しばらく顔を真赤に粘っていたのだが、それは鋼鉄製だった。
繋がれた壁を引っ張り崩そうと闇の方を鎖を辿り、消えて行った方を見回した。遺体があったら嫌なのだが、一応そんな匂いは嗅覚が告げていない。歩いて行くと、汚れている巻かれた縄、ステンレスの缶が積まれ、木の机、その上に生首。
「うぉああああ!」
驚いてガルドは猫ちゃんの様に飛び退り、棚から顔を覗かせた。
だが違った。作り物だった。ステンレスの缶はペンキで、積まれた麻の袋は溶かされていない蝋粉だった。ガルドが見回すと、何ともつかずにそれらを見た。
棚は蝋人形の生首だらけで、貴族っぽかったり、王族っぽかったり、兵士っぽかったりする。
ここは美術道具の仕舞われた部屋だった。
舞台用の衣裳が埃を被って首なしマネキンに掛けられ、蝋人形の腕や、ハイヒールの嵌る蝋の脚などがまとめられて転がったり、箱にそれぞれささったりしている。
一体、組み立てられた物が影と光の間際にはあった。褪せた長く細かい金髪の女王っぽい蝋人形で、歴史のありそうなドレスを纏っている。随分埃を被った空間だが、それだけは綺麗だった。蝋の頬にも埃を被っていなく、唇や瞳もくすんではいなかった。
不気味な物が大嫌いなガルドなので、腕をさすりながら犬を探した。
どっかに糞をモリリングされていたら踏み散らかして面倒被るのだが、別に踏み散らかした気配は無い。
あの犬も自分が居候しているペットショップに帰ってくれたならいいのだが。
いきなりの激痛に、ガルドは声を上げ、ドサッと倒れた。攻撃を受けた項が痛む。テーブルに手を掛け、その上の生首が一体転がって行き床に落ちたことで、へこんでは土砂が蝋にめりこんだ。
背に手を当てられた。
「また連れ去られる前に……」
あの男だ。
強烈なスタンガンで倒れさせられ、ガルドはおぼろげな横目で男を見た。
「可愛い」
男がそう綺麗に微笑み、まるで犬の様に頬に頬を寄せてくる。
「………」
自分が刑事だとこの男は知らないようだ。ガルドは汚れた地面を自己の呼吸で塵が舞い上がる中見ていたが、目を閉じた。
気が遠のいて行く。
目を覚ますと、どこかの豪華な屋敷だった。
「………」
真っ白い巨大な枕と、柔らかい真っ白の布団。それから顔を出し、黄金の光が充ちる中を見回す。
白黒のパピヨンドッグが駆けつけて来て、ガルドのいる寝台に飛んで来た。
「おお。犬」
犬は「ンとク」の間の声で唸り尻尾をふりふり振り、意地悪そうな顔を笑わせた。
遠くの壁際を見た。
あの男だ。
サイドボード前に男が背を向け立ち、何かしている。
しばらく刑事的に様子を窺った。
男は振り返り、歩いて来るとあの散歩の格好と違っていた。上質な仕立てのいいワイシャツに白の蝶ネクタイ、黒のすらっとしたトラウザーズパンツと黒い細身の革靴。やはり顔立ちからして品があり、清涼感がある。
あのトサドッグ達はいなかった。
犬を抱え込み、上目で見た。
「名前は確か、デーモン・ガルドだったな」
「………。ダイラン・ガルドだ」
ガルドは顔を反らし、犬が真っ白の羽根布団に塗れて尻尾をふりふり振った。
「ダイランか。警察の仕事は楽しいか」
ガルドは答えずに、空間を見ていた。男は一度倒し手を握り手首の匂いを嗅いでから、離れて行った。ガルドはその背を見て、かすかにした血の香りに自己の首に手を当てた。
「………」
真っ白の枕に血が落ち、手に流れた。
血を好むヴァンピリズムの男だろうか。公開されていない情報の中には、誰もが一箇所に傷を負っていた。指先で、ナイフで切りつけられてた。だが、その傷口には本人以外のDNAは検出されなかった。ただ、五歳の子だけは傷は無かったのだが。
自分の指先には傷は無い。
首を傾げ、マントルピース横を見る。左右に五体の蝋人形が置かれていた。仮面やドレスを装着している。
その上のほうに、あまり趣味がいいとはいえないものが吊るされていた。マリオネットのように糸で吊るされたもので、人では無いが、なにかは不明だ。
衣服に乱れも無いが、自分の服では無かっ
「お目覚めですか」
「うおあああ!!!」
ガルドはドビックリし、逆側から間近で覗き込んで来た執事っぽい男を見た。落ち着いてみると若い男だった。不気味だったので血色悪い老人レベルの執事かと思った。
とびきり明るい笑顔で若い執事が間近で見ていて、ガルドは顔を背けた。
「旦那様」
スッと背を伸ばし男の背を見ると、男が振り返る。
「あんた、何者だ」
「旦那様は多くの舞台をお持ちの方だ」
執事を見上げると、その若い男は何かいろいろ言い出した。
「アイーダ。蝙蝠。ファウスト。ボレロ。薔薇十字団。そういったオペラやオペラッタ、劇場などの」
ガルドにはわけの分からない名称をいきなり言い始めているので放っておいた。
あの美術道具があった空間はそれら所有される舞台のある建物の一室だったようだが、実際は、他の五件の事件時に発見された場所はいずれもバートスク地区やアジェン地区内の雑居ビルだった。
ガルドはベッドから起き上がり、いきなり旦那様が目を開き片腕をバッと伸ばして来た。
驚きベッドに転がり、犬が腹に乗って来た。
「何だ一体」
「まだだ」
「何が」
何かの影に気付くと、それが画家だった。キャンバスに何か描いていた。
「あんた、五年前の誘拐事件の犯人か?」
「奥様は亡くなられました」
「………」
執事を振り返り、見上げた。
旦那の方を見ると、表情も無く円卓上の高杯に乗る果物と、その脚下に置かれた細かい彫刻つきの短刀に手を当てていた。
だがあの趣向、旦那もその気があるじゃねえかとガルドは犬とじゃれあいながらもみくちゃにして遊んでいた。
旦那様は肩越しにちらりとその背を見て、短刀を手にした。金とプラチナのそれを手に下げ、歩いた。青年の背後に来ると金髪を見た。
横に手をつき、ガルドは犬を抱きながら肩越しに男の目を見た。水色掛かるへーゼルの瞳が、瞳を見つめて来た。
「!!」
瞳を奪われ掛けてガルドは咄嗟に避けて、派手に羽毛布団が断ち切れて真っ白の羽根は舞い、犬が大喜びでキャンキャンと跳ね回った。
その中で羽根を盛大に舞わせながらガルドは身を返して短刀が、真っ白くふわつく羽根を掠めていく中の冷静な瞳から流れて来る。短刀が寝台のヘッドに突き刺さり、旦那様は鋭い目でザッと西洋剣の鞘を飛ばし刃が銀に弧を描き光り、ガルドが羽毛布団をバッと広げ投げつけ鋭い切れ味で断ち切られていき銀の刃が光る中を飛び避けて羽根が空間中に舞い飛び、ガルドはバク転して飛び退りマントルピース上のサーベルを手に、羽毛の嵐の向うからザッと勢い良く飛ばされてきた剣が真横を掠めかけサーベルでバキンと払い叩きつけ、進み走り旦那様の肩を押さえ象嵌の床の倒し、喜劇サルの様に奇声を上げ笑った執事が旦那様に剣を投げ渡してガルドは避け飛んで跳ね起きた旦那様の背を蹴散らそうと回ったが咄嗟に殺気で背を低く回って足許をすくわれ掛け飛んでベッドに飛んでクッションを投げつけた。
真綿が舞い、中に含まれていたハーブのポプリが強く香った。
フェンシングをやっていたガルドだが、旦那様は何か海軍だなにかにでも入っていたのか、見かけに寄らずに鋭く凄まじかった。
犬は既にキャンキャンと羽根を舞わせて喜んでいて、やはり犬はホワイトスネーク時代からいたのでこういう状況に完全に慣れきっていた。
ガルドは歯を剥き激しく火花が飛ぶのを剣に刃負けする前に一瞬見回し、ガスライターを手に取り金属を噛み付けオイルを噴き、一気に火をつけた。
「あ!」
旦那様が飛び退り一瞬で羽根に燃え広がった火が炎になり、空間を燃やし付けた。
犬が大はしゃぎで飛び跳ね、火花が振る中を旦那様が床に崩れ剣を持つ手をついて顔を歪め背を低くし、いい男のそんなセクシーな体勢に、ガルドは微笑し火花が振り舞い落ちる中をサーベルを向け進んだ。彼の頬にも、サーベルにも炎が強烈に光り揺れ流れて行く。
象嵌の床に落ちた羽根の火花が羽根を下ろした孔雀と鳳凰の様に、床に渦を巻いてチェリーブロッサムの花びらの様に弧を巻き広がった。
その事で熱せられたポプラが魅惑の薫りを立ち昇らせ、官能的に濃密な香りに天に目を閉じ息をついては瞳が開かれ瞳が瞳を見た。
旦那様が、ガルドの攻撃にザッと回り避け剣を背後に構え立ち上がりターンして細いサーベルを跳ね飛ばしガルドはそちらから旦那様を上目で微笑み見て旦那様は蹴られ飛んで行った。
ベッドにバウンドし、ライオンの様にガルドが飛びつき旦那様の首元に噛みついた瞬間だった。
「ウォンウォンウォン!!」
五匹のトサドッグ達が扉から駆け込んで来てガルドに襲い掛かり、ガルドは転がって行きギャーギャー叫びながら床をトサドッグ達とじゃれあいだした。犬も大喜びでキャンキャン加わり、旦那様はそちらから視線を戻しどっさりとベッドに背を戻し目を閉じ、手から剣が落ちた。
背を上に、シーツを引き上げ放射状に線が引かれる。
ガルドはそちらを見て、頬を派手に嘗めてくるトサドッグ達に塗れていたのを起き上がり、既に転がっている執事と、逃げてガルドの眠る姿が美しく描かれたキャンバスが転がる中、歩いて行った。
そっと背に手を掛け、魅力的な横顔を見つめた。上品な瞼を閉ざしていて、性欲を狩り立てて来る。
背の上に乗り目を閉ざし、肩に頬を乗せた。
とはいえ実際の性欲になど結びつかずに、腕に手を当て頬釣りした。
旦那様は青年の瞼を見つめ、手に手を重ね指を絡め握り、目を閉じた。焦げついた羽根が真っ白なベッドに降りる中、脚を絡め合い眠りに落ちた。
犬はご主人が気に入った旦那様の横で丸まって、トサドッグ達は新しい遊び相手のガルドを手に入れて満足していた。
床に落ちた剣には、彼等の空間が暖色に映っている。先ほどまでは炎の中の乱舞を映し。今は静寂を映している。
カトマイヤーは視線を流して行き、風が吹いて黄緑の木々を撫でさわつかせ、ガルドが進んできた方向を目で追っていた。
珍しく何か被っていると思えば、それはフェドーラだった。赤紫のベライシーという名らしい車両は、今日はバンタイプにされていて、サイドにシルバーコブラエンブレムプレートのつく黒艶の樹脂屋根がついている。
それが流れ走って来る。
カトマイヤーは歩いて行き、一瞬、横を通った時にフェドーラの影から覗いたエメラルドの瞳で、カトマイヤーは立ち止まり見つめ口許を微かに開き風が流れ、無表情のままの横顔のエメラルドの瞳が反らされ、進んで行った。
ジル。
その言葉を、心の中でさえいつでも彼を目の前に抑えようとしてきた。ずっと。
肩越しに走って行く赤紫のベライシーを見つめ、顔を戻し歩いて行った。
ガルドはいつもの白のワイシャツに、黒のスラックスで降り立って目深くフェドーラを被り、ベライシーのキーを回し収め口笛を吹き進んで行った。
部署について珍しくフェドーラを被るガルドをみると、警部補キャリライと同期の巡査部長ソーヨーラが首を傾げた。
「似合うじゃないガルドくーん」
そのフェドーラの為に、トラウザーズよりもラフな仕立ての細身のスラックスに、いつもよりまた更に洒落て銀バックル付きの黒の革靴だ。
ガルドがフェドーラをデスクに置いた。
「!!」
フェドーラを取った分の頭に、すっぽり、真っ白い包帯が巻かれていた。
「なん、なんなのそれ」
なので、異教の白い帽子を被っているかのようだった。ガルドはミドルネームがガブリエルといい、本名がダイラン・ガブリエル・ガルドなので、白いものを被ってまるで天使のようだった。
いつもの表情の無い顔で受け答えない。
「まさか、またごろつきと殴り合いの喧嘩でもして煉瓦でも叩きつけられて負傷したんじゃあないでしょうね」
カチャ
部長室からカトマイヤーが出て来て、首を傾げガルドを伏せ気味の目で見た。
「何だねそれは。女性に頭に鈍器で殴られでもしたのかね」
ガルドは憮然とし、犬の様に歯を剥くと答えずに向き直った。
犯人はあの旦那様の後妻と執事だった。
レリッゾの妻も鈍器で頭を殴って来るが、あの旦那様の妻も同じ系統だった。すぐに治るからいいものを。
「おはようございます。まあ警部! 可愛らしいお帽子ですね!」
「………」
フィスターがニコニコ笑ってそう言って、デスクについた。
本日も処理B班の仕事手伝いだった。
地下の資料室に来る。事件ファイルを持って来て、そのデータをパソコンに読み込ませた。
五年前の例の事件だ。頭に叩き込んでから戻しに行った。
あの旦那様だとか、妻、一族の事を調べる事にする。
「え? ラブール・エルック・エーランの事かな。トアルノッテの実業家で劇場を所持しているといったら。エーラン一族は歴史は古いよ。五百年前にレガント一族と共にアメリカへ渡って来た貴族達に含まれていて、九番地に屋敷を構えている」
「ラブールってのは何歳だ」
「確か、彼は四十三。なかなかの良い男で、寡黙だが雰囲気のいい人でね」
確かにそうだと思いながら、キャリライに妻について聞いた。
「お前の美人妻、ラブールの妻と親しいのか」
「………」
いきなりキャリライの表情が止まり、ガルドを見た。資料室に対して留まらずに自己のデスクで仕事をするキャリライだが、今は資料室にいた。
「何だよ」
「奥方は三年前に不慮の事態で亡くなった」
「何で」
「宴の最中に、僕もその場にはいたんだが欄干から乗り出してね。下のホールに並べられてあった美しい蝋人形の林の中に転落したよ。丁度、その宴の中心になっていた女王の蝋人形の真横にね」
「へえ。変わってたのか」
「いや。恐かったな。なんというか、何ごとにも妥協を赦さずにいて、ヴィッタリオ一族のオーロラ夫人とは気質も合ってか仲が良かったんだが、彼女も惜しんでいた」
フィスターがやって来ると、向かいに坐った。
「エーラン一族の方は、英国にも三箇所劇場を所有しています。アメリカ移住をする前のものを現在でも引き継いでいるので、ミスターラブールはそうは街にはいらっしゃらないと社交でも伺いました」
フィスターは十三歳までをフランスにいた。十四歳でアメリカのマイアミ、コーラルゲイブルスに来たのだ。
「妻はずっと街で留守預かってたほうが長かったのか」
「ああそうだね。時々出張に着いていく以外は」
「犬飼ってるのは」
「大きな犬なら飼っているな。がっしりした奴だ。ラブールさんの犬だが、どうも恐くてね。それが五匹も揃ってる時は。何しろ、ラブールさんの所のトサドッグは大型に改良されているんだ」
「へえ。ラブールの性格にしては」
「そうだね。あれは屋敷の護衛目的で飼ったんだが、他のドーベルマン達を襲ってしまうために縄で繋いで殆どを屋内飼いし始めたらしい。ラブールさんは古い時代からの剣豪一族でもあるから、犬の調教にも長けていて犬達も彼の言うことは聞くからね」
「それで五匹も。何で妻、身を乗り出したんだ」
「僕からはどことなく、麻薬の線に思えた。普段から冷静な女性だった分、酔う事も無かったし多少信じられなかったからね。だが、検死の結果麻薬はやっていなかったそうだ。原因は不明だよ。事故処理された時に、国を留守にしていたラブールさんはその捜査結果に怒って起訴を起したけどね」
「妻の趣味は犬の散歩か」
「その時代はアフガン・ハウンドを一匹飼ってたよ」
「五年前の五件起きた雑居ビルでの誘拐殺人未遂事件、その妻は容疑者には一切被ってねえな」
「………。彼女が? ハハハ! ありえないよ!」
キャリライが笑い、首を振ってから、眉を上げ横目でガルドを見た。
「どういう事だ? 彼等の事を聞いて、何を怪しんでる」
「ラブールは俺が警官だって分かっていながら昨日可愛い可愛い俺を屋敷に誘拐して来てベッ」
バシッ
背を叩かれガルドは舌をベラッと出した。フィスターはガルドがバイセクシャルだという事を全く知らない。他の人間には周知の事だが、彼女は数ヶ月前にコーラルゲイブルズからリーデルライゾンに来たばかりだ。
「あの彼がそんな事するわけが無いだろう。第一、あの彼を刺激しない方がいい。多少、扱い辛いばかりで無く権力の面でもヨーロッパでは幾つもの連盟に入っていて力を有しているから、そういう性質の人間というのは何かと裏に隠れる性格が計り知れないんだ。元々エーラン一族の人間はどこか、内に秘める何かの悪魔的な物を感じる。イギリス時代では、古くを剣豪の血筋を買われていたが、それは地下でのなんらかの崇拝時による信者達の護衛や、反逆者への制裁にも関っていたといわれていて、それらの儀式が行なわれていた地下のある劇場がその後、彼等がガーディアンについて管理が行なわれた所以だという説もある」
「いわくつき一族だな」
「彼等夫婦が犯人かと? 五年前はラブールさんはずっとアメリカにはいずに、三年間をずっとフランスにいた。忙しい時期で、様々な上映内容の選出と舞台役者達をかき集める為に飛び回っていたからね」
「妻は」
「彼女はとてもスレンダーな女性で、被害者には成人男性が二名いた。その彼等を気絶させて運ぶにしても、どれだけの労力を要するか。第一誰が犯罪なんかに手を貸すんだ」
「犬で散歩仲間装って、それで連れ出した場所でボコッと凶器で殴ればぶっ倒れる」
「女性が記憶を無くす程の力で?」
ガルドは元が打たれ強いものの、確かにどうやってジュルッサの丘からあの場に運ばれたのか皆目検討つかなかった。犬に引きずられたら、普通誰もが怪しむ。何か薬をかがされ、それでどれ程か歩き、車両にでも乗り、運ばれたのだろうか。
「ラブールの劇場の地図くれ。それに五件の被害があった場所も重ねてくれ」
キャリライは肩を竦めながら、パソコンでリーデルライゾンの地図を出すと入力して行った。
ジュルッサから一番近くても、既にトアルノッテのセインクラー通りに二つだった。他には、エッケノーラとトアルノーラ間の劇場も二つある。ラブールの屋敷は三つあった。九番地に二棟と、それに七番地端に一棟。それと、アヴァンゾン・ラーティカの崖下にある別荘群にも一棟あるという。
何も、劇場だったとはいえない。九番地にある屋敷地下にあの一室があったかもしれないのだ。埃を被った蝋人形達が並べられていた地下。宴で妻が亡くなったという時のものだろう。女王っぽい綺麗な奴だけが自棄に綺麗だったと記憶しているが、あんな暗い場所に置かれているのは不思議だった。実際、幾つか室内には飾られていた。日焼けや劣化を防ぐ為に寒い陽の当らない場に置かれているだけだろうか。
やはり、バートスク上とアジェン上の五棟の誘拐現場は其々がジュルッサからは離れている。人知れず運ぶには、五年前では夜でも無理だ。それなのに、目撃例も無かった。やはり車両が考え易い。
「囮に入るつもりだ」
「エーラン一族の屋敷に?」
きっとあの場で自分が目覚めなかったら、きっと記憶も無いまま発見されていたか、それかそれ以上の被害に遭っていた可能性もある。警察も捜しに来る事無く、そして自分が目覚めていたからラブールの何らかの琴線に触れ、気に入られて屋敷に連れて来たのだろう。
「いいか。慎重にしてくれ。君はその言葉を知らないからね」
ガルドは寝室に来て、扉を開けた。
ラブールがあの寝台向こうの窓際にいた。高い掃き出し窓は間隔をおき続き、執事は離れた場に手を組み立っている。
物音に、ラブールが振り返るとガルドを見た。
「入って来たのか」
ガルドは進み、何も言わなかった。
ラブールの前まで来ると、ラブールはガルドの顎に指を当て上目で見た。
「可愛い子だ。忍び込んできて」
そう言い、離れていき寝台横のナイトテーブルにワイングラスを置いた。ナイトテーブルは両サイドにあり、ランプシェードが置かれている。
既に、昨夜の羽毛やポプリは跡形も無い。黒シルクの巨大な枕と肌掛けが敷かれている。グレーシルクのシーツに。
ガルドはラブールの頬に手を当て倒し片膝を寝台に掛け、驚いたラブールの曲げる足に膝を進め坐った胴横に腕を立てた為にラブールが眉を潜めガルドを見た。それで、どうやらラブールが自分の体には興味があったわけでは無いと分かると、ガルドは憮然として横に座り足を組むと肘を乗せ頬杖をつき、あのにっくき執事を見た。
まるで執事はあの愛嬌を見せ始めたトサドッグとは対照的に、剣呑とした上目で睨んで来ていて、まるで険しい顔の犬かのようだった。はじめて見たときも、まるで犬の様にぬっと現れた。珍客に興味を示したかのように。
「?」
ガルドは首を傾げ天井をエメラルドの瞳で見た。寝台上は三つの円が連なり草木も彫刻されるプラスターで、その円の中心は絵画が漆喰に描かれ、プラスター周りは象嵌が施されている。
犬のように思ったのは初めてじゃ無い。あの荒んだ美術道具室でもだ。
本当にあの場に現れたのは、旦那様に間違い無かったか? 暗くて、目は霞んでで、昼に話していた固定観念で事件簿もあり、それがラブールだと思い込んでいただけで。
実際、ラブールにこの屋敷内での事件性はそういえば被った事はあっただろうか。指を切ってこようとした以上に、目玉をくりぬこうとしてきたり、首筋を噛み血をすすってきたからそっちの方が相当問題視されるが……。
執事を見ると、ガルドをじっと目も離さず見ていた。上目で相当眼垂れてきている。ガルドは無視してマントルピース側を見た。蝋人形が無い。
「蝋人形が無い」
「蝋人形が無」
「うおあああ!!」
ガルドは不気味な若い執事にいい加減叫び、見上げた。
「……ンンン可愛い!」
そう叫びガルドに抱き着いて来て、ラブールは足をさっと退けると寝台から離れた。頬釣りして来る。犬のように。
「おい。こいつを放し飼いにするのが一番おかしいんじゃねえのか」
ラブールは歩いて行き、円卓上の菓子の入る器の蓋を横に置き、それを手にした。
スミレの花を砂糖に漬けたもので、春のうちに作られたものらしい。
若い男は、ガルドのパピヨンドッグよりも子供の様で、頬にチュッチュキスをしてきている。どうやら同性好きらしい。
旦那様のほうは点で放っておいている。犬好きで誘拐犯の執事と、血を好んでいそうな旦那様? その亡くなられた奥さんは蝋人形の上に落ちた。
「おい。お前、何歳だ?」
「二十七です」
「五年前いたか?」
「います」
「奥さん殺したか?」
「………」
ラブールが円卓横の椅子に足を組み座り、スミレを指にガルドの横顔を横目で見た。
「五年前五人の男女誘拐したか?」
若い執事が、実際執事なのかも不明で、しがみついてくる腕からラブールを見た。
「こいつ、あんたの息子か?」
ラブールは顔を反らし、マントルピースの方向を見た。
こげ茶色の髪はカール掛かって柔らかく、顔は愛嬌があり可愛い。旦那様と似ていなかった。
「お前、屋敷の執事か?」
「飼われてます」
「犬みたいにかよ」
「その子は回りの世話をしてくれる子だ」
「知能が遅れてる」
頭を叩いて来た青年を見た。もう怒っていて、目がまた鋭くなっている。
「何故こいつの犯行を見逃したんだあんた。分かってて近くにおいて放置し無いようにしてるのか? 昨日俺を連れ去ったのはどうせこいつなんだろう」
「奥方は殺していません」
「五人を誘拐したのか?」
「してません」
「昨日俺を気絶させた」
「旦那様です! 俺はしてません! 全部全部全部全部全部全部です全部全部全部全部何でもかんでも誘拐したのも奥様殺したのも蝋人形燃やしたのも僕を蹴ったのも結婚したのもトンカチも全部全部全部全部全部全部全部全部ぜーんぶ旦那様です!」
ラブールは首をやれやれ振り、器に蓋を戻した。
「こんな頭おかしいと人目につかず何も出来ないな」
ガルドはそう言い、ベッドに転がりシーツをバラバラにして暴れて泣いている世話役の青年を見た。
何故こいつが気絶の原因のトンカチを知っているのかは危ういのだが。そんな物で殴られればたまった物じゃなかったわけだ。
ここの奥方が犬の散歩にきっと可愛がってたこいつも連れて、勝手にこいつが誘拐事件だとか起こしたり、きっと犬や飼い主に興味あって誘拐して嫌いなご主人の方を気絶させて、犬浚って行ったが逃げられて探している内に警察が被害者発見して、奥方も知らずにいたが、宴の時になにかあってこいつ、奥方を殺したかもしれない。そう仕向けたのだろうか。何かの力で。
「あなた。犬達のお散歩に向かって頂けないかしら。もう行きたくてうずうずしているみたい」
扉が開かれ、あの美女がガルドを見た。
「まあ!」
一気に顔が険しくなりラブールの後妻が怒って、細い腰に拳を当てた。
「何故ルシフェル・ガルドがまた?」
そう言うと、世話役を見た。また首輪でも嵌めていなければああやってシーツをぐしゃぐしゃにして。とっととまた地下に閉じ込めればいいというのに。
「来なさい」
世話役を来させ、世話役はガルドを上目で肩越しに睨みながら服もメタクソに、肩をいからせ歩いて行った。
彼女は青年のモーニングから出たシャツや、曲がった蝶ネクタイ、外れた腹帯の留め具をしっかり嵌めてやってから髪を手櫛で整えてやり、一度ガルドを睨んでから、歩いて行った。
ガルドは憮然とし、ラブールは顔を戻し立ち上がったガルドを見上げた。
手に手錠を下げていて、それを彼は見た。
「散歩がある」
そう言い、手錠を無視して旦那様は歩いて行った。寝室横のドアを開け進み、ガルドも飼い犬のように着いていった。
衣裳室になっていた。ガルドは背凭れを前に椅子に跨り、其々の場所から服を出して行き、台に置き、服を着替えていく旦那様を見ていた。
衣裳室には中央ソファーの上に猫がいた。毛足が長く、銀白い猫で、扉を見ると猫様の扉があった。生けられている花が衣裳全体の香りになるような薫り高さで、生花が香る。優しげで瑞々しい薫りだ。
香りにつられソファーに移り、猫がトンッと銀毛を揺らして逃れ、椅子に坐った。花は片方が藤の花で綺麗に垂れ下がり、もう片方はネイビーカラーで尖った花びらが五弁ついた黄色いおしべの花で、そちらに香りがあった。見た目は、夜のような男性的な薫りがしそうな、ミッドナイトブルーだが、裏腹に女性らしい香りがする。
ラブールは横目で藤の花を見上げて手を当てているガルドを見ると、そちらへ行った。膝を掛け立ち、腕をついて腰を折った。そのまま、エメラルドの瞳も閉ざされて行く。
しばらく、首筋の血を吸われつづけていた。ガルドは天井をボウッと見ながら、時々目を閉じラブールの髪から項に手を撫で掛け、微かに時に感じる僅かな痛みに目をあけ、血を吸われていた。柔らかな唇が時々滑らかに首筋をゾクッとさせ、そして熱い舌が這う。
血の薫りがたまにラブールの口から立ち昇り、ガルドをくらくらさせた。
昨夜は短剣が握られていた手がガルドの肩に添えられ、ラブールは幸せでずっと首筋に滲む血を飲みつづける。その内、幸福さに時々、閉ざされる上品な瞼に生え揃う睫が震えた。
ガルドは衣裳の収められる棚を見た。
落ち着き払うが興奮気味のラブールの心音が手腕に伝わり、ガルドは目を閉じた。
首筋から歯を離し顔を見る。
ガルドはやはり、写真の中の人物に似ていた。父の持つアルバムに収められた写真だ。この屋敷にある図書室で、窓際の一人掛けに沈みその彼は本を開いたまま目を閉じ眠っていて。窓からの陽射しも、風にそよぐレースのカーテンの中、円卓上の紅茶はまだ白い湯気が立ち昇り流れ、光が差し込み美しかった。セピアの中の彼は、目の前で今目を閉じている青年と同じ顔だった。優雅で、気品があり、そしてどこかしら奔放な。
彼の血縁の血ならばそれは濃く美味しい事を知っている。それは、古い時代から。
ガルドは目を開き、おぼろげに徐々に血液がしっかり循環し始めていた。
背に視線を落とし、腰元や、その先の長い脚。くるぶしを見つめ、髪を見つめた。
「………」
大して血色の良くなかった顔が、今は色味を差している。低血圧なのか、鉄分を取ってよくなったのだろうか。
旦那様は支度を始めた。
ガルドは目を見開き、それを見た。
アフガン・ハウンドのそれだ。
あの世話役。あいつが、アフガン・ハウンドの恐ろしい程リアルな着ぐるみを衣服を脱いだ背に掛け、脚と腹部のチャックを引き上げて行き、そしてフードの様になっていた頭部を被り、位置をしっかりさせると、一度あの長くストレートの毛をふるふるさせ、細面の顔立ちを左右に揺らし、背を沿っていきなり、四足になった。
「!?」
ガルドは凄いものを発見したモモンガのような顔になり、ザッと石ブロックに囲まれる室内から石の通路に引いた。恐ろしいものを見た。恐ろしいものを。
やはりガルドから遊び逃げて行ったトサドッグは見当たらなく、そしてこの地階の不気味なあいつを見つけ、そして、どうしようと思った。怖いので、カトマイヤーの元軍人野郎に来てもらってこれはどういう事なのかと頬をバシバシ叩いて聞いてもらいたかった。
また格子先を見ると、あのアフガン・ハウンドは毛に覆われた手を出し自己の首に首輪を巻き、鎖に繋がれ、石地面にゴロンと転がって、そして言った。
「奥様と散歩したい……」
「!!」
ガルドは目を見開き口をOに、こめかみに汗を流してアレを見た。
そうか。あいつが奥様の飼い犬だったのか。それで誘拐し、犬達はヒトになったアフガン・ハウンドにいい加減逃げ出したのだろう。
ガルドはおっかなくて走って行き、出口で隠れて誰もいない事を確認した。
いない。
トサドッグが二匹駆け走って行った。通り過ぎて行く。目で追ってから、気配がなくなった所を屋敷から出て行った。
ガシッ
「うおあああ!!」
振り返ると、木々の緑をバックにした旦那様だった。すでに、二匹のトサドッグは繋がれ連れているが、三匹はいなかった。それでも、彼がホイッスルを鳴らすと三匹も駆けつけて来た。庭を歩くドーベルマン達には違う種類の音で合図するようで、一度こちらを一斉に確認しただけで、すぐに警備に戻って行った。
五匹とも並び、旦那様を見上げ坐っている。
「散歩に行こう」
「おい待て。まさか五匹の中の一匹があの世話役じゃねえだろうな」
「は?」
旦那様が眉を潜め、ガルドを見て犬達を見回した。
「一体何の」
ガルドは頭がおかしいと思われる前に、屋敷を一度振り返り、共に歩いていった。
ラブールはくすりと微笑んで、横目でガルドを見た。
「五匹が懐いたのは、君が初めてだよ。君の同僚のミスターレガントだろうと唸るからね」
「あの野郎は元が黒いんだよ」
そう言い、この所は逆に優男っぽくなり始めているキャリライが不気味だった。
後から、そのキャリライに聞くことはある。宴で奥様の周りに愛犬アフガン・ハウンドが坐ってたり歩き回ったりしていなかったのかを。あいつが四足のままうろついていて、あの長い毛の中からフッと手を出して奥様の足許をすくえば……。
歩いて行き、犬屋敷を離れていく。
今度こそは気絶させられるかと、ガルドは用心深くなっていた。
旦那様は一向に犯行に移して自分を襲って来ないので、ガルドはいじけて二匹を大人しく連れ歩いていた。
トアルノッテ内を進んでいて、時々他の貴族達が犬や猫や子供を連れている。
被害者達はいずれもエケノやバートスクの人間で、一人だけトアルノッテの御曹司がいた。五歳の少女はバートスクでチワワを連れて散歩していて、その日の晩に行方不明届が出され、夜半にアジェン地区で泣いて発見された。もう一人の行方不明の女は二十二歳で、ポメラニアンを連れていたのだが、五日間も散歩に出たまま帰らなくバートスクの古いワイン室を一週間ぶりに開けたレストランの店員が縄で動けない所を発見したエケノの女性だ。意識不明で発見されたのは、一人がエケノに住む二十歳の女性で彼女はガルドと同じパピヨンドッグを連れていた。その日の夜にアジェンに住む老人が物置で発見している。二人目はバートスク商店地区の二十五の青年で、自転車でスピッツを連れて散歩していたが、二日後の昼にバートスクの理髪店横空き店舗を不動産屋が点検に来た所、窓が割られていてその中にいた。三人目はトアルノッテに住む二十三歳の青年で、朝にビーグルを連れて出た。昼にバートスクの駐車場横にある空調室で業者に発見された。彼等は共に三日ほど気絶していて目を覚ました。
いずれもガルドの様に小型犬を連れて居て、二十代前半だった。
今はフィスターがバートスクやアジェン地区で周辺で五年前アフガン・ハウンド連れの女性やその犬を見なかったかを調べ回っている。もちろん、それがヒトだった情報などまだフィスターに渡せていない。キャリライは五年前の奥方周辺の事を調べ回っていた。異常に小型犬を欲しがっていなかったか、足を伸ばしバートスク地区などを散歩していた話を聞かなかったか、その頃何かストレスを抱えていなかったかなど様々だ。
恵まれたトアルノの街並を歩きながら旦那様の横顔を見た。
「いつもエリッサ通りに行くのか?」
「出張から帰って来た時期はね。出来るだけリーデルライゾン中を回る。今日は港の方向まで行く。比較的、長く街に留まれる時期はトアルノッテ内を回るだけなんだが」
「仕事、忙しいんだな」
「ああ。世界的な行事に合わせてもね」
「ルシーダってなんだ?」
「アイーダとは、エチオピア王女の名だ。エジプト国の捕虜にされたが、そこで彼女はエジプトの武将ラダメスと恋に落ちる。それを赦さなかったエジプト王妃が、彼等の恋仲を引き裂こうともがくが、最終的にアイーダとラダメスは同じ地下墓地(牢獄)の中で、命を最後まで共にした。そういうオペラだ」
アイーダ。フィガロの結婚。蝙蝠。ファウスト。ボレロ。薔薇十字軍。
「薔薇十字団って」
「薔薇と十字架をシンボルに持つ西洋各地に広まる秘密結社だ。創設者がアラビアやエジプトなどを旅して得た知恵などを信者達が会得し、地下儀式上で広がる物語だ」
「ファーストは」
「ファウストだ。一学者に悪の世界を見せ体験させようと目論む悪魔の名前で、悪徳を積ませて地獄へ連れて行こうとする。学者は研究に留まらない世界を知りたいと思い、彼に付いていくという戯曲」
「ボレロってなんだ」
「激しく舞うスペインの舞曲だ。カスタネットなどを打ち鳴らして情熱的に踊られる。ラベルが作曲したその曲に乗せて舞台で踊られる圧巻させられる舞いだ」
「そういう系ばっかかよ」
「いいや。オペラ座の怪人や白鳥の湖、胡桃割り人形、フィガロの結婚、サド伯爵、真夏の夜の夢、仮面舞踏会、カルメン、ドンファン……。種類は季節によって様々だ」
ガルドは途中から項をドスッと気絶させたくなる程わけ分からなかったので、止めてくれて手を戻した。
心地良い風が流れて来る。今日は旦那様はベージュ色の織られた衣服を背と肩からかけて、金のメッシュベルトで締め、下に薄手の白いシャツを二つ開襟してスカーフを納め、オリーブカラーのパンツと焦げ茶の革靴で、手首に金のブレスレットが光っていた。相変わらず、上品で顔立ちがクールで物腰も素敵だ。縄が繋がれる革部分を束ね持ち、その指には金が光っている。今日はナチュラルに中わけの髪が風に浮きそよいでいる。
ガルドはずっと横目で見つめながら歩いていた。
ガインッ
「ギャ!」
旦那様ばかり見て歩いていたので、青銅の街路灯にぶつかってガルドちゃんぶっ倒れ、犬達にもみくちゃにされた。旦那様が引き起こし、ガルドは胴を抑えた。
あの犬人間がきっと自分が好きな演目ばかりなのか、犬にして連れ歩いていた奥様の趣味で自室で毎回演じさせていたのを見ていたのか、あの子供っぽいがどこか不気味な世話役の青年の性格がどちらにしろ窺えるような物だった。
それにしても、血を好む性質の旦那様は今はまた静けさがある。
港は、海を見るといつでも五匹が狂った様に船に乗りたがるので、そちらの方には行かないらしく港地区内の建物の間を進んで行く。
気配を探っても、美人顔のアフガン・ハウンドも世話役もいない。打ん殴ってきそうな妻も。
やはり口に出したから警戒したのだろうか。
ドサリ
「……?」
ガルドは振り返ると、いつの間にか三匹ともいなかった。
「ラブール」
ぐったり倒れたラブールを抱え起こし、辺りを見回した。二匹は手を離され、船のある海のある方へ大喜びで走って行く。
「戻って来い!」
無駄だった。ラブールは気絶していて、いきなり出来た影に見上げた。
「………」
スタンガンを持った妻と、それに車の運転席には世話役。バチッとした音に避けて彼女の手首を持ち車両に押さえつけ、怒った世話役がトンカチを振り上げ叩いて来た。それを奪い投げ飛ばしてラブールを肩に抱え上げて走って行った。
「追って」
そう妻が世話役に言い、世話役は我侭を起してか、聞かずに怒って車を蹴っていた。妻は恐い顔になって背を叩き、ガルドを追った。
ずっと狙っていたラブールを、あの問題を起した世話役の事を知って、内緒にしてあげる代わりにようやくミストレスだった奥様を始末させて自分が妻の座に納まったのに、今度はまた世話役が悪い癖を出してしかも旦那様は凶暴な獅子ルシフェル・ガルドを気に入ってしまった。
今度はあの青年を手に掛けるつもりだ。今度は自分で確実に。だが、見られた。このまま行けば、世話役がやった事になり連れて行かれ、旦那様は自分だけのものになったのに。
女は走り、探すが見当たらない。
一方、ガルドはやっぱりおっかない妻を野外階段最上部の煉瓦壁角から見下ろし、屋上に上がるとラブールを降ろした。港の方を見渡す。倉庫屋根向うに、二匹トサドッグが駆け回り見えては三匹、また走って見えなくなり一匹。どちらにしろ、船員が追いかけ始めた。
下を見ると、既にすねた世話役は車に乗ってもう動かなくなった。女はスタンガンを仕舞い走って行く。
頬を叩く。ラブールがうめいて顔を微かに歪め目を覚ました。
「……?」
青空をバックにしたガルドは暖かな潮風に金髪を揺らしている。爽やかに影の中の無表情はエメラルドが色味を変え、不思議な色もしていた。彼を見て目を眩しそうに細めると、ウォンウォンという犬達の空に響く鳴き声に体を起した。ガルドは低くさせる。
「おい。あんたの妻と世話役は恋仲か?」
「え? 彼女は私の幼馴染だ。あの彼とは以前から普通に日常も話して来ていたが、恋仲なんてものは聞いた事もない」
「だがさっき俺達を二人で襲って来たんだぜ」
「何でそんな事彼女が」
「世話役の事は分かってたようだな」
「………」
ラブールが顔を反らし、背を縁壁につけた。
「庇っていたのは、私だ」
「そんなに大事か」
「妻の死の後に知ったが、それでも妻の大切にしていた子だった為にどうしても手放したくはなかった」
「あいつそのあんたの愛した妻を殺したかもしれないんだぜ。犬に化けていた内にな」
ラブールがガルドを睨み、ガルドは睨み返した。
「誘拐監禁だろうが犯罪犯したなら、あの性格でやらないとも言えない事だろうが」
「そんな確証は無い筈だ。彼も妻の死にショックを受けていたんだ」
「死ぬとは思わなかったと思ったら」
「何故そんなにシェリオを疑うんだ」
「事実を調べるまでだからだよ。未解決事件だったからな」
「……刑事としてだけ私に近づいていたのか」
「あんたはああいう奴を抱えていながらな」
「………」
俯くラブールの横顔を見て、ガルドは立てられる片膝に乗せるラブールの手に手を重ねた。
「俺が好きなら二人を明け渡せ。また犯罪起こしたらどうするんだよ。妻も世話役も共犯者として、一度味を覚えたら次々に俺みたいな邪魔者を手当たり次第手に掛け始めるだろう。あんたが頷かなくても、俺は奴等を傷害罪で捕らえて連れて行く」
ガルドはそう言い、屋上から降り階段を駆け降りて行った。あっという間に。
ラブールは身を乗り出しそれを見て、既に気配さえ消えてしまっていた。
「………」
うつむき、その場に再び坐った。トサドッグ達は船員達が捕らえ、ウォンウォンと声を響かせている。
ガルドは二人を連行して行き、三階特Aにある事情聴取室へ、世話役と後妻をつれて来た。
「俺は警部ダイラン・ガルドだ。こいつは補佐のフィスター・ジェーン。今からあんたの事情聴取を行なう」
後妻は顔をずっと反らしていて、脚と腕を組み横顔は壁を睨んでいた。
世話係の方はというと、ハリスが補佐をソーヨーラにして事情聴取に入っている。子供っぽい相手同士のほうが、あの子供の頭の世話役がいろいろ話すだろうと思ったためだ。しっかりとソーヨーラが引き締める。
「あんたは五年前、犬連れの散歩中の人間達を誘拐し、バートスクやアジェン地区に監禁したか」
「いいえ」
「あんた、エーランの幼馴染だってな」
「ええ」
「あの世話役のシェリーって」
「シェリオよ」
「そいつとはいつから見知ってる」
「あの子は元々、屋敷執事長だった男の息子で、小さな頃から屋敷の執事室にいたわ。ずっといたけれど」
「屋敷への行き来は」
「庭には来させてあそばせたけど、大体は暴れてばかりいたから、屋敷には入れなかったわよ」
「交友関係以上に恋愛感情には」
「あたしは三十八よ? あんなに子供っぽいシェリオの何を求めるっていうのよ」
「そうか。二十五に見えた」
「ラブールと幼馴染だとあなたが言ったけれど」
「前妻は元々、あんたの友人だったそうだな」
「だから?」
「亡くなってショックだっただろう」
「当然じゃない。友人だったのよ。姉の様に思いつづけていたわ。しっかり者で、抜け目無くて、遊びも好きで、素敵な女性だった」
「プレッシャーに思った事は?」
「別に。別人格だもの」
「何であんた、ラブールと一年前に結婚した」
「彼が結婚してくれって言ったの。あたしにね」
そう上目で強く微笑んで彼女は言った。
「彼女が亡くなってから、ずっと塞ぎ込んでいたわ。慰めてあげていなきゃ見ていられなくてね。彼等は本当に愛し合っていて、とてもお似合いで、夜の女王と王みたいだったわ。仕事はしなければならないけれど、彼女の事が忘れられなくてショックを受けていたの。ずっと出張から帰って来れば夜ともにい続けてあげたわ。時には出張も共に行ったのよ」
「前の妻がしていたように」
「………」
うっとりしていた微笑みが、ガルドを睨みながら言った。
「ねえ。レディージェーン」
「はい」
「彼、レガントの人間らしいにも程があるんじゃないの?」
「………」
「………。え? 警部が、何ですか?」
フィスターは淡い黄緑の瞳が瞬きを続け、首を傾げた。
「ジェーン。大きな間違いだ」
「だって、レガントの方々は元々プレイボーイが多いものね。キャリライも、レイブルもそう。ルシフェルだってうちの旦那」
「俺は何もして無い」
「じゃあその首筋は何よ」
「え? 警部?」
「誤解だ」
「噛み痕があるじゃない」
「犬に引っ掛かれただけだ。事情聴取を続ける」
「ええ。どうぞ?」
「何でも出来た友人の後釜に坐れてよかったな」
「嫌な言い方」
「あんたが手を回していたんじゃないのか? 世話役のシェリオを操って誘拐監禁させて問題を起させて友人まで殺させた」
「冗談じゃ無いわよ。あたしの事まで疑わないでよ」
「夫をスタンガンで気絶させたのはお前だ」
「あの子の物よ」
「そうさせたのはあんただろう」
「知らないわ」
その言葉から、その後何を聞こうが口を開かなくなった。一次、取調べを休憩した。
ハリスの方は、アフガン・ハウンドの着ぐるみをデスクの上に、その頭をぽんぽん叩きながら世話役に言った。
「あんた、これ着て何やってたの」
「散歩……」
世話役は下唇を突き出して俯き、上目でそれを見ていた。
「二足歩行で?」
「四足歩行で」
「それで、可愛い犬見つけたら奥さんおいて、それで誘拐犬のままその飼い主に散歩させて、それでひと気の無い所で叩いて犬奪おうとしたの?」
「うん」
「何でそんな事したのあんた」
「屋敷恐い犬ばっかだし」
「何で旦那に可愛い犬欲しいって頼まなかったの」
「旦那様は出張が忙しいです」
「奥さんは」
「強い犬だけ好きで、大きい犬だけ好きで、それで言えませんでした」
「犬になってたのは奥さんの遊び?」
「うん」
「それ楽しかったのあんた」
「凄く楽しい。他の犬と挨拶できるし」
「あんた人間でしょう」
「………」
アフガン・ハウンドを見ながら世話役は唇を突き出した。
「あんた、奥さん殺したの?」
いきなり、ぷるぷる震えだしてぽろぽろ涙を流し、真赤になって来るとアフガン・ハウンドの着ぐるみに抱きついて大泣きし出した。
もうこれ以上は大泣きしていて事情聴取にならなかった。
まだ自供してないが、ハリスはガルドに自供した事を後妻に言う様に伝えた。
「世話役が妻殺し肯定したぞ」
「そう」
「あんた、相当世話役から恐がられてるんじゃないのか」
「へえ。昨日そう感じたの? あなたがあたしのラブールを取っていたとき」
「あの、警部?」
「言葉がおかしいだけだ。はぐらかすな。ガキ時代から勝手知ったシェリオの性格を利用したんだろう。宴ではシェリオがアフガン・ハウンドの着ぐるみ着て前妻の横にいて歩きついていた事も分かったんだが」
「さあ。それなら何?」
「あんたの友人に忠誠誓ってるシェリオは、自分からいきなり殺意は抱かないはずだ。だが、あんたはシェリオとは前妻よりも長い付き合いで、性格も分かりきってるわけだからどうとでも言葉で操れる。きっと友人がシェリオに何をさせているのかも聴いて来たんだろう。地下に閉じ込めて、それで犬の格好させて散歩させてた事も。だから、ゲームの一環を教え込めばいいだけだ」
「あなたがそうしていたかのようね」
「知るか。あんた、奥様が蝋人形の女王と入れ替わる所見せるだとかどうとかうまい事言って、大喜びのシェリオを挑発したんだろう」
「あの子、自供したんでしょう? ならあの子がやったんじゃないの? どうだかは知らないけれど、あたしは何も知らない」
「何故それなら友人が死んだ真横にあった蝋人形を残してあるんだ。勝利の象徴なんじゃないのか? 自分にとって自分を差し置いてラブールと結婚した女王のようだった前妻が死んで、そしてその象徴の様だった女王の蝋人形も今はあれ荒んで誰も入らなくなたような薄汚れた倉庫にただただ置かれている。しかも、わざわざ綺麗にされてな。あんた、それ見て優越感に浸ってたんじゃないのかよ。今は自分は綺麗な屋敷で前妻のペットだった世話役も使って出張から帰れば旦那は幸せにペットの散歩という生活を夫婦で送れているんだもんな」
「………」
女が恐い顔になり、ジロリとまるでトサドッグそっくりと目でガルドを見た。顔は美しいままだ。
「あの女はいつでも殊勝に我が物顔で、シェリオが少しでも犬らしくないと鞭打ってたわ。妥協を赦さない性格だものね。シェリオは完全にあたしから離れて鞭の味を覚えさせてきたあの女の完全なるペットになったのよ。昔から子供のままだから単純で、あいつが見つかる前に地下に隠した蝋人形だっていつでも綺麗に埃払って、何時間でもあいつはあの女王の前にいたわ。もうあの女主人は消えたというのに! でも放っておいた。だって、もうあの女はいないんだもの!」
女はそう笑うと、ジェーンは口を閉ざして手を前で組んだ。
「じゃあ、あんたがシェリオに前妻を殺させたんだな」
「………」
そこでまた喋らなくなった。
「あんたは俺を殺そうとしてた。旦那が俺に惚れてたから気に食わなかったんだろう」
「け、警部、」
「そうよ。気に食わないわ。元の子供時代からあたしの物なのに奪われて行くからあの女の邪魔だったのよ! 彼はあたしだけ見てればいいの。あたしだけを愛すればいいの昔みたいにずっと。ずっとよ。悔しくて仕方なかったわ。あの女あたしの気持ちも知らずに微笑むのよ。彼がどんなに素敵なのか、彼がどんなに悦びを見出してくれるか、あの女犬に化けたシェリオの頭撫でながら言いつづけるの。聞きたくも無い事を!!」
怒りで涙を流す彼女が立ち上がるのを、ジェーンが両腕を優しく持って坐らせた。
「落ち着いて下さい。ミセス」
「あんたには分からないのよ! こんなに可愛くて、元からレガント一族ともジェーン一族は親交の深い友人同士で、恵まれてて、苦しみの無くあんたも社交界で大人気で彼氏にも不自由しないでしょうしまるでエンジェルだものね」
「そんなことは……」
充分美しい女だが、やはり一つの手に入れたい唯一のものだけが入らないと、自分の姿が見えなくなるのだろう。恋とは恐い。一人の女を、美しくても恐くする。美しくもするが恐ろしい顔にもする。
彼女は顔を押さえて俯いて涙が零れた。
「シェリオ、泣いてた。本当にあの人が死んじゃったから。あたし、悪魔だったのよ……」
髪で顔が見えなくなり、指の間から涙が零れつづけた。
ハリスは一つの件について、世話役が泣き止んだ所を形を変えて聞くように言われていた。
ハリスはソーヨーラにそれを上手く聞くように頼んでいた。
ハリスが誘拐監禁時の経緯をまずは聞いて行く。
あの指先の傷についてだ。何故そんな物がついていたのか。鋭利な短剣で切られていた、深さ一センチ、幅一センチの三角の深さは、切っ先を差し込んだからだろう。
わざわざ世話役がそんな事をするとは思えない。
「犬見つけて、次の日声掛けて、奥様の世話役で犬の面倒見てるって言って一緒に散歩して、それで連れてって、気絶させたんだ」
「人の格好で?」
「うん」
「その時持ってたの、このトンカチと、このスタンガン?」
「うん」
「他は?」
「無い」
「本当に一人で?」
頷いただけで、じっとトンカチをみていた。
「奥さん、それ聞いてどう言ってたんだ?」
「凄いねって言ってた」
ソーヨーラはハリスを見て、ハリスは続けた。
「それで、じゃあ五歳の子の次から奥さん、加わったのか」
バッと世話役が顔を上げて、口を閉ざした。
「ねえ。あなた、恐くてナイフ持てないわよね。トンカチとか、スタンガンなんて持ち出して」
「………」
世話役は俯いた。
ソーヨーラは妙な事をガルドから聞いていた為に、聞くことにした。
「奥様、血が好きだったの?」
「………」
「あなたが四人を誘拐して、それで奥様がそこまで来て、それで傷をつけて血を取っていたんじゃないの? 三人目、四人目、五人目って、搾り出される血の量が増えてきて、それで出血多量で意識不明になって発見されて」
「………」
世話役はずっと俯いて、暗い目許で光る瞳が髪の間から見えつづけていた。ハリスのネクタイが下がる腹部を睨みつづけている。
「血美味しいの? あんた」
「俺じゃない! 俺飲んで無い! 全部全部全部全部全部全部全部僕飲んで無いもん全部全部全部全部!!」
突然声を張り上げ怒鳴って、トンカチを振り回し始めたから調書レコード横にいた警官が叫ぶハリスを押し退けてあきれ返り青年の身を拘束した。
「散歩したい! 散歩! 散歩!」
「もう出来ないよ。あんた、犯罪犯しちゃったんだから」
青年はわんわん泣きつづけ、連れて行かれた。
ミラー越しに見ていたガルドは、その奥方まで血を好む性質だったのかと唇を撫でた。
いきなり背後にカトマイヤーがいたから、気付かなかったガルドはビビッて肩越しに見上げた。
「あんだよこの狐が」
カトマイヤーは伏せ気味の狐目で坐るガルドを見下ろし、視線を戻した。
「あんた、レガント一族専属使用人の屋敷で育ったなら、あのエーラン一族の何かを知ってんじゃねえのか?」
「犯罪にはならない事だ」
それだけを言い、踵を返し出て行こうとしたが止めた。
「何だよ。言えよ怖いじゃねえか」
「エーラン一族はレガント一族の血液を定期的に純正化するために古い時代から、血抜きを行なっている。体内の血液を一定量出す事で、体内の環境がリフレッシュされるからね。その後、栄養管理が行なわれてしっかりとした体調管理の元体力が形成されて行く。それがいつの頃からか、イギリス時代に儀式化され始めただけだ。ただ普通に血液を採取するだけでは味気ないとね」
「まさかその血飲んで来たのかよ」
「血の味をしっかり確かめる事で、その時代は健康状態を見て来た。今の様に医療化学も進歩していなかったし、保存も出来なかったからね。古い時代からエーランは剣豪として、儀式上で勝ち取った勝負相手の血液を採取し飲み下す風習があった」
ガルドは凄い顔をして肩越しに見上げつづけ、顔を戻した。
「へえ……」
腕をさすり、ガルドはブルルと震えた。
暗い中、ミラーからの光に照らされるガルドの金髪に視線を落とし、カトマイヤーは覗く首筋を見つめた。またこの猫はどこにでも忍び込んだのか、あのエーランの主に血を吸い取られた痕が残っている。あの首筋に、舌が這ったのだろう。
あの頃、ジルの首筋にもエーランの前主の唇が台横から寄せられた時の様に。一定量の血液が飲み込まれるまでの、それを見ている時は夢現のようで、今でも台の上横たわるジルがいつでも、まるで死体のように見えた事を覚えている。寒い空間、月明かりさえ差し込まない古城の地下で、まるでエーランの主はヴァンパイアかのように見えた。
いつでも、そのまま彼が目覚めなかったらという小さな恐怖が、微かに小さな体を駆け巡っていた。
地主だけが行なう物で、将来、自分もそれを受け無ければならない事を小さな頃の彼は心なしか恐れていた。リカーから怖いことを聞かされると、いつでも怖がらせてくる姉から顔を反らし走って行った。時々、エーランと気が合わなかったりすると、そのまま目覚めなくなるのよと。これは相性の問題で、どうにもならない事なのだと。本当の継承者じゃ無い時なんて、一気に苦しみもがいてあの世行きになるんだから。そう、言って来た。
正式な継承者……。
別にそれは単なる言葉の悪戯で、血統関係無く誰でも可能な健康法に他ならないと分かっている。それでも、ガルドの首筋を見つめては。正式な継承者として受け入れられた、その言葉が浮かんだ。
それは、カトマイヤーにとっては、喜びに他ならなかった。




