叛乱
二○八九年七月十四日 午後七時
「楽園の向こう側はどんな情景だっただろうか?」
最近では、延命技術の発達により平均寿命は飛躍的に延びていた。統計によると男性で一○二・五歳、女性で一○六・一歳である。重要な地位に就いている人物ほど顕著で、一五○歳を超える政治家も珍しくはない。そんな中、死に支配されない特別な肉体を持つヨナ・ストラヴォにも記憶に翳りが見えはじめていた。重力によって醜く垂れ下がった肥満体を疎ましく思いながら深いため息を漏らした。
「ん!」
彼の視線の先にある巨大な扉がゆっくりと開きはじめた。仄暗い室内に光が満ちていった。
ヨナから見て左列の一番手前に座っていたオットー・シモンズが立ち上がり、扉の方に振り向いて怒鳴った。
「遅いじゃないか! ギーヴァ?」突然の光景にシモンズは続けるはずの言葉を失った。
ネストル・ギーヴァーの背後に潜んでいた何ものかが凄まじいスピードで弾け飛んだ。次の瞬間には、出入口の扉という扉全てに完全武装したミュルミドン兵士が立っていた。
瞬きが起こり、室内全ての照明が灯された。部屋はその全貌を曝け出した。中央に位置する長方形の会議卓に中央祭壇から見て左列に十二人、右列に十一人。その二つの列を頂点で繋ぎとめるように、中央祭壇を背にしてソファーに深々と座っているヨナ統一議長。彼から見て右列の一番手前はギーヴァーの席で、空席となっていた。
ただ茫然と立ちつくすだけのシモンズ。ギーヴァーを除く“二十四賢老”のどの顔にも驚愕の表情が浮かんでいた。
『賢老会議』特別会議室は、Gタワーの地下に存在する。地上の聖堂とは、同じ内部構造であるが、礼拝者が座るための椅子は全て取り外されており、中央に巨大な長方形の会議卓が置かれている。中央祭壇も十字架に磔にされたキリストの彫像ではなく、高々と右手を上げているフリボリッツ系企業連合創始者K・フォン・フリボリッツの彫像が置かれていた。彫像は眼下で繰り広げられているこの事態をただ静かに傍観していた。
「これはどういう事か? ネストル・ギーヴァー」ソファーからだるそうに身体を起こし、会議卓の上で祈るように両手を重ねた。その上に重い頭部を乗せ、統一議長は静かに尋ねた。
ギーヴァーは扉を後手で閉じ、対角線上に位置する統一議長に会議卓の左側(統一議長から見て右側)からゆっくりと近づいていった。
弱々しく席に座り込んだシモンズは、氷のように冷ややかな眼光のギーヴァーに得体の知れぬ恐怖を感じはじめていた。ギーヴァーが会議卓を挟んで彼の前を通り過ぎた時、一筋の汗が額をつたわり眼鏡に滴り落ちた。
ギーヴァーは統一議長の背後からブヨブヨに腫れ上がった両肩に手を置き、耳元に何かを囁いた。
ふだんはまったく微動だにしない統一議長の眼球周辺の筋肉が痙攣し、瞳孔が大きく見開かれた。
統一議長は、訝しげにギーヴァーに振り返った。
ギーヴァーは、精神的に優位な立場の人間が見せる冷笑を一瞬、口元に浮かべた。
それを見た統一議長は、視線をゆっくりと会議卓に戻し、全てを諦めたようにうなだれてしまった。
ギーヴァーは、統一議長から離れ、自分の席の前に立った。
「“二十四賢老”の同志諸君! 非常に残念な事でありますが、統一議長のヨナ・ストラヴォ氏は身体の不調を理由にその職を退かれることとなりました。氏は、このネストル・ギーヴァーを後任として指名され、私はこの栄誉を快くお引き受けすることに致しました」
「この裏切り者!」「身の程をわきまえろ!」その他、ありとあらゆる罵声が飛び交った。
ギーヴァーは、かまわず話し続けた。
「私は、最高存在である統一議長の権限において、『賢老会議』を解体し、新たに『特別公安委員会』として再編成します。『特別公安委員会』の定員は十二名とし、当然のことながら人選から外れた方には勇退していただきます。また『賢老会議』直属の実行部隊“ミュルミドン”の指揮権は“二十四賢老”から統一議長へ移行します」
ざわめきはさらに激しくなっていった……その時
「諸君、いまネストル・ギーヴァーが言ったことは、儂の……このヨナ・ストラヴォの統一議長として最後の我が儘だと理解してもらいたい。本当に申し訳ない」
ざわめきは沈黙へと変わった。
ギーヴァーは、K・フォン・フリボリッツ像と同じように厳かに右手を上げた。
「私、ネストル・ギーヴァーは『特別公安委員会』初代委員長として就任することをここに宣言する」
ミュルミドン兵士から喝采の拍手が沸き起こった。
ステンドグラスに彩られて、神々しいまでのギーヴァーと暗く闇に沈んだようなヨナが対照的な一瞬であった。
小刻みに震えながらシモンズは、会議卓を両手で叩いて立ち上がった。
「み、認めん。絶対に認めんぞ、ギーヴァー」
「オットー。君の出る幕ではないよ。口を挟まないでもらおうか」
「だ、黙れ! この私を誰だと思っている。ロックス=ヒル系企業連合のCEOだぞ。ロックス=ヒルを敵に廻してただで済むと思っているのか?」
シモンズは、言いようのない不安に支配されていて声の震えを抑えることが出来なかった。
「ソニアンだってそうだろう? ロムルス・オコナー」ギーヴァーの右隣に座っているソニアン系企業連合のCEOに賛同を求めた。
「……」オコナーは腕を組み、黙ったまま口を開かなかった。
シモンズは、溢れ出る汗を拭うことにすら頭が働かなかった。恐怖心から完全に自分を見失っていた。
「私はミスター・ロックス=ヒルのオットー・シモンズだ! クソ! クソ! このファシストめ! お前が破滅する瞬間を見るまで、抵抗し続けてやる!」
「破滅の瞬間だって?……ハッハッハハハ……バカだね、見れやしないよ」
「?……」
消音銃が発射された微かな気配がした。次の瞬間、シモンズの右の眼鏡がピシッという音とともに割れた。右目から血飛沫が上がり、糸が切れた操り人形のように力なく会議卓に崩れ落ちた。
会議室にどよめきが起こった。
ヨナは、苦渋に満ちた表情で、会議卓にうつ伏せに倒れているシモンズの死体を見つめていた。