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コーネリア・キルドレーン

 暗闇の中から突如、青白い手が現れ、ベッドで眠っていた少女の首を締め上げた。少女は呼吸ができない苦しさで、もがきバタついたため、首を締められた状態のままベッドから床に落とされた。少女の視界に、痩せ衰えた老人の顔が大きく映し出された。老人の歓喜に満ちた甲高い笑い声が、少女の失いかけた意識に渦巻いた。


 二○八九年七月十六日 午前六時三十分

「やめてー!」心の叫びとともにコーネリア・キルドレーンは目を覚まし、ベッドで上半身を起こした。恐怖に震える身体を弱々しく抱きしめながらベッドから立ち上がり、寝室を出て洗面化粧台へと向かった。水栓を捻って勢いよく水を出し、二度、三度と顔に水を浴びせてから白いタオルで拭った。鏡には、彼女の澄んだ碧色の瞳、うすく艶やかな唇、長くしなやかな金色の髪が映し出されていた。

 “タンドウィッチ連続殺人事件”……九年前、英国ロンドンの小さな田舎町であるタンドウィッチで若い女性ばかり三十三人が殺害されるという歴史上稀にみる猟奇殺人事件が起こった。当時、父親の仕事の都合でロンドン市内からこの町を訪れていた少女には、生まれつき不思議な能力が備わっていた。その能力が、これまでにニュー・スコットランド・ヤードの憂鬱の排斥に幾度となく貢献してきたのは周知の事実だった。少女は、七十〜八十代の老人を犯人像としてプロファイリングしたが、この時ばかりはニュー・スコットランド・ヤードも世間も信じなかった。ある三流スポーツ紙だけが、この事件の犯人像を様々な角度から検証していた。

 その三流スポーツ紙の朝刊に少女のプロファイリング記事が載った日の夜をまたいだ七月十二日の午前三時頃、宿泊先のホテルで、少女は命を狙われた。母親を幼くして亡くし、父親と二人暮らしだったが、この日父親は仕事が徹夜となり不在だった。


 鏡の中の自分とにらめっこをしてから、微笑んだ。そう、あれは決して恐ろしい思い出だけではなかった。


「もう、大丈夫だよ」透きとおるような声が、床に倒れ込んでいた少女を優しく包んだ。

 薄れゆく意識の中で、少女は弱々しく呟いた。

「だ、誰?」カスパール・ダヴィッド・フリードリヒの絵画のように淡く、それでいて何かに敢然と立ち向かっているような力強い後ろ姿がそこにあった。

 振り向いて膝をつき、右手を差し伸べる男を、カーテンのかかっていない窓から降りそそぐ朝日の逆光は眩く浮かび上がらせていた。

「良く頑張ったね コーネリア」

 心地良いその声と微かな甘い香りが、少女を安らかな眠りへと誘った。


 一瞬の閃光が走り、複数のエア・プレーンが爆発・炎上する情景が少女を目覚めさせた。


 気が付くと、少女は病院のベッドの上にいた。少女が現場からタンドウィッチの病院へ緊急搬送されてから二日が過ぎていた。

 父親のマックス・キルドレーンは心配そうに少女をのぞき込んでいた。

「コニー、コニー……パパだよ。パパがわかるかい?」

 少女は、ゆっくりと頷いた。

「もう大丈夫ですよ。ただ、PTSDの心配があるので、退院は少し様子を見てからにしましょう。何か変わったことがあったら遠慮なく仰って下さい」マックスの左隣りにいた医師は言った。

「先生、本当にありがとうございました」とマックスは医師に深々とお辞儀をした。

「お大事に」少女に声を掛け、医師は病室を出て行った。

「よかった……無事で」安堵の表情を浮かべる父親の背後に、人の気配を感じた。

 父親と同世代ぐらいで落ち着いた雰囲気の女性は、ニュー・スコットランド・ヤードのジェシカ・マイルズと名乗った。少女を襲ったのは、“タンドウィッチ連続殺人事件”の犯人バーナード・プーリエ(七十六歳)で、“メイド・イン・ヘヴン”を常習し、選民思想にかぶれた狂信者であったことを聞かされた。その後、ニュー・スコットランド・ヤード上層部の人間が謝罪に訪れたが、少女には、もうどうでもいいことだった。助けてくれた男の人が誰だったのかマイルズに尋ねたが、現状ではまだ誰かはわからないという返事だった。老人に少女が襲われたという匿名の緊急連絡を受け、現場に踏み込んだ捜査官は、両手両足をレースのカーテンでぐるぐる巻きに縛られ床に転がりもがいている老人とベッドの上で意識を失っている少女の他には誰もいなかったと報告している。現場で支離滅裂な言動を繰り返す老人の身元を調べ、家宅捜索した結果、連続殺人事件の被害者の所持品とみられる三十三個のアクセサリーが発見された。紛失した所持品リストと照合し、すべてが合致したため、連続殺人の決定的な証拠となった。


 この二日後、二○八○年七月十六日未明 横浜。世界最大級の旅客数を誇るJ社のエア・プレーン『スーパージャンボ』(JS2000)五機が、予定のコースを大きく外れて墜落するという事故が起きた。ランドマークタワーから横浜球場を結ぶ直線上に『スーパージャンボ』五機が次々と墜落した。ランドマークタワーは勿論、桜木町駅、関内駅、石川町駅、市役所、県庁周辺が壊滅状態となった。乗員・乗客合わせて五千九百九十七名。事故に遭遇した市職員や会社員、買物客に観光客八千二百七十四名の死亡が確認された。多くの行方不明者も含め、被害者の正確な数字は未だに掴めていない。そんな中、消火活動に従事していた消防隊員から、ランドマークタワーが跡形なく崩壊して爆炎が渦巻く地獄のような現場で生存者を目撃したとの報告が入ったが、一笑に付された。このエア・プレーン墜落事故は、後に『MM21大災害』と呼ばれた。


 突然、目覚まし時計のアラームが鳴り響いた。一瞬、ビクッとしたコーネリアは、洗面化粧台から素早く寝室に戻ってアラームを止めた。部屋のガラス窓を開け、ベランダへと出た。早熟した身体を覆い隠すようなブカブカのパジャマ姿で手摺りに持たれ掛かる。夏の朝の涼しさを身体一杯に感じとり、大きく背伸びをした。

「よしっ」と気合を入れて部屋の中へ戻っていった。


 現在、東京は首都としての輝きを失いつつあった。『MM21大災害』によって壊滅した地域の復興と拡張を兼ねた『MM21創世記計画』が開始されて以降、日本の中心は徐々に横浜へと移っていた。反面、開発という砦を失った東京近郊には緑が増え、閑静な佇まいが戻りつつあった。行政・立法・司法それぞれの機関や医学系の研究施設などは今も都心に集中していたが、情報の発信拠点はやはり横浜だった。


 二○八九年七月十六日 午前八時 東京

 コーネリア・キルドレーンは、自宅マンションがある国立市から郊外の緑に囲まれた私立の美術大学に三十分ほどかけてバスで通学していた。

 肩にハンドバックをかけ、淡いピンクのポロシャツにベージュのペインターパンツ姿の彼女は、自宅マンションから歩いて五分ほどの距離にあるバスターミナルでバスを待っていた。

 彼女の前に、いつもより数分ほど遅れてバスがやって来た。乗降口の扉が開いたのでステップに足をかけ乗り込んだ瞬間、おぞましいほどの敵意が自分に向けられているのを感じた。振り返って降りようとしたが、すでに扉は閉められ、いつの間にか後頭部に金属製の硬く冷ややかなものが押しつけられていた。

「残念だったな、お嬢さん」背後の男からではなく、彼女の頭の中に直接声が響いた。


 バスジャック犯の指示で通常のルートを大きく外れたバスは、山奥へ向かって走っていた。警察にバスジャック発生の報が入ってからすでに四時間が過ぎていた。地上はバスを牽制しつつ距離をとって追走する警察車輌で、上空は警察やマスコミのヘリコプターで、バスの移動にシンクロするように大移動していた。バスジャック犯からは何の要求も出されないまま、時間だけが無駄に過ぎていた。

 バスの車内には、運転手を含め十四名の乗客が捕らえられていた。コーネリアはいつもと同じ、右列前から二番目の二人用座席の窓側に座っていた。他の乗客は、いつもと同じ顔ぶれで、いつもと同じ決まった席に座っていた……ただ、いつもと違うのは、フロントガラスを背にし、運転手の横に立つ見知らぬ男が、この狭い空間の自由を完全に支配していたことだった。男は、左手のハンディータイプ10連射ボウ・ガンで運転手を、右手のサブマシンガンで乗客へと狙いをつけたまま微動だにしなかった。

 バスは山の斜面に差しかかり、コーネリアは右横の窓を見た。彼女の視界に深く漆黒の谷底が飛び込んできた。

 乗客に疲れが見えはじめ、これ以上は危険だと判断した彼女は、普段は意識的に閉ざしている心の触手を伸ばした。バスジャック犯の心理面に接触して、ハッとした。与えられた命令の遂行のみを演算しているパルスが、オートマトンであることを物語っていた。むやみにパルスの流れを変えることは、オートマトンの暴走に繋がる危険性があるので、パルスを停止させることにした。その時、彼女の頭の中に何者かの声が響いた。

「ヤメロ! 機能停止ト同時ニ自爆スルゾ。今ハ何モ行動セズ、ジットシテイロ。乗客ハカナラズ何トカスル」

「あ、あなたは誰? 何処にいるの?」

「私ハ、ビル……ン?……マズイ、奴ガ来ル……出来ルダケ意識ヲ閉ザシテイロ、イイナ」

 彼女の右横の窓ガラスに、青白い顔で瞼を閉じた見知らぬ子供が映っていた。窓の外は谷底のはず……違和感を感じて、通路を隔てた左側の座席の方へ振り向いたが、それらしい子供の姿はなかった。再び右横の窓ガラスに視線を戻した時、胸を貫かれたようなショックが彼女を襲った。子供は血のように赤く染まった瞳を見開いていたのだ。まるで窓ガラスの世界に幽閉された吸血鬼のように。

 子供は、窓ガラスの中をゆらめきながら移動し、フロントガラスの中にその姿を映し出した。パニック状態に陥った車内で、サブマシンガンの銃弾がバスの天井に向けて発射された。窓ガラスから抜け出るように、二次元世界から三次元世界へと実体化した子供は、オートマトンの前に立ち、乗客に向かって語りはじめた。

「もう少しの間だけ辛抱してろ! クソ野郎ども。すぐに楽にしてやる。すぐにな」その容貌からは想像出来ないやさぐれた口調だった。

「気づいてるだろうが、俺は“ヘブンズチャイルド”だ。愚かでクソみたいな親のおかげでこんな身体になっちまった訳だが、今では感謝すらしている。こんなにスゲー能力が手に入ったんだからな。お前らクソ野郎どもからしたら、俺は神様に見えるだろ?」

 子供の視線が、コーネリアを捕らえた。

「お前だけは、別かな?」

 彼女は、息を呑んだ。そして、勇気を出して子供の心理面に接触を試みた。意識内には、底知れぬ闇が広がっており、その闇が渦を巻いて彼女の意識を引きずり込もうとする。必死で抗う彼女を嘲笑うかのように闇が支配力を強めていった……苦しくはなかった。むしろ眠りに就く時のような安らぎさえ感じた。

 細い道が続くなかで、あちこちに設けられた車がすれ違うための少し広めの道幅に差し掛かった瞬間、急ブレーキがかかり、乗客全員が悲鳴を上げて前方につんのめった。バスは、前輪を支点にして左回りで車体の後部分を激しく振った。乗客の悲鳴は絶叫となり、車内は、再びパニック状態となった。そしてバスは、幾度か小刻みに揺れた後に停止した。

 車内にタイヤが破裂したような音が響いた。その時すでに、運転手は扉の開閉スイッチを押して乗降口の扉を開けていた。彼は、急ブレーキで体勢を崩したオートマトンを開いた扉からバスの外へ左足で勢いよく蹴り飛ばした。オートマトンは、谷底に吸い込まれるようにして落ちていった。運転手の左手には、銃が握られており、銃口から硝煙が上がっていた。先程、タイヤの破裂音と思ったのは銃の発射音だったのだ。

 狂気の叫び声が響きわたり、コーネリアを捕らえていた闇は一瞬にして消滅した。

「クソー だ、誰だお前? 俺に、この俺に……ゴホゴホッ……」両膝をついた状態で子供は弱々しく咳き込み、右手で胸を押さえていた。胸元から大量の血が着衣に滲み出していた。

「私は“ヴァーミリオン・サンズ”のビル・ダイノートンだ」

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